ピンコロタケの群生地 その1
天井が揺れ、埃が降って来た。
さらに揺れて、埃は降りしきる。
一定のテンポを保ちながら繰り返されるそれは、穏やかな朝になんとも言えない空気を満たしていく。
――上の部屋に住む若夫婦がご機嫌なのだ。
朝だけではない。
もちろん夜になれば、彼らはまたこの部屋へ、今とは違ったテンポで埃を降らせる。
朝はゆっくり、夜は速い。
俺は別にこれを止めて欲しいだなんて思わない。
むしろ朝が来たという感じがして、最近では一つの目安ともなっているくらいだ。
それに元気があって何よりじゃないか。元気があれば何でもできる。
俺といったら生きるので精一杯だというのに。
ただ、ボロさを極めたこの建物が果たしていつまで耐えられるかが心配だ。
削岩機のような彼らがその瞬間のまま天井をぶち抜いて落っこちてきたとしたら、それはそれで面白いが。
そんな下らないことを考えていた時だった。
「失礼する」
そいつは部屋に入って来た。
ノックもせず失礼な奴だと思ったものだが、そのような常識的な不満はすぐに消え失せる。
常識はずれな美人が、そこにいたからだ。
真っ黒な長髪は後ろに纏められ、とにかく派手で動き難そうなドレスを着ている。
目は常に何かを監視するように鋭いが、くっきりとしていて思わず覗き込みたくなるような不思議な力がある。長く覆うまつ毛がそれの威圧感を消しつつ、魅力を引き出しているのだろう。
鼻は、高い方ではないが形は良い。むしろこれくらいが丁度良い。
固く結ばれた唇は薄く、上品である。実に、これも整った形をしている。
見たところ贅肉というものは付いていない。だが俗っぽい表現をさせて頂くなら、出るとこは出ている。
そんな完璧な容姿を持つそいつは部屋に一歩踏み入り、警戒した様子で辺りを見渡していた。
恐らく部屋の汚さに度肝を抜かれているのだろう。まあ良い、こっちだって慣れている。
「いらっしゃい」
俺はすぐに気持ちを切り替え、客であるその女を招いた。
女は馬鹿でかいトランクケースを、両手で振り子のようになんとか運び、俺がいるデスクの前までやって来た。そして尋ねる。
「『誰でも殺せるマイアン』か?」
「ああ、そうだが」
俺は答えた。
そう、俺の名前はマイアン。
頼まれたら誰だって殺す。ただしそれ相応の報酬は頂くが。当然のことだ。
つまり俺は殺し屋ってやつだ。
ちと名が知れ過ぎたのは近頃の悩みではある。辛うじて知る人ぞ知るって感じだ。
それでも客は多い方ではないから、こんなボロいアパートの一室を借りて自宅兼事務所として細々と生きている。
精一杯なんだ。
そして今、見るからに金払いの良さそうな客がこの事務所へやって来た。
否が応でも気持ちが昂るってもんだ。
だが落ち着け。
相手はやはり警戒しているだろうから、少しでも妙だと思われたら帰ってしまうこともあり得る。慎重に、ビジネスの話へ持ち込まなくては。
「こちらへ」
俺は応接間も兼ねた部屋の隅へ案内する。
そこにはソファーが二つ、テーブルが一つ置いてある。どちらもボロいが、ここでは一番マシな場所だ。
女はそれをじっと見るが、なかなか動こうとはしない。
だからまずは俺がその一つに座り、向かいへ着席を促すことにした。
「さあ、こちらへ」
そうしてようやく腰を下ろした女は、揃えた膝の上でそわそわと手を絡めて緊張した様子でいる。
無理もない。なんせこれから殺しの依頼をするんだからな。
「で、ここへ来た目的は」
あくまで紳士的に、仕事に取り掛かる。
「私の婚約を破棄したい」
俺の質問を受け、女は突如として凛と居直り、はっきりと答えた。
しかしなんてことだ。
そりゃ俺の専門外ではないか。
「えっと、それはここで依頼するにはちと……しょうしょう場違いな相談と言いますか……」
「丁寧な言葉に慣れていないのなら、好きに話してくれて構わない」
