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81、52R 《後》

 夏休みも2週間を消費し、僕は相変わらず部屋に籠っていた。

 両親はどこかへ連れて行ってくれると言ったけど、僕にはやることがある。

 ラビのことを調べ、彼女をもとの居場所へ帰してあげなくてはならない。


 朝食を終え、すぐさま部屋に戻って来た僕は机に向かう。

 そしてペットボトルのフタに入れて来た水を綿棒に吸わせ、それをラビに飲ませる。

 ラビは、食べ物が要らない代わりに水だけを欲しがった。

 彼女がそう言ったのだ。ただし牛乳などではなく、何も入っていないただの水だ。


 水を飲み終えると、ラビは右前脚を上げた。それが合図。

『ありがとう』

 ラビはちゃんとお礼の言える昆虫だった。

 そしてなかなかに聞き上手であった。

 どれも淡々としてはいたけど、彼女は僕のどんな話にも相槌を打ってくれる。それも適切な言葉で。

 頭が良いのだ。日本語だって、すべて独学で覚えたのだそうだ。


 ラビは段々と、僕の事を理解してくれているようだった。

 でも僕はラビの事を良く知らないままだ。

 彼女の事をもっと知りたい。

「ラビ、ちょっと出かけて来るよ」

 僕はそう言って立ち上がった。

 ラビは『いつてらつしやい』と言って見送ってくれた。




「どこ行くの?」

 玄関先で母が尋ねてきた。

 靴を履きながら、振り返らずに答える。

「ちょっと図書館に」

 あそこならきっとたくさんの図鑑が置いてあるし、歩いて行ける距離だ。

 僕は家を出て、焼けるような陽ざしの中、歩き出した。




 蝉の声がうるさい。

 僕が通う中学校の前を通りかかったとき、それは特にやかましく聞こえた。

 グラウンドを囲むように植えられた桜の木に、蝉たちはとまって喚き散らすように鳴いているのだ。

 プールのほうからは水泳部員の声も聞こえる。ときおり聞こえるホイッスルの音の後、彼らは歓声を上げる。蝉のように。


 夏は騒がしかった。

 眩しい太陽も、真っ青な空も騒がしく、遠くの入道雲だけが優しそうに立ち昇っていた。

 それでも、きっとあの雲の下は雨や雷でまたうるさいのだろう。

 僕だけが静かに、陽炎が揺らぐ灼熱のアスファルトを歩いている。

 



