約束は亜光速で果たされる
「赤木さんは毎日頑張ってて偉いわね」
俺こと赤木ワタルは驚き、顔を上げた。
もうじき日も暮れる。
誰もいない公園は眩しい茜色をしていたが、それも闇に飲まれてしまうのだろう。
なんとなく立ち寄ったこの場所で、なんとなくブランコに腰かけ、なんとなく物思いに耽っていた。
そんな俺へ、コイツは声を掛けて来たのだ。
いつからそこにいたのかは分からない。
とにかく、そんな唐突な誉め言葉を貰うまで俺は周りなんて全く見えちゃいなかった。
「偉いと思うわ」
それはもう一度、俺を褒めた。
髪は長く、眼鏡を掛けている。
ブランコに座った状態の俺とほぼ同じ高さで視線を交わらせるそいつはランドセルを背負っており、どこからどう見ても、小学生であることは明らかであった。
「おうちにかえりなさい」
大人ならば、こんな時間まで公園に残っている女児へかけるべき言葉としてはこんなところだろう。
しかし女児はあろうことか溜息を吐き、髪をかき上げてこう反論した。
「どうして私があなたの指示で帰らなくてはいけないのよ」
「いや、お父さんとお母さんが心配してる、と思うよ」
思わず圧されてしまった。
なぜなら女児は、眼鏡の向こうでそれは鋭くおれのことを見つめているのだ。
目の前で揺れる前髪を気にも留めず、なぜ俺が帰宅を促したかについて、ただ知りたがっていた。
「お父さんとお母さん、どこにいるか分かんないもん」
「え、はぐれちゃったの? じゃあ交番にでも行かないと」
「必要ないわ」
女児はきっぱりと断った。
まるで女児であって、女児じゃないみたいだ。
……何言ってんだ俺は。
「とにかく赤木さんは偉いと思うわ、やっぱり」
「どんなところが?」
「のんびり生きているところとか」
俺がのんびり生きているだと?
確かに女児と比べたら同じような毎日を同じように過ごしているし、それを地続きの時間と捉えれば、俺は実にのんびりと生きているだろうさ。
だがこっちだって大変なのだ。
社会の荒波に揉まれたこともない女児が、なにを偉そうに。
「ありがとう。それを伝えに来てくれたんだ」
「違うの」
「なにが?」
「私のことは覚えているでしょう?」
俺は彼女をまじまじと見た。
そういえば、女児をじっくりと眺めたことなんて今までなかった。
しかしいくら確認しても、この少女が何者であるかなんて答えられなかった。
「どこかで会ったっけ」
「……最低」
今度は俺の事を貶して、女児はまた溜息を吐き、隣のブランコに座った。
「どうして覚えてないのよ」
「……だって、俺はもうとっくに小学校を卒業してるし、子供もいないから君みたいな知り合いも当然いない。覚えてないもなにも、君みたいな子とは接点すらないんだ」
「こっちはその小学校の時の話をしてるんじゃない」
女児は言った。
こいつは小学校の時の、俺の知り合いなのか?
いや無い。
俺はもう27歳だから、この女児も27歳でなくてはならない。
いや、27歳は女児ではない。
……そうではない。
こいつは言うまでもなく、出鱈目を言っている。
こうやって俺を困らせて、そのクールな仮面の裏で笑い転げているに違いない。
大人をなめるなよ。
「懐かしいなぁ。あの狭いグラウンド、たくさん走ったもんなぁ」
「覚えているの!?」
乗っかって来るか。
そしてえらく演技が上手いじゃないか。
だが女児のスタミナで、いつまでそんな芝居を続けられるかな。
「ああ、だってガキの頃の俺って暇さえあれば鬼ごっこしてたもんな」
「そう! そう!」
「でも俺ってけっこう速かったから、ちょっと飽きてきちゃってさ。つい遅い奴をからかってみたりして」
「そうなのよ! 私! それ私!」
女児は目を輝かせて、自らを指さす。
彼女はようやく俺に女児然として振舞うことをした。
っていうかお前は俺と鬼ごっこをしたことがあるのか?
そんな訳はあるめえ。
もっと設定を練って出直してこい。
「私ね、いっぱい練習したの」
「まだ続けるか」
「え……?」
「いや」
――だいぶ暗くなってきた。古びた灯りが、俺達を頼りなく照らしている。
今さらかもしれないが、これって現代の物差しで考えれば事案だよな。
保身のためにも、はやいとこ終わらせた方が良いかもしれない。
「あのさ……」
「それで光速に近づいてしまったの」
「は?」
おいおい。
俺はなんて言えば良い。
子供の相手ってこんなに疲れるんだな……。
「どういうことだよ」
「赤木君にタッチできるようにたくさん練習して、それで足が速くなって、それでもまだ速くなっちゃったの」
「それで、光速を超えたんだ」
「違う、越えてない。ほぼ光速にまで近付いたのよ」
「そう……」
「分かっていたのよ。このままじゃ赤木君が生きる時間の速さと私が生きる時間の速さに大きな差が生じて取り返しのつかないことになってしまうって。でもね……」
女児は言い淀み、俯いてもじもじとし始めた。
あ、なんか……。
いや、俺はいま何を考えたのだ。
大人としての誇りはないのか?