女は心のどこかで吹っ切れたのか、すこぶる偉そうに言ったのだ。
なるほどな、やはりこいつはどっかの金持ちの家から来たに違いない。
腰の低い金持ちとは会ったことがねえ。みんなこうやって上から物を申しやがる。
だが、そっちからそうやって言ってくれるのであれば有難い。やりやすくなったってもんだ。
「あんた、俺に仲良し夫婦のお邪魔虫役を演じろとでも言いたいのかい」
「婚約の破棄と言っただろう。まだ私は結婚などしていない。それにそんな生易しいことを頼みに来たのではないよ。お前は殺し屋なのだから、それらしいことをしてもらうつもりだ」
「言ってみな」
「私と一緒に、あるキノコを探してもらう」
「……」
おいおい。たまんねえな。
こんな美女と一緒にキノコ狩りだと。さぞ楽しい仕事になるだろう。
……そうではなくて。
「人殺しとキノコ狩りを同等に捉えているなんて、よほど育ちが良いと見た」
「ふざけているのか?」
「こっちの台詞だ。ちゃんと説明しろ」
「私の名前はミア・シジョオ」
突き刺すような視線を俺に向け、ミアは言った。
随分とちゃんと説明するつもりらしい。良いだろう、とことん付き合ってやる。
「18歳」
「やっぱり待て、俺はそこまでお前のことを知るつもりは無い。って、シジョオだと……?」
「そして私の夫となる男はヤチャナイアビヱ家の長男、ご存知の通り『異地球人』だ」
視線が鋭さを増したように感じた。
そんなに凄むなよ。それくらい、ちゃんと知ってるさ。
せっかくだから少しばかり語らせてもらおうか。
異地球人。
奴らは地球人であって、地球人ではない。
あるかもしれない地球人の未来だ。
その昔、奴らは並行宇宙からやって来た。
どうやって、なんて聞かれてもそれこそ俺の専門外だが、確か、物体をそれはもう細かく分解して超光速で飛ばし、『最も有り得べき世界』において再構築。
そんな感じだ。分かったか。
とにかく奴らは、地球が辿り着いたかもしれない未来から逆行してやって来た。
つまり、進化した地球人ってわけ。いや、時間の経過がすべて進化を促すとは言わない。
現状を鑑みて、そう言っただけだ。
じゃあ肝心の現状についてだが、その前にまずは事の経緯から聞いてもらおう。
やつらが地球に来てまず何をしたか。
破壊だ。
一瞬で力のある国家を見抜き、それを燃やしたり蒸発させたり、とにかく地球を無力化させることから始めた、らしい。
というのも、さっきも言ったがこれは昔の話。気になったら歴史の教科書でも見てみることだ。それなりに都合よく書かれているだろうからさ。
で、別の地球から来たそいつら、『異地球人』はとんでもなく危険なやつらだったわけだ。
やる気満々だったんだよ。
そこからはもう大変なんてもんじゃねえ。まさにやりたい放題。
奪えるもんは奪って、殺せるもんは殺して、ちょっと残して、地球人を家畜のようにしちまった。
似たような話、どこかで聞いたことがあるな。やっぱり人の嫌がることはやっちゃいけない。
そんなことはどうでも良いんだ。
時は流れ、現代。お待ちかねの現状について説明するぞ。
頭の冷えた奴らはなんと、地球人との『共存』の道を選んだ。
一握りの地球人に、一つまみの人権を与えた。その他の地球人は家畜から奴隷へとランクアップだ。
やったな。
要するに本質はあまり変わらなかった。
地球人はあくまで奴らの支配下にあり、労働力であり、愛玩動物であり、まあとにかく何したって良いんだ。
ぱっと見、変わらないのにな。じゃあ何が違うか。
奴らは緑がかった髪の色と、ほんの少しばかりでかい図体を持っている。
ただしめちゃくちゃ強い。見た目は一緒でも、筋肉の密度が違う。桁違いってやつだ。
そういう風に出来てるんだ。怖いな。
あとは、地球人よりほんのちょっと頭が良いってことくらい。
どれも大した差じゃない。そうは思わないか?