 図書館に到着し、開かれたドアから心地よい冷気が溢れた。

 クーラーがよく効いている。

 汗ばんだ体が冷やされ、暑さでぼうっとしていた頭も一気に覚める。


 僕は一階の図書室へ向かい、『生物』のコーナーを探した。

 昆虫の棚に置かれた本は多くは無かったが、それだけに必要な物だけが揃っている。

 いくつかある中から『原色甲虫図鑑』を取り、僕は2階の閲覧室へ歩いて行った。


 閲覧室は受験生たちや暇を持て余した大人たちでそれなりに混んでいた。

 しかし誰もが黙って机の上の文字へと集中しており、ここでもクーラーがやり過ぎなくらい効いている。

 最高の読書環境だ。


 僕は窓際のテーブルに着いた。

 そこにはおじいさんが一人で本を読んでいるだけであり、彼の正面に座った僕は早速持ってきた図鑑のタマムシのページを開く。

 最も有名なヤマトタマムシを筆頭に、数種類のタマムシが掲載されているが、それらはたった数ページに収まるほど少ない。


 また、銀色のタマムシなんてやはり見当たらなかった。

 なんとなく分かってはいたものの、僕は落胆した。


 タマムシはひと夏でその命を終える。

 つまりラビは秋までには死んでしまうのだ。

 もし彼女が本当にタマムシであればの話だが……。

 とにかく僕は毎日寂しそうにしているラビを仲間の所へ帰してやりたい。

 どんなに小さな情報でも良いのだ。彼女を知る手掛かりがなんとしても欲しい。


 念のためタマムシの属する多食亜目を一通り調べるも、ラビの手助けとなるようなものは一つとして見つけることが出来なかった。

 じりじりと焦りだけが募っていく。


 次に僕は受付の人にお願いをして、かなり古い本も保管されている重要図書保管庫に入れて貰った。

 ここは許可さえあれば誰でも入れるのだが、わざわざこんな昔の本しか置いていない場所に来る人間など僅かしかいない。

 今日は僕意外には誰もおらず、薄暗い保管庫は無音に近い静寂に包まれていた。


 いくつも並ぶ本棚の中から、昆虫図鑑を探す。

 そして見つけたボロボロの赤茶色のハードカバーを手に取り表紙を見ると、そこには『新・日本昆虫図鑑』と記されていた。


 僕は索引からタマムシの文字を見つけ出し、そのページを開いた。

 しかし細かい文字で長々と書かれた文章の上には、おまけみたいなイラストが載っているだけだ。

 それでもなにか大事なことが書かれているのではないかと最初から読み始めるのだが、そのうちゆっくりと眠気が襲い、僕は本を開いたまま眠ってしまった。




 目を覚ました時には、保管庫の閉じられた窓の隙間からはオレンジ色の光が差し込んでいた。

 なんということだ。

 僕は一体どれだけの時間を無駄にした?

