81、52R 《前》
「イズミー! そろそろ起きなくて良いのー!?」
一階から聞こえてきた母の声に起こされ、僕は目を開けた。
7月も半ばに差し掛かり、眩しい光の差し込む部屋は朝からとてつもなく熱い。
汗ばむ体に若干の不快感を覚えつつ、僕はベッドから降りて着替えを始めた。
学生服のズボンを履き、ワイシャツのボタンを下から三つ目まで留めた時だった。
ベランダの網戸に、何か小さな光るものを見つけた。
どうやらそれ自体が輝いているのではなくて、朝日を反射して強烈な光を放っている。
着替えも途中だったが、どういうわけか僕は一瞬でそれ以外のことなど見えなくなって、まるで誘われるがままにベランダへ向かった。
そしてそれを間近に見た時、ついに全ての思考さえ失ってしまう。
網戸には、一匹の昆虫がくっついていたのだ。
だが、ただの虫ではない。
体長は4センチメートル程で、扁平なタイ米のような形をしている。
タマムシによく似ているが、触角はやけに長く、体の半分くらいの長さはある。
しかし僕が驚いたのは、その虫が持つ体色であった。
銀色。
それは目を除き、全身くまなく銀色に輝いていたのだ。
ウバタマムシのような渋い光沢ではなく、まさに濡れた金属のようなメタリックシルバー。
コガネムシであればこんな色のやつがいる事は知っているが、タマムシとなったら図鑑でも見たことが無い。
僕は耐えきれずそれを捕まえ、人差し指にしがみ付かせた。
……なんて綺麗なんだろう。
目を近づけて様々な角度から眺めるが、前羽はもちろん、しきりに振れ動く触角も、腹も脚もなにもかも、くすみ一つなく磨かれたように艶めいている。
「イズミー! まだ寝てるのー!?」
母の声で我に返り、僕は急いで部屋に戻って、机の上にあったお菓子の箱の中へそれを入れた。
ワイシャツのボタンを留めて、通学鞄を掴む。
「帰ってきたらちゃんとした虫かごに移してあげるよ」と言って、僕は部屋を出た。
結局、中学校へは遅刻した。
でも先生から説教をされている最中も頭の中にはあの昆虫の事だけがあって、僕は反省なんてしなかった。
◇
僕は家に帰り、庭の物置から虫かごを持ってきて一目散に自分の部屋へ向かった。
「帰って来たんなら何か言いなさいよー!」
母の声が聞こえるが、それどころではない。
机の上の空き箱のフタを開けると、今朝と同じ鋭い輝きが姿を現す。
僕はまたしばらく見蕩れ、感嘆のため息を漏らした。
「虫かごを持ってきたよ。こっちの方が広くて明るいだろ?」
たしかタマムシは昼行性だったから、このプラスチックの虫かごの方が快適なはずだ。
虫かごに移された虫は、当然だが何も言わずにただ冷たい底に足をつけて這いつくばっていた。
僕は本棚から、何冊かある昆虫図鑑のうち一番分厚いものを取り出し、タマムシのページを開いた。
……やはりこんなのは載っていない。
そうであれば、僕はとんでもない新種を発見してしまったのかもしれない。
「君はどこから来たの?」
虫は触角だけを振って、じっとしている。振動や匂い、温度や湿度などを探っている、つまり自らが置かれた状況を把握しようとしているのだ。
続いて、僕は引き出しからルーペを取り出し、虫をよく観察することにした。
体のどこを見ても滑らかで、繊毛も生えていない。
正確過ぎるほど左右対称なフォルムには、この昆虫が実は人工物なのではないかという疑念さえ抱いてしまう。
「素晴らしいよ。これからよろしくね、ギン子」
僕は改めてそいつに挨拶をした。
ギン子というのは、学校にいるあいだ必死に考えた名前だ。
オスならギン太。メスならギン子。そう決めていた。
腹部の先端に交尾器がなかったから、こいつはメスだ。
銀色に輝くギン子。良い名前だ。
「お前もそう思うだろ? ギン子」
ギン子は僕を見て、触角を振った。
しかしギン子は本当にタマムシの一種なのだろうか。
確かに脚はちゃんと6本あり、少し長いが触角も一対揃っている。
身体だって……。
「え……?」
僕は驚き、ルーペ越しにギン子をさらに凝視した。
無い。
昆虫の特徴である頭部、胸部、腹部のうち、頭部と胸部の境が、ギン子には見当たらないのだ!