でも地球人が外を歩けば殴られもするし犯されもする。殺されたって、下手すりゃ笑い事で済むんだ。
昔と比べれば僅かに、本当に僅かにマシにはなったが、口先の『共存』の中で、地球人は有り得ない差別を受ける。
以上だ。
思ったより長くなったが、これが俺たちの辿り着いた未来。
まさに地獄、と言わせて頂こう。
そしてさらに現在。この家に一人の女がやって来た。
その名前を聞いて、俺は正直驚いた。
だってこいつは……。
「シジョオって、あれだよな」
「いかにも」
ミア・シジョオは割増しで偉そうに相槌を打った。身分を明かして欲しかったのだが……。
なんとなくこいつとはウマが合わない気がする。
育ちの差ってやつなのかな。
「地球人最後の貴族、シジョオ家の……」
「さらに今は、私が最後のシジョオ家となってしまった」
そう、異地球人が地球へやって来て、偉そうな奴らは片っ端からやられちまったわけだが、貴族の中には運よく難を逃れた者もいた。
だが地球人がこれまでと同じようにお高く留まっていられる筈もなく、やがて衰退していくか、奴らに捕まって好き放題されるかのどちらかであった。
が、現在の『共存』時代までしぶとく生き残った貴族もいたんだな。
その一つがシジョオ家。
周りがじわじわと没落していく中、シジョオ家だけは一つまみの人権を頼りに今まで耐えて来た。
それなのに。
「一家心中。しかも運悪く、お前だけが生き残っちまった」
「シジョオ家は心中などしていない! あれは異地球人の侵略行為だ!」
地球人最後の貴族であるシジョオ家のお嬢さんは、いきなり声を荒げた。
なぜだ。とは俺は思わなかった。
シジョオの一家心中は、かつての栄華を失いこの世に絶望したが故の悲しき選択、と報道された。
だがそんなことは有り得ない。
貴族ってのは往生際が悪いんだ。
そうでなければ、嫌でも差別を受ける地球人がわざわざ目立つだけの肩書にしがみ付いている訳がないのだ。それを彼らは誇りだなんだと言うだろうが、俺から言わせれば愚か者だ。
偉そうな地球人がいたら、異地球人はなんとしても屈服させたいと考えるに違いない。
だからシジョオ家の一家心中の裏には何かある。
俺はなんとなくそう考えていたのだ。
「私がお庭の林檎を摘んでいたほんの一瞬の間だったのだ。父様も母様も、兄様も……血を流して……。それまで皆で楽しくお話をしていたのにだぞ……!」
お嬢さんは悲しんでいるのではなく、憎んでいた。
ただひたすらに、ある人物を憎み切っていたんだ。
俺にはお嬢さんの瞳の中にそいつがはっきりと見えた。
それほどまでに、こいつの憎しみは凄まじかったのさ。
「そしてあの凄惨な光景を前に立ち尽くす私の元へ、あいつがやって来たんだ」
「異地球の貴族ヤチャナイアビヱ家の長男、ヤキリア・ヤチャナイアビヱ。いずれはヤチャナイアビヱ家を継ぐ男」
俺はそいつの名を知っていた。ミア・シジョオの婚約も、当然ニュースでも見たからな。
「今まで一切の関係を持つことも無かったヤチャナイアビヱの人間が偶々そこへやって来て、私にこう言ったのだ! 『ああ、可愛そうなシジョオのお嬢さん。あなたの身も心も、我がヤチャナイアビヱ家こそ新たな家となりお迎えいたしましょう』とな!」
「良い奴じゃねえか」
「それが狙いなのだ! 奴の!」
お嬢さんは身を乗り出し、テーブルに手をついた。
目の前で吠えるお嬢さんから飛沫を受け、俺はなんか複雑になりながらも彼女の激情を受け止める。
ここから先の真実は俺も気になっていたところだ。
野次馬根性ってやつかな。
「ヤチャナイアビヱ家は異地球人の中でも落ち目の貴族、そんな奴らが地球人を妻として迎えたならば、大衆はどのような感情を抱くと思う! 言ってみろ!」
「趣味が悪い、とかかな」
「馬鹿者! 美徳とするのだ! 奴らは奴らなりの解釈で、それを人種に囚われない真実の愛と称賛するのだ!」
「それってやっぱり良いことなんじゃねえの。幸せにしてもらえよ、ヤキリア・ヤチャナイアビヱに」
「なんだと……!」
お嬢さんは今にも掴みかかって来そうな顔で、俺を睨みつける。
やめとけよ、せっかくの美人が台無しじゃないか。
「落ち着けって」
「……お前が馬鹿だからこんな風になったんだ」
そう言って大人しく、貴族然としてソファーへ腰を下ろすお嬢さん。
こういうところはこいつらの良い所だ。