 たぶんそろそろ帰らなくてはいけない頃だ。


 急いで立ち上がり保管庫を出ようとしたその時、奥の方で物音が聞こえた。

 少しだけ怖かったが、その音の正体が知りたいと思った僕はそろりそろりと足音を忍ばせ、本棚の影から部屋の奥を覗いた。


 そこには一人の少女がいた。

 心臓がたちまち跳ね上がる。僕はその子を知っていたのだ。


 同じクラスの武田さん。

 たぶん学校で一番、そのくらい嘘みたいに可愛くて、誰にでも優しく、人の悪口なんか言わない。

 友達も多くて、男子も女子もみんな彼女の事が好きだった。

 そんな武田さんが、まさか保管庫なんかにいるなんて。こんな偶然があるだろうか。


 僕は声を掛けようと足を踏み出すも、それをすぐさま引っ込めた。

 武田さんの前には、もう一人いたからだ。

 誰だろう、ウチとは別の学校の制服を着た男子だ。


 夕日に染まった二人は見つめ合い、そうかと思えば、誰が合図するでもなく不意に肩を抱き合った。

 決して視線を逸らすことなく、彼らはゆっくりと顔を寄せ合う。

 息が出来なかった。声も出ない。出してはいけない。やめてくれだなんて、僕には……。


 だが二つの唇が重なる直前に、押し寄せる危機感のようなものが足を動かし、僕は物音など気にせずその場から逃げ出してしまった。


 図書館を飛び出し、学校の前を走り抜け、家に飛び込んだ僕は「ただいま」も言わずに部屋に逃げ込んで机に突っ伏した。

 ラビがこっちを見ている。

 その触角が少し慌てたように動き、僕を心配してくれた。


 涙が零れた。

 もしかしたら、既にさっきから泣いていたのかもしれない。

「僕は武田さんが好きだったのかな」

 そう言うと、涙は止まらなくなった。

 ラビは僕を見ていた。



 その日、ラビは僕が眠るまで慰めてくれた。


 それは本当に優しく、寄り添うような温もりがあった。

 武田さんのことで流していた涙は、次第にラビに対する悲しみに変わっていき、僕はこんなに優しいラビに何もしてあげられないのだと思うと、また悲しくなって泣いた。


「ラビ。僕は君に幸せになって欲しい」

『ありがとう』

 ラビは答えた。

「こんな事は今だから言えるのだろうけど、僕が心から好きなのは武田さんじゃなかったのかもしれない」

『……』


 続きを待っているのだろうか、ラビは何も言わなかった。

 僕もそうだ。

 しかしこの先はとても傷心の勢いで言えるようなことではない。

 断っておくが、相手が昆虫だからという理由なんかでは決してない。


 僕の芯に芽生えた気持ち、まだ言葉にしたことのない、偽らざる心。

 きっとラビには分からない。

 武田さんに抱いていたものとは違う。

 僕はいつしか、ラビに恋をしていた。



 ――夏休みは過ぎていく。

 あと一週間で僕はまた学校へ登校しなくてはならない。


 ラビは少しずつ弱っていった。

「ラビ、おはよう」

『おはよう、イズミ』

「今日もいい天気だ」

『ええ』

「なにを話そうか」

『イズミの好きなことなら、なんでも』

 ゆっくりと、ぎこちなく動くラビの触角が告げた。


 僕は知っていた。

 恐らく明日にはラビは生きてはいないだろう。

 それは今までたくさんの昆虫を飼育してきた僕だから分かる事だ。


 寿命が来たのだ。


 なんと……、昆虫の命とはなんと儚いのか。

 そして自然の理とはなんと容赦がなく、どこまでも残酷で、こんなに……。


 こんなこと。

 お願いだ。

 ラビだけは。

 お願いだからラビだけは。

 ラビだけは特別であってくれ。

 ラビはとても優しい女性なんだ。他の誰よりも、何よりも優しいんだ。

 僕はラビに幸せになって欲しい。

 どうしてラビは昆虫として生まれ、そして僕と出会ったのか。

 僕は分からない。

 なぜラビなんだ。なぜ僕なんだ。

 僕は、ラビが好きなのに。


「ラビに、死んで欲しくないのに……」

 涙を流す僕を、ラビはいつものように優しく見つめていた。

 何も言わず、ただ僕を見てくれているのだ。

 なのに僕はラビをまっすぐに見ることが出来ない。

 いま生きていることが幸せだなんて、そんな悲しい目でラビを見たくない。

 明日もラビといろんなことを話したい。


「お願いだ、ラビ……」

 そのまま僕は、まともに話せずに泣き続けた。

 ラビはずっとそばにいてくれた。




 お別れを言わなくてはならない。

 陽は落ち、電気スタンドが照らす机の上で僕たちはようやく見つめ合った。

 しかし言葉が出てこない。

 一体ラビにどんなことを言ってやればいいのか。

 だってラビはまだ生きているじゃないか。

 そんな彼女に、かけるべき言葉なんて知らない。


『イズミ』

 話しかけてきたのはラビのほうからだった。

 もう随分と朧げな動きでも、触角を使って懸命に伝えてくれた。

 僕は彼女の言葉に集中する。


『ありがとう』

 ああ、君はそうやって、いつだって僕のことを想ってくれていた。

 僕だって、君のことを想っていたんだ。


「でも、僕はラビを幸せにすることができなかった」

『違う。私はどんなにイズミに救われたことか。心細い私を、あなたはいつも支えてくれた』

「ああ、そんな。ラビ……」

『泣かないで。私は今、とても幸せ。あなたが助けてくれたから』

「ラビ、ごめんな」

 僕は虫かごを抱えた。

 ラビがもっと大きくて、もっと強かったなら――。


『イズミ』

 ラビが言う。

 一言だって聞き逃してはならない。僕はラビを見る。

『イズミ、あなたの気持ちを私に伝えて。きっと答えるから』


 ラビ、それが別れの言葉か。

 まさしく最後に交わすべき会話じゃないか。

 僕の気持ちなんて、君はとっくに知っていたんだね。

 だから最後に、それを確かめようとしている。


 でも嫌だ。

 僕は言わないぞ。

 君はこれが最後だと思っていても、僕はそうじゃない。

 君はまだ生きている。こんなに眩しく輝いて、今も触角を動かしているじゃないか。

 もう少し、君はここにいられるんだ。


「ラビ」

『イズミ、少し喉が渇いたわ』

 こんな時に、ラビは水を求めた。

 もう意識が定かではないのか?

 それでも彼女の望みは一つ残らず叶えてあげたい。


 僕は急いで一階に下りて、綿棒に水を吸わせてから走って二階へ戻った。

「ラビ、お待たせ……」

 虫かごを見ると、そこにラビの姿は無かった。

 どうやってここから……、いや、どこへ?