つまりギン子の身体は、大きな頭部と腹部のみに分かれている。
昆虫の定義として例外はあれど、これをタマムシとするならばこんなこと有り得ない。
もう一度よく見るが、やはりつるんとした腹部の先には、つるんとした頭部のみがつながっており、そこに2つのつぶらな瞳がつるんとくっついているだけだ。
「瞳……?」
僕はとうとう腰を抜かしてしまった。
ギン子の目が、いくつもの小さな眼からなる複眼の構造をとられていなかったからだ。
目の中に瞳孔が存在し、それはまさに我々が持つ『瞳』と同じであった。
多角からの視覚情報を集める複眼とは違い、僕たちの目は一つの物に集中できるように出来ているのだが、果たしてそれは昆虫であるこいつにとってメリットと成り得るのか……?
急いでペン立てからライトを取り出してギン子に当てると、彼女の瞳孔はたちまち狭まる。
「……昆虫なのか?」
思わず口にしてしまった。
ここまで昆虫らしからぬ昆虫が、果たして存在するものだろうか。
いや、現に目の前で生きている。
だから僕はこんなに混乱しているのだ。
「ギン子、お前は何者なんだ?」
問いかけてみても、ギン子は黙って触角を振っているだけだ。
僕はしばらく何も考えず、ギン子と見つめ合っていた。
◇
やがて夏休みに突入した。
部活に入っていない僕は外へ出掛けるでもなく、部屋で机の上のギン子を眺めていた。
ギン子は食事を摂らなかった。
ヤマトタマムシがそうであるように、ギン子にもエノキの葉を与えてみたが食べてはくれなかった。
その他にも色々と試したが、どれも口にしてはくれない。
そして今から、僕はギン子に牛乳を飲ませようと考えている。
理由は特にない。
僕が牛乳を日常的に飲むことと、栄養がたくさんあるだろうということだけだ。
とにかくなんでも良いから口にしてほしかった。
ペットボトルのフタに入った牛乳を、綿棒で吸わせる。
それを僕はギン子の顔の前まで持って行った。
しかしギン子は飲んではくれなかった。
痺れを切らして綿棒の先をギン子の口付近につけるが、彼女の顔に付いた水滴は減る様子が無い。
「ギン子……」
僕は椅子の背もたれに体を預け、溜息をついた。
ギン子はいつものように触角を振るばかりだ。
「……」
そこでふと、あることに気が付く。
「ギン子」
もう一度呼びかけた。
ギン子はただ触角を振っている。
「イズミ」
触角が振れた。
――それも一定のリズムで。
「ギン子」
1、2、3と、ギン子は触角を振った。
まさかな……。
いやしかし――。
「あいうえお」
1、2、3、4、5。
触角が……。ギン子が触角を振ったのだ。
「お前、音を感じ取って、しかも……、まさか理解しているのか!?」
ギン子はしばらく沈黙し、それから触角を振った。
分からない。
もしギン子が音を聞き取っているのだとしても、彼女がどこまで理解しているのかも分からないし、そもそも僕の憶測にすぎないのかもしれない。
「ギン子」
3回。
「えんぴつ」
4回。
「ヤマトタマムシ」
7回。
ギン子は触角を振る。音を感じていることは確かだ。
空気の波だけを感じ取っているのか?
「ギン子」
3回。
「りんご」
やはり3回。
「ギン子、りんご、みかん」
どれも3回ずつ。しかし。
「……方向が違う」
それぞれの言葉に対し、ギン子は異なる角度で触角を振っていることが分かった。
発音の違いを理解している。
いや、これも空気の振動を敏感に捉えているに過ぎないのかもしれない。
それでも、僕の言葉はギン子に届いているということじゃないか!
なんてことだ。素晴らしい……!
「ギン子、ギン子」
僕が呼びかけると、触角は決められたリズムで、決められた方向へ振れた。
何かしらのパターンがあることは明らかだ。
僕はその後も、ギン子に言葉を投げかけ続けた。
夕方になり、橙色に染まる部屋で僕はある結果に辿り着いた。
ギン子の触角は、左右で振れ方が異なる。
正確には、左よりも右のほうが細かい角度で振れるのだ。
なにもしていない状態の触角の位置を中心(0)とし、右は9方向、左は5方向へ動く。
そしてこれは僕自身、信じられないのだが……。
右と左の触角は、それぞれ子音と母音を表していた。
それは全ての角度を数字で分けることで明らかとなった。
つまり右を0から9(無、か行、……わ行)、左を1から5(a、i、……、o)に分けることでギン子が何を『話している』かを理解するに至ったのだ。
例えば『はさみ』であれば、触角は『5と1、2と1、6と2』に振れる。
また、『あい』であれば、右は振れずに『0と1、0と2』となる。
ただし『ん』だけは特殊で、左右の触角を一度だけ回すことでそれが表された。
さらに驚くべきは、ギン子が前足を使って濁音と半濁音まで表現していたことだ。
『が』ならば『1・1+右前脚を上げる』、『ぱ』ならば『5・1+左前脚を上げる』といった具合に。
ギン子はまさか、僕がこのことに気付くまで辛抱強く触角を振り続けていたのだろうか。
何にせよ、全てはこれから明らかになる事だ。
最後に、『ん』をn、右脚と左脚をそれぞれ『R』と『L』とし、僕はそれらを表にまとめ、ギン子との会話を試みた。
「ギン子」
まずは確認だ。
ギン子は『12R、n、15』の角度にそれぞれ触角を振った。
完璧だ。
それでは。
果たして、答えてくれるだろうか。
僕は考え、そして尋ねる。
「……君の名前は?」
勝手にこいつをギン子と呼んではいたが、もし名前が存在するならば実に失礼な話だ。
緊張しながら僕は待ち、やがてギン子(仮)は触角を振った。
81、次に42だったか、右脚も上げたから見落としてしまった。
いや42はない。『に゛』なんて無い。昆虫の世界にはあるのか?