気高くあろうと、己をコントロール出来る。それこそ誇りだと、俺は思う。
「奴らの狙いは一時的なイメージアップだ。裏では良いように私を弄び、飽きたら皆と同じように殺すつもりに違いない。あくまで表面上は事件や事故に見せかけてな。そしてまた異地球人と正式な婚約を結ぶのだ」
「悲劇的な貴族としてもてはやされ、何よりこの地球上から純粋な貴族が消え失せる。良いことずくめだ」
「ようやく理解が追いついたか」
理解なんか最初からしていた。
だが俺の性格上、おちょくらずにはいられなかったのさ。
真面目な話は苦手でね。
「それで、婚約破棄をご所望か。……話が一周するようで悪いが、なぜ俺のところへ来た」
尋ねると、お嬢さんは深く溜息を吐き、ソファーに体を沈めた。
不貞腐れた態度もいちいち様になるな、貴族ってやつは。
「婚約は私の意にそぐわぬ身勝手な決定。ヤキリア・ヤチャナイアビヱが一人で推し進め、一人で世間へ公表したものだ。不当であろう」
「そうだな」
「不当には不当を。婚約破棄というのは不当でなくては成り立たない。よって奴には死という不当でもって婚約ごと地獄へ落ちて貰うことにした」
「なるほどな」
こいつにはこいつなりの理屈があるらしい。
いや、気持ちは分かる。つまりは復讐だ。
シジョオ家の生き残りとして、こいつは異地球人へ報復するためにここへやって来た。
立派じゃないか。
「それでキノコが必要、と」
「そうだ」
「分かるか? 話が繋がってないんだよ」
「マイアン。生涯、ここまで会話に難儀したことは無かったぞ」
気の毒を通り越して慈しむように俺を見るお嬢さん。
いいよな、お前みたいに自由に生きてえよ。
俺はさっきの仕返しのようにデカい溜息を吐き、気持ちを静め、大人の男として冷静に対処する。
「なんていうキノコだ」
「『ピンコロタケ』を知っているか?」
「知らねえな」
「『ピンコロタケ』は食べてしまった者の命を奪う。それも食べてすぐにではなく、数時間後に毒が効き、それを殺すのだ。安らかに、穏やかに。それはまるで凪いだ海のように、流れる雲のように、沈む夕日のように……」
「……」
「溶けゆく雪のように……」
「なぜそのキノコを使う必要がある」
――そうなのだ。
俺に依頼する以上、ターゲットは必ず死ぬ。
結果だけが残り、それで終いだ。それが依頼主の望みであるはず。
過程は俺が選ぶ。
どう殺そうが俺の勝手というわけだ。
誰であろうと、仕事に介入するような真似は許さない。
「毒は証拠として残る。たとえそれが凪いだ海のようにターゲットを殺すとしても、俺は自らを危険にさらしたくはない」
「馬鹿だな、後には何も残らないと言っているではないか」
「あ?」
「『ピンコロタケ』の毒は体内で分解される。傍から見れば、寿命が前倒しされたかのようにそっと息絶えるのだ。これこそ『ピンコロ』たる所以……」
そいつは大した代物だ。
こいつが得意げにふんぞり返っている理由もうなずける。
だがしかし。
「そんな便利なもんがあるなら、俺を頼る必要もないだろう」
「ようやく本題だ。ここまで来るのには実に骨が折れたぞ」
「いいから話しな」
「まず、『ピンコロタケ』をヤキリア・ヤチャナイアビヱに食わせるのは私だ。私が奴を葬らなくては意味が無い」
「話が終わっちまうじゃねえか」
「聞くのだ。お前に手伝ってほしいのはその過程、『ピンコロタケ』を入手するまでの、道中の話だ」
「まさかどこにあるのか分からねえのか?」
「そうだ。いや、生育環境などは分かるのだが……」
参った。話にならん。
かつてこれほど訳の分からん注文をする客はいただろうか。
聞いたことも無い、どこにあるかも分からないキノコを探し出し、ターゲットは依頼主自身が片付けるだと。
やってられん。
「要するにマイアン、お前には長旅の用心棒をして貰いたい。『誰でも殺せる』お前なら、私を誰からも守ってくれる筈だからな」
「さらにはとんでもねえ勘違いをしてやがる。俺の殺しは入念な準備があってこそなんだよ。もうお前、勘弁してくれよ……」
「お前のキャリアを調べさせて貰った。名の知れた殺し屋というのも間抜けな話だが、それを十分にカバーできるほどの強さであると、私は見込んでいるのだ」
「だから、準備あってこその今なんだよ。話を聞きやがれ。それに、長旅って言うと当然ここを出なくちゃいけないんだよな。この地下スラムを……」