嫌だ嫌だ。俺は同年代の女性にしか魅力を感じないというのに。
「ほぼ光速の中で思ったの。このまま走り続ければ、大人になった赤木君を見ることが出来るんじゃないかって。それで、走り続けたの」
「へ、へぇー」
「なに?」
こいつ、俺のことが好きなんだ。
いや、そういう設定で来たんだ。
ふうん。へえー。
「……その、大丈夫だった? 摩擦とか……」
「もちろん物凄く熱かったわよ。でも算数セットがあったから」
――算数セット。
久しぶりに聞いたなんてもんじゃない。
確かあれだ。大きな箱に時計とか定規とか、数を覚えるのに重宝する便利グッズが詰め込まれた奴。
俺はサイコロが好きだった。
それで、それがあったからなんだ。
女児はほぼ光速で走り、当然ながら激しい摩擦を受けて高温にさらされた訳だけど、それを算数セットで防いだとでも?
可愛いじゃないか。
発想が女児らしくて可愛いよ。
でももう十分。
ありがとう、楽しかった。
随分と和ませてもらった。
「そんなことはどうでも良いの」
女児はそう言って、俺の肩にそっと手を触れた。
思わず体が跳ね上がり、女児も慌てて手を引っ込める。
「なに!?」
情けない声を出してしまった……。
「……つかまえた」
女児は恐る恐る、そう言った。
「つかまえた?」
「これも覚えてないんだ……」
「え、うーん」
「そっか……」
てっきりまた呆れたような演技を始めるのかと思ったが、女児は心底悲しそうに目を伏せてしまった。
俺はなんだかとても悪いことをしてしまったみたいだ。
でも分からない。
こいつになんて言ってあげればいい?
「その、つかまっちまったなぁ」
「だから?」
「……まいった」
「はあ……」
やはり最後には呆れられてしまった。
「もういいよ。帰る」
「どこへ?」
「頑張って光速を超えて、もとの所に帰る」
「言い出せずにいたんだが、質量を持った物体は光速へは近づけないんだよ。なぜならそこには無限のエネルギーが必要だからだ。お前がここまでほぼ光速で走って来たってのは嘘なんだろ? なにか悩みがあるんなら俺が聞いてやるよ」
俺は嘘だと分かっていても、このまま女児を光速の向こう側へ帰したくはなかった。
彼女の表情が、それはとにかく痛々しく、寂しげに見えたからだ。
俺に会いに来たというのは恐らく本当なのだろう。
こいつがさっき見せた恥じらいは、確実に女児的に真実だったからだ。
こいつは女児だ。等身大の女児として俺に会いに来た。
俺には分かる。
なぜなら覚えているからだ。
記憶の中に、朧気ながらもこんな可愛らしい女児がそういえば存在していたからだ。
あの表情は、そいつのものと見事に一致する。そいつはこんな風に髪が長くて、偶然にも同じように眼鏡を掛けていた。クラスの中では明るい方で、友達も多かったと思う。そして成績もよく、特に算数が得意だった筈だ。だが天は二物を与えない。彼女はすこぶる足が遅かったのだ。それなのに休み時間には俺達と一緒に鬼ごっこに参加し、あまりの鬼の入れ替わらなさに場を白けさせた。一番足の速かった俺はあの時からかったんじゃない、確かめたかったんだ。『もしかしてお前も』と。だから互いに守れる保証もない約束を餌に、俺はお前に追いかけさせた。半分冗談だったんだ。それなのにお前は走り続たというのか。あの約束だけがお前のエネルギーだったのか? 『無限のエネルギー問題』がそんな馬鹿げた理論で解決されてたまるか。不可能だ。だってお前はここに居る筈がないのだから。お前は行方をくらませて、現在まで見つかってはいないのだから。約二十年も行方不明だったお前が、どうしてそのままの姿でここにいる。そしてさも俺の事が好きであるかのように振る舞うのだ。何故。お前は誰だ。まさかお前は本当に……。
「美里ちゃんなのか?」
「遅いのよ、気づくのが」
美里ちゃんはそう言って、ようやく笑った。
ああ、この笑顔だ。間違いない。
なんてこった。あるんだな、こんなこと。
「つかまっちまったな」
「だから?」
「約束、守るよ」
「覚えてたんじゃない」
「信じられなかったんだ」
どう考えても無理があった。
こんなの、泥酔してたって信じられる訳がない。
むしろ腹を抱えて笑い転げるだろう。
だが、美里ちゃんはここにいる。
無限のエネルギーを手に入れ、ほぼ光速で走り続けて、大人になった俺を捕まえた。
そしてそのエネルギーは今、俺に向けられている。
等価交換なんだ。
返さなくちゃな。それが約束だから。
「結婚してくれ、美里ちゃん」
美里ちゃんは顔を赤らめながらも、俺の目をまっすぐに見つめていた。
つまりは俺も美里ちゃんを見つめていた。
俺は夜の公園で27歳の女児と二人、ブランコに乗っている。
なんてロマンチックなんだろう。
やがて美里ちゃんは答える。
「どうしよっかな」
「頼むよ」
「じゃあ、走って」
「は?」
「今度は赤木君が光速に近づいて、大人になった私を捕まえて」
美里ちゃんは悪戯っぽく言った。
まるで女児みたいに。