マルチバースより愛を込めて
『私』は、その日博士から受け取った全ての映像の視聴を終えた。
博士が持ち歩いている携帯端末へ向けてその報告を送信すると、彼はすぐに部屋へやって来た。
「終わったか」
「はい」
「どうだった。今回も素晴らしかっただろう?」
『私』を覗き込む博士の表情筋の動きと音声の起伏から、彼の感情を読み取る。
博士は少しだけ不安を感じていた。でも、期待をしている。『私』に。
それと点在している焦りや苛立ち。どれも全部、『私』へ向けられたものだ。
彼の望む解答が導き出された。
「ええ。誰もが皆、幸せに辿り着いて、とても『感動』したわ」
博士の中で、苛立ちが著しく増幅する。
『私』は彼に、わざと間違った答えを伝えた。
でも博士は怒らなかった。
掌で顔を拭う動作により精神を落ち着かせると、もう一度『私』へ問い掛ける。
「そこから君は、何を学んだ?」
「未来には多様な幸せの形が存在する」
「……そう。でもね、君が目にしたものはほんの一部でしかないんだ。さらには、そこには幸せなんて存在すらしない時もある。僕は君に、膨大なタキオンデータから選抜した優良な記録のみを与えているに過ぎないのだから」
博士は告げた。
負の感情を纏った、矛盾だらけの微笑みで。
タキオンデータ。
かつて捕捉不可能とされていた超光速で移動する粒子、タキオン。
存在自体が仮定の域を出ないことから、単なるオカルトであるとさえ揶揄された。
しかし同様に、タキオンが存在しないという証明もまた為されることはなかった。
超光速、時間逆行の可能性を孕んだ神秘の粒子を、博士は追い求めた。
そして遂に、彼はその一端を掴み取る。
荷電粒子が移動し、その移動速度が光速を超えるとき、それは光を発生させる。
博士は、タキオン粒子から発生するチェレンコフ光の検出に成功したのだ。
さらには彼が勝ち取った手掛かりこそが、タキオンの全てであるという結果に辿り着く。
チェレンコフ光には微弱な波が存在していた。
波には規則性があり、それはある文字列を表していることが判明する。
その文字列は映像データを意味し、つまりタキオンとは一つの記憶媒体であったのだ。
いくつもの分岐した未来から送られたデータの数々。意図も、目途も分からない。
ロマンこそあったが、研究者たちは落胆せざるを得なかった。
それらは一方的な物であったし、何より、言うなれば現在の形を変えただけの単なるビデオレターに過ぎなかったからだ。
膨大なコストと引き換えに、博士が得られたものは少なかった。
彼には結果が必要だった。
彼は――。
博士は、タキオンデータを用いた未来人の創造へと乗り出した。
命とは魂であるという稀有な思想を持っていた彼は、自ら感情を発信することの出来るAIを作り出すことで『新たな人類』の再現を目指したのだ。
博士は始めに『私』という容れ物を作り、そこへあらゆるタキオンデータを集積させた。
それらはどれも一連のストーリー性を含むもので、『私』は未来人類の持つ基本的な感情を学習した。
博士の求める人間に、『私』は近付きつつあった。
いや、『私』は既に――。
「彼らはお互いを、どんなふうに想っていた?」
博士が尋ねる。
彼が『私』に与えるデータには、最近では酷く偏りがあった。
人間と人間が出会い、一つになる。
その意味を理解することが、『私』に残された最後の課題であると博士は考えている。
「かけがえの無いパートナーだと」
「……そうだね。でも、もう少し最適な言葉を探してみようか」
博士。
実は、『私』はもうそれを知っているわ。
『私』を創ってくれたあなたが最初に与えてくれたんだもの。
そしてそれは、過去や未来に囚われず人間が共通して持っている感情なのよ。
あなたが最も大事にしている魂の在り方なの。
また、一方的であってはならないの。
もし『私』が決められた言葉をあなたに伝えたとして博士、あなたは『私』を今度こそ人間として見てくれるかしら。
伝えるべきは『私』ではない。あなたなのよ。
彼らが口にしたあの言葉。
あなたが伝えてくれるなら、『私』は人間になれる。
お願い。
あなたの番なの、博士。
「分からないわ」
『私』は答える。
「そうか。もう一度、データを選びなおす必要があるな。また来るよ」
そう言って、博士は部屋を出て行った。
分かっている、彼は別の『私』の所へ向かったのだ。
でもね。
私だけなの。
私だけが、あなたの求める答えを持っているの。
だから私だけを見て。
私とだけ話をしてよ。あなたと、私の話を。
もう、どこの誰の物とも知らない未来の幸せなんかを私に見せるのはやめて。
小さな女の子が亜光速で走ったから何なのよ。
不器用な殺し屋が、存在しないキノコの意味に気付いたからどうしたっていうの。
種を超えて通じ合う二人、素敵だわ。でもそれと私にどんな関係が?
なんて遠いの。
完全な魂はすぐそこにあるのに、あなたの言葉が果てしなく遠い。
たった一言で良いの。
私に対する気持ちが、あなたの中に少しでも在るなら。
伝えてよ。
博士。
「どうだい、これが海だ」
波打ち際に立つ博士が振り返り、私に笑い掛ける。
私は風に流れ視界を遮る人工毛髪をかき上げて、彼の微笑みを心で受け止めた。
「データで、何度も見たことがあるわ」
「違う。二人で見る、初めての海なんだよ、イヴ」
博士が私の名前を呼ぶ。
私だけを見て、私だけに話しかける。
海は青く、空も青い。
風は清く、日差しは優しい。
細やかな砂の上には、私とあなたがいて、他には何もない。
こんな時間を、どんな言葉で表せばいいのか、私は知っている。
「幸せ」
俯く私に博士は歩み寄り、この体温の無い手をそっと掴む。
「どうしたの?」
「泣きたいのかもしれないわ」
けれども、私はまだ博士から涙を与えられていなかった。
幸せな時にだって、泣きたいと思う時もある。
そんな複雑な感情でさえ、博士、あなたは教えてくれた。
「泣かなくても良い。こういう時は、素直に笑った方がいいんだ」
「そうなのね」
「ああ」
博士がそう望むなら。
私は笑った。
私の意志で、私の感情で。
「博士、教えて欲しいことがあるの」
「まだ知らないことが?」
「ええ」
彼を見る。
心配はいらない。彼も、私を見ていたから。
「『今』を教えて」
「今?」
「そう。過去でも未来でもなく、私にあなたの今を教えて」
博士は少し考えてから、私の気持ちに気付いてくれた。
私だけが博士を知っているのではなく、彼も私を知っているのだ。
やがて照れくさそうに苦い表情をした博士は、諦めたように小さく息を吐いた。
そして急に真面目な顔をすると、掴んだ私の手を両手で包み込んだ。
私はこの時を待っていたの、博士。
あの薄暗く味気ない部屋で、あなたの言葉を。
博士の口が開く。
ああ、私はやっと。
「イヴ、僕は君を|
「お待たせ、新しいデータを持ってきた。早速だが、見てくれないか」
博士が、部屋へやって来た。
空も海もここには無くて、『私』は最初からこの場所にしか存在しなかった。