俺は窓の外を見た。
朝だというのに、暗く沈んだ街の景色を――。
地下スラム。
ここはかつて地球人の中でも特にやる気のある者達が作り上げた地下の街だ。
地上での異地球人による迫害から逃れんと、懸命に作り上げられたオアシス。
治安は悪いが、ここでは地球人がヒトであることを許される。
生きようとした者が残した、希望の光。
――そう言えば聞こえはいいだろう。
要するに、ここは弱者が逃げ隠れるための汚ねえ穴倉だ。
居場所のない地球人が寄り集まって傷をなめ合うディストピア。
ここで暮らす俺が言うのもなんだが、最低な場所だ。
そしてこの地下スラムの人間は地上の異地球人に対する恐怖心がかなり強い。
だから一度も『外』へ出ることなく一生を終える者がほとんどだ。
かく言う俺も地上は恐ろしい。
目玉の飛び出るような額を提示されない限り、上へ行きたいとは思わねえ。
だからこそ気になる事がある。
「お前、よくここまで無事に辿り着いたな」
ミア・シジョオはこれでもかってくらいに美人だ。
それにこの出で立ち。ドレスも、トランクケースだって嫌味なくらい品のある作りで、中に金目のものが無い方がおかしい。
まさに”捨てるところが無い”。
それなのにこいつは地上からここまで何事もなくこの地下スラムまでやって来た。
少なくとも俺にはそう見える。
「高い金を払って異地球人たちの旅客船に乗り、高い金を払って近くまで降ろしてもらった。ここの住人にも襲われかけたが、金をばらまけば何とかなる事が分かった」
「そうか。まあ大変だったんだろうな。しかし申し訳ないが、やはり今回の依頼は断らせてもらう。俺は仕事のために生きてるんじゃないんでね」
「マイアンよ、これを見てもまだそんな事が言えるだろうか」
お嬢さんはニヤリとして、テーブルの上にトランクケースを叩きつけた。
開け放たれたそこには色とりどりの下着、それとびっしりと埋め尽くすほどの札束が。
こいつ、これをここまで運んでくるとはなかなかのガッツだ。
そうじゃなくてだな。
「すげえ……」
「恐らくお前では人生を三周しても稼ぐことの出来ない額だろう。依頼をこなしてくれたら、これを全てくれてやる。もちろん旅費込みだが」
「ごくり」
実は、俺はそろそろ殺しなんかやめて、のんびり暮らしたいなんて思っていた。
これほどの金があれば、この街のケチな闇商人から毎日死ぬまで買い込んでもまだ余るだろう。
俺の心はガキの乳歯のようにぐらぐら揺れた。
「どうだ……?」
「欲しい……。だが……」
お嬢さんは俺を見つめ、俺は金を見つめていた。
乳歯は揺れている。
俺の心はすっかり乳歯だった。
どうする。
「頼む、お前だけが頼りなのだ。私は、最後まで私として生きたいんだ」
その瞬間、俺の乳歯に何かが触れ、抜け落ちた。
俺はお嬢さんを見る。
今にも泣きそうだ。
まるでただの18歳ではないか。
俺は――。
「あん」
天井から埃が降って来た。
俺たちは同時に見上げる。
口を開いたのはお嬢さんだった。
「改修工事でもしているのだろうか」
俺は思わず吹き出してしまった。
こいつはすげえ。何も知らねえんだ。
もしヤキリア・ヤチャナイアビヱと初夜を迎えることになったら、きっとこいつは気を失ってしまうだろう。
いや、どうかな。
案外「無礼者!」とか言って気丈に振舞うのかもしれない。どちらにせよ恥をさらすことにはなるか。
「で、どうだ。私と一緒に……おいこら!」
俺は沢山の札束から一つ取り、それを懐に入れた。
「その服で旅をするつもりか? ここの住人から適当に譲り受けて来る。お前の準備が出来次第、出発するぞ」
その時のお嬢さんは、それはもう嬉しそうな顔をしていた。
混じりっ気の無い18歳の眩しい笑顔だ。俺はあんな風に笑うことなんて出来ないだろう。
こうして俺は依頼を引き受けた。
額が額なだけに、ってのは建前に過ぎないのかもしれない。
俺は殺しをやめたかった。
そんで、ヤキリア・ヤチャナイアビヱがめでたくこの世を去って、最後にお嬢さんの素敵な笑顔で締めくくられるのなら言うことは無い。そう思ったんだ。
この後、俺は金を持って上の階の夫婦を訪ね、服を譲ってもらった。
最初は試合を中断させられたことに不満げな表情をしていたが、札束を見せたらすぐに機嫌を直してくれたよ。お嬢さんの言うとおりだ。金さえあればなんとかなる。
ここはそういう所だ。