 机の上を探し回るが、ラビはいない。

 本の隙間にも、引き出しの中にも、どこにもラビは見つからない。


 とその時、慌てふためく僕へ、網戸から入り込んできた風が吹いた。

 なんとなしに向けた視線の先に、銀色の光はあった。

 ラビはベランダの手すりの上で僕のほうを向いて待っていたのだ。


 彼女が何を考えているのかが分かった。


 僕はなんだか急に心が落ち着いて、ゆっくりとベランダのほうを向く。

「ラビは本当に頭が良いね。網戸の端っこがほつれている事を知っていたんだ」

 僕がそう言うと、ラビは背を向け空を仰いだ。

 そして銀色の前羽をばっと開き、現れた後ろ羽を羽ばたかせた直後、夜の闇へと飛び立つ。


 月明りを受けて煌めく彼女はまるで汚れの無いロザリオのようで、これまでで最も美しかった。

 前羽から放たれる鋭い光を、高速で往復する後ろ羽が散らし、瞬くように輝いている。


 やがてその瞬きは薄れ、ラビは夜に消えた。

 最後まで、彼女は優しかった。

 僕の中の君は、元気なままで生き続ける。


 これはお別れじゃない。

 それならいい加減、答えないとな。


 僕は机の上からペンライトと夜間採集用のヘッドライトを持ってきて、ベランダに出た。

 ラビの姿はもう見えない。だが、彼女の瞳ならきっとこれを見つけてくれるだろう。


 光は二つで事足りる。

 僕は両方のライトを点け、両手に握った。

 そして伝える。こんなに遅くなってしまったけれど、僕の気持ちだ。

『01、02、22、34、83』

 簡単でも、これが全て。

 僕にはこれ以上の言葉が見つからない。

 届いただろうか。




 ラビの旅立って行った夜空を見上げる。

 星って、こんなに綺麗だったんだ。

 僕は星に関しては詳しくないが、あの一番大きく輝いているのは火星だろうか。

 瞬いていて、とても綺麗だ。

 まるで。


 まるでラビみたいだ。

 でもラビ、僕はこれから火星を眺めるたびに君との楽しかった記憶だけを思い浮かべることは出来ないよ。

 だってラビ、君がいなくなってしまったことは、やっぱりたまらなく悲しくて辛いんだ。


 耐えられない。

 君は本当に優しかったのだろうか。僕をこんなに苦しめて。

 ああ、本当に綺麗だ。

 そして大きい。

 



 ――いや、大きすぎる。

 火星が、徐々に大きくなっていく。

 どんどん大きくなって、ついにそれは巨大な光の玉になった。

 それでもまだ光は大きく広がり、星を、月を飲み込み、終いには街全体を覆って昼間のように照らす。


 もはやそれは星ではなかった。

 光はその拡大速度を緩め、停止した。

 僕は凄まじい眩しさに目を細めながら、その光が単体ではなく、無数の光の集合であることに気が付いた。

 強烈な光が円形に並び、一つの玉のようになって地上を照らしているのだ。


 不意に全ての光が消えた。かと思えばすぐにまた灯る。

 だが今度は、4つの光だけが柱となって街を照らしていた。

 そしてそれらの中心に、僕はいる。


 光は、ゆっくりと動き出した。

 僕はそこに規則性があることを知っている。

 動く角度によって、右上の光が子音、左上の光が母音を示し、また驚くことに右下の光は濁音、左下の光は半濁音を示しているのだ。


 それらは数字と記号を使って表すと分かりやすい。

 つまり光は、僕にこう言った。

『91、31、22、65、02、23R、62、95、01、02、22、34、83』



「ああラビ……、仲間が見つかったんだね」


 やはり彼女は特別で、昆虫なんかではなかった。

 確かに救われて、僕の気持ちに応えてくれたのだ。

触角

《右》子音 1~9:か行~わ行(不動=0)

《左》母音 1~5:a~o

(左右回転のみ『ん』を示す)


 右脚:濁音

 左脚:半濁音

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