慈愛の公認会計士 神野里美 1
第3話です………
後半はとても重いです、暗いです。。
自分で書いているのに、こんな設定考える奴、性格悪いんじゃね?
なんて思いました。
ゴメンナサイ、どうか読んで下さい。。
私の名前は神野里美と申します。
若干24歳ながら公認会計士をやらせて頂いております。
まだまだ二年目の新米ですが、お師匠様の元それなりに精進させて貰っております
当然ながら私如きが主人公では御座いませんよ?烏滸がましいです。
まぁ皆様に置かれましては何を言っているのか?と不思議に思って居られると存じ上げます。
私如きの自己紹介等は皆様には必要無いかと思いますが、それではお話が進みませんので聞き苦しいかも知れませんがが語らせて頂きます。。
それと、何時までも業務用の口調では堅苦しいかと思われますので、此処からは少しだけ普段遣いに戻させて頂きます。。
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私が公認会計士を目指したのは何時からだったでしょうか?
幼い頃は、只数字で遊ぶのが好きなだけの普通の女の子でした。
幼稚園児の頃から足し算や引き算の簡単な物が出来る様になり、自慢では在りませんが両親や周りの方々から頭が良い子だと、褒められておりました。。
子供の感情等は単純な物で、褒められると嬉しくなり、更に褒められようと算数が好きになって行き小学校へ上がり、中学校へと進むと算数から数学へとなり更に出来る事が増えて楽しくなって行くのです。。
中学の数学教師が良かったのか、最初の授業のときの言葉に感銘致しました。
『私にとっての【すうがく】とは、数を学ぶのでは無く、数を楽しむと書いて数楽と思っています。皆さんにも同じ様に楽しんで貰えると嬉しく思います!』
多分その時だったのでしょう、大まかながら大好きな数を扱う職に就こうと思ったのは。
教師や学者も考えましたが、私の性格上他人に教える等は難しいと思いまして
他の物を探し始めたのだったと記憶しております。
その後、高校に進み大学受験を目指す時に専門の資格を検索した中に、公認会計士と税理士の二択へと決めたのです。
両方調べてみた所、簡単に説明しますと税理士には例外にも撚りますが大学卒業資格が必要条件となり、公認会計士の方は年齢や学歴を問わずに資格試験が受けられる事が理解りました。公認会計士は資格の取得後二年の実務助手や一定期間の就業研修が必要ですが、上手く行けば卒業後すぐに就職出来ると考えそちらを目指す事に決めたのです。
大学2年の時には大半の単位を取得し、同時に資格試験を受けました。
残りの二年間で父の知り合いである、お師匠様の元で助手として働きながら残りの単位と卒業資格を得て卒業後にそのまま公認会計士としてお師匠様の会計事務所に就職させて頂き、現在に至るのです。。
長々とお聞き頂き、有難う御座いました。。
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私があの子に出会ったのは大学3年生の秋だったと思います。
ご自分の祖父であるお師匠様を突然訪ねて来たのです。
何用かと思いましたが、聞くところには高校受験を始めるので数学の勉強を教えて欲しいと言うのです。(手遅れでは無いかと、思ってしまったのは内緒ですが。)
あの子が言うには、公認会計士だから数学を教えるのが上手そうだからと思ったと
面白い発想をするものですね。。
お師匠様は孫が可愛いので何とかしてあげたかったのでしょうが、当時は忙しかったらしく、何と私に家庭教師をしてくれないかと頼まれたのでした。
他人に教えるのが苦手なので公認会計士を目指している私が、まさか家庭教師をさせられるとは思ってもいませんでした……
最初は断って居たのですが、押し切られてしまいまして。
既に学生と助手の二足の草鞋でしたので、手が空いている時ならばと。
お師匠様の元では普段事務所での書類作業と出先への付き添いをしていましたが
そちらは良いので、その時間にも教えてやってくれと言われまして、結局週に3度二時間程という普通の家庭教師よりも長いと思う位つきあいましたね……。
最初はどうなるかと思いましたが、始まってみると意外に飲み込みが早くどんどん勉強が進みました。それに人付き合いの苦手な私にも屈託無く話し掛けてきて、いつの間にか仲良くなっていましたね。あれも一つの才能なのでしょう。
そして、あの子も無事に志望校に合格し、私も卒業して助手という肩書も取れ、そのまま事務所の一員として迎えられました。
あの子も偶に事務所に遊びに来たりして高校生活を楽しんで時間が過ぎて行き
3年生になって直ぐの頃にアレが待っていたのです。
また受験勉強ですね。正直やはりと思いましたが家庭教師を頼まれましたね(笑)
まぁ私も実は待っていたのかも知れません。大学時代とは異なりそれ程の時間は取れませんでしたが、受験も大丈夫かと思われた最後の冬、年も開けて直ぐ位に彼が嬉しそうに訪ねてきました。。
母親が再婚するのだと、新しい家族ができるのだと……………
そのすぐ後でした。あの子の新しい父親に病気が見つかり、簡単な手術だった筈のそれが信じられない医療ミスで亡くなったのです。
お通夜でみたあの子の顔は、あの日のそれと違い無表情で遺影を見つめていたのです。多分、母親の為に自分が泣くのを我慢していたのでしょう。今でもあの顔は忘れられません………
私とお師匠様は繁忙期であった為に、お通夜でのご焼香だけはさせて頂き、翌日のお式と火葬場への付き添いには行けませんでした。
そして更にあの子にとっての不幸……スミマセン、この言葉はあの子には使うべきではありませんでした………悲劇が起きたのです。。
親戚一同を乗せ、お焼き場へと向かう途中に、そのバスが横転事故を起こしたのです。
彼一人たけが、ほぼ無傷で助かりました………
連日マスメディアはあの子を取り上げ奇跡の生還とか、あの言葉を……
そして心無い同級生に依ってあの子の実名入りの画像がネットに上げられ
さらにそれがTVや週刊誌で話題にされ、日本中があの子の話題を晒したのです。
ネット上では、あの子の情報で炎上が繰り返され、あの子の名前を捩った有り得ない誹謗中傷が飛び交い、家族を亡くしたあの子のその未来さえも奪って行きました
お師匠様の方も親戚の殆んどを亡くされ、大事な娘も失いましたので、その悲しみは私には想像が付きません。
そして、ただ一人最期に残されたあの子の現在を知り
お年のせいもあったのでしょう、病床に耽ってしまわれました。。
あの子は、心無いあの噂を気にして祖父であるお師匠様のお見舞いには訪れませんでした。
そして、段々と衰弱されて行くお師匠様は、最後の頼みだと、私にあの子を連れて越させたのです。
お二人の話し合いの時は、私は病室を離れて、その会話の内容は伺い知れませんが
部屋を出て来たあの子の顔は、少しだけ前を向けていた様な気がします。
その後日に直ぐあの子は自分の2度目の名前を又、変える事にしたのです。。
あの子との話を終えた後、お師匠様は私を呼びそして、あの子の未来を私に頼んだのです。。ご自分の持つ、現金や土地家屋その他全てをあの子へと譲るための書類を“ご自分で”揃え、私に託されました。
そしてあの子が名前を変えた事を知り。
「これで安心して死ねる、あの子のせいだと言われる事無くて良かった。」
そう仰って笑いながらその四日後にお亡くなりになりました…………。
誤字チェックの添削で読み返して自分で泣きました。
重いよっ!重すぎるよっ!
次話は明るくなれば良いな………。ならないんだけどね。。
里美さん、頑張ってよ!