それにしても、なんとこいつは僕の質問に答えてくれたのだ。
しかし僕はもはや驚くよりも早くこいつと話がしたくて、すぐにまた言葉を掛ける。
「ごめん、もう一度お願い」
ギン子(仮)は答える。
81、52R。よし、今度はたしかに読み取ったぞ。
らび。
昆虫は自身を『ラビ』と名乗った。
ラビ、ああラビ。素敵な名前だ。
銀色に輝く、とても頭のいいタマムシみたいな何か、ラビ。
やっと君のことを少しだけ理解出来た。
有り得ない。
大きな感動に、涙が出そうだ。
「ラビっていうんだね、君は」
ラビは何か答えたが、僕は今度こそそれを読み取ることに失敗してしまった。
もう少し心を落ち着かせなくては、今はまだラビと上手く話せない。
こんなに嬉しいことは無い。昆虫と会話が出来るなんて。
「ラビ」
僕が呼ぶと、ラビが答えた。
――ラビが僕に応えたのだ!
夕飯の時間になり、僕は急いでご飯を胃に詰め込んでからすぐに部屋に戻った。
椅子に座り、電気スタンドのスイッチを入れると、虫かごの中のラビがこちらを振り向いた。
今日はたくさん話をしよう、ラビ。
「ご飯を食べて来たんだ」
僕はラビに教えた。どうでもいいことだ。
「ラビはどうしてここへやって来たの?」
尋ねると、しばらく沈黙していたラビは、答える。
『わからない』
分からない? 自分の意思とは別に、ベランダへ辿り着いてしまったということか?
夜の間に、光に誘われて来たのだろうか。
ラビは複眼を持ってはいないけど、彼女の瞳は夜の光もきっと敏感に受け取ることが出来るだろう。
いや、そもそもラビは他の昆虫とは違うのだ。
今は言葉通りに受け取るしかない。
ラビは自分でも良く分からないけど僕の家へ来てしまった。そういうことだ。
「君の仲間は……、お友達は? 他にも近くに君みたいなのがいるの?」
『分からない』
「まだ会ったことが無いんだ」
『そう』
「どこかには、いるんだね」
『そう』
ラビは答える。
それもそうか。他にも仲間がいなくては、ラビが単体でこの世に存在する筈がない。
ならばどこで生まれたのだろうか。
「ラビはどこから来たの?」
僕の言葉に、ラビは考えている、ように見えた。
そして答える。
『あなたには分からない』
「凄く遠いんだ?」
『たぶん』
これも当たり前の話であった。
ラビは昆虫なんだから、地図を眺めながら移動して来たなんて事はないだろう。
ここがどこかも分からないし、生まれた土地がなんという名前かなんて分かる訳がない。
何もかも分からないラビ。
彼女は今、どんな気持ちなのだろう。
「寂しい?」
『はい』
「大丈夫、君のことを調べてもとの場所に帰してあげるよ。それまでは僕と話をしよう。なるべく楽しい話を」
『……』
ラビは触角を振らなかったが、僕はなんだか彼女に表情さえあるように思えて来た。
冷たく光る銀色が、たまらなく寂しげだった。
「僕はイズミっていうんだ。だからラビも、僕の事をそう呼んでよ」
『イズミ』
「そう」
『ありがとう』
「良いって」
ラビの真っ黒な瞳が僕を見つめていた。
だから僕もラビを見つめた。その奥にある筈の、彼女の心を探す。
でも見つからなかった。
僕とラビは、まだお互いに分からないことだらけだ。
「もっと話そう、ラビ」
51、02。
触角は肯定を示す。
僕たちはこの夜、日付が変わるまで会話を続けた。