16、父ハナオの容態
アフガニスタン・カブールにいるシンイチは、現地で活動しているハヤサキ、ムラオカさんと出会う。現地の実情、最新事情に耳を傾ける。一方、日本・下町の「西域ラーメン店」では、父イヌイ ハナオが、ガンとの診断を受ける。
ハナオは、昨日から抗ガン剤点滴を始めた。妻ミキ子が必ず病院には連れ添う。しばらく毎週の診察と3週間に1回の点滴。副作用の出現はミキ子にとってもかなり心配であったが、今のところ、症状は、少しお腹が張る程度だという。
それと、本当はシンイチにも知らせたい。旅行中、行方知らずのシンイチに伝える手段なんてない。友人のアキヤマからはシンイチが元気でいることは確かだ、と連絡があり、ひとまずホッとはしている。と、考えていたところで今度は、ハナオのガン宣告という一大事がやってきてしまった。
(状況は一転するかもしれない。今、3重にも課題が降りかかってきている。けど、きっとなんとかなる。)
仏様の前で、拝むのはミキ子にとって毎朝の日課だったけれども、目をつぶると先代ハルゾウの顔を思い出した。嫁いだばかりの頃、先代ハルゾウとハナオ2人で店を切り盛りし「西域ラーメン店」は潤っていた。店だけでなく、通りの商店街には活気があった。毎月、蚤の市が開かれた。テキヤの屋台がその日は突き当りのお宮までぎっしり並ぶ。子供たちも大勢集まる。若い人たちもグループやカップルで、縁日を楽しんでいた。
それが、今では屋台が2~3件。蚤の市といっても、ポシェットや靴、サンダルがならんでいる出店が数軒のみ。流行を捉えているという兆しもない。すっかり通りに人気が無くなってしまっていた。
先代ハルゾウがこの状況を知ったら、さぞ落胆するだろう。以前は、シルクロードの写真に飾られた店の装飾が、もの珍しさと異国情緒を醸し出して、家族連れから、若い人が店に次々やってきたものだ。今では、その自慢の内装に、長年の脂が染みついてしまって褪せているだけ。
ハルゾウさんのためにも、とミキ子は思う。「西域ラーメン店」を再興させなければ...。そういえば、ハルゾウさんも、私たちが結婚してしばらくしてガンで亡くなった。それで、夫のハナオさんに、ガン保険だけは加入してもらっている。そうか...。
「父さん、大丈夫か?」
次男ジロウが店に顔を出した。
「今日はたまたま仕事が休み。あとは毎日、忙しくて、実家になんか滅多に来れない。」
「父さんは、奥の部屋で今は寝ている。けど、今日も店に立つって。」
「そんなんで仕事できるのか。」
「父さんのことだから、意地でも仕事は続けるよ。」
「急に倒れないでくれよ。」
ジロウは、やんちゃで反抗的なところもあったが、一面、情に厚いところがある。男兄弟3人育てていれば、それぞれの個性は手に取るようにミキ子は理解している。
ジロウは、父ハナオの寝床へと入って行く。
「父さん、どう?」
「ああ、今はまだなんともない。」
ハナオはジロウが帰ってきたことに気が付いて目を覚ましていた。
顔色がよくない。それと身体から発する覇気に欠けてしまっているようだ。
「仕事無理しないでくれよ。店に出れなくなってもいいから。この際仕方ない。」
ジロウは母ミキ子に兄シンイチはどうしているのか、と聞いた。
「シンイチの友人、アキヤマという人から電話があって、元気でやっていることは確かですから、とのことだったよ。居場所は”西アジア”って言ってた。詳しくはわかっていないようだったけど、それを聞いただけで安心した。」
「全く、この状況を知っているのか。シンイチ兄さんどうかしてるよ。俺たち大変な目に合っているのに。」
「シンイチは知るわけない。ただ、帰りを待つだけだよ。」
「バカヤロウだ。兄貴は。本当にもう帰って来なくていいよ。何年でもいいから好きな外国に行ってろ。」
ジロウは吐き捨てるように両親の前で、兄シンイチを非難している。その気持ちもミキ子にはわかる。兄弟仲良くしてもらいたいけど、今までも確執はあったのだ。そしてこの家族の状況なら、叫びたくもなるだろう。
「カズミには余計なことは言わないでおいてくれよ。シンイチは、外国で医療ボランティアをしているってことになっているから。父さんが、ガンってことは言ったけど。」
ミキ子は、声を低くし、ハナオには聞こえないように、
「別に今すぐ死んでしまうとか、そういうイメージはないらしかったよ。店に立っているんだからね。...きっと元気になるよ。」
ミキ子は、エプロンで涙をぬぐいながら話した。
ジロウは、このままでは、生まれ育った「西域ラーメン店」はもう閉店するしかないのか、と悔しくも感じていた。
その日ジロウは、もう店には来なかった。
きっと、パチンコにでも行っているのだろう、あの子は不良染みたことがあるけれども、根は両親想いだ、誰にも相談できず、考え事でもしているのだろう、とミキ子は思うしかなかった。
ハナオが抗ガン剤点滴を行い、3日目。突然、ハナオは吐き始めた。厨房で、物凄い嗚咽をしている。営業中だったので、一人いた馴染みの客も、どうしたのか、と驚いている。シンクに顔をうずめ、唾液を垂れ流すように吐いていた。これが、副作用なのか。
ミキ子は、ハナオを奥の台所に連れていく。そこでまた、嗚咽を始めた。近所にも響くような異様な雄たけびを上げるような声を出していた。白い唾液のようなものだけを何度も吐いた。
「苦しい。」
ハナオは初めて、諦めるかのように苦しさを訴えた。この人からそんな言葉を聞いたことはなかった。
嘔吐は2~3時間おきに、急にやってくるようだった。その度にしばらく台所のシンクに顔をうずめる。もう店の厨房に立っていることは無理だった。
「ハナオさん。もう今日は店じまいするよ。寝ていた方がいい。」
「ああ。」
(急用につき、本日休業)
西域ラーメン店は、開業50年で初めて、臨時休業となった。
ハナオの激しい嘔吐は続いていた。ハナオは苦しさしかったけれども、食事そのものを吐くと言うことはなかった。ただ、白い唾液を垂れ流すのみ。しかし、消化管が絞り出されるように喉元に迫ってくる感覚は、吐く内容がない分、余計に苦しく感じた。痩せた。お腹だけは張っているけれども、たちまち腕、脚の筋肉が落ち、頬がこけ始めた。
「厨房に立つのは無理か。ミキ子。これ。」
一枚の小さな紙きれをミキ子に渡す。先代ハルゾウが残していた醤油ラーメンタレの詳細レシピ。醤油・胡椒・黒コショウ・ゴマ油・みりん・酒・塩などの調合具合が記入されている。誰にも見せる事のなかった極秘のメモ。味噌タレ、塩タレのレシピも記載されている。たったこれだけの内容であったが、ハナオにとっては、先代ハルゾウから託された秘宝の紙きれ。
「ハナオさん。いいのかい。」
「これで作ってみてくれ。今あるタレの貯蔵が無くなったら。」
秘伝のタレの作成は、2週間に一度、スチール缶にたっぷり作る。あと、1週間分はあるだろう。切れる前には、どうでも作っておかねばならない。
頼りになるのは、ジロウだけだ。ジロウなら、文句を言うだろうけど、時間が取れれば協力してくれるはずだ。けど、あの子は、調理なんてしたことはないだろう。ひとまず連絡を取るしかない。




