世界を肯定する物語の難しさ (宇多丸の細田守称賛に関して)
宇多丸の映画レビューを気に入って聞いていた。宇多丸のレビューは良いものは良い、ダメなものはダメとはっきり言うので、そこが視聴者には魅力だったわけだが、細田守作品に対しては全面的に称賛している。
この称賛はネットでもかなり批判があるようで、自分もネットの批判の方が「正しい」と思っている。というより、宇多丸の細田守礼賛は、宇多丸のレビューに溜飲を下げていた層からすればがっかりする所だろう。というのは、宇多丸は他者性を排除した自分達の心地よさだけに浸る内向きの映画(「食堂かたつむり」や「ルーキーズ 卒業」など)を批判していたからだ。細田守作品に他者性があるかは微妙だが、偽善的なのは間違いないだろう。
誰だって、人間だから、間違ったり、いい加減な事を言ったりするのは、当然だ。自分も間違ったり、いい加減な事を言ったりしてきたのだが、問題はそこに統一性とか一貫性が感じられるかという事にある。自分は、作家や哲学者の歩いてきた思想的道筋というのを辿っていくというのを個人的にいくつかやったのだが、結局、優れた人というのは彼らが「歩もうとする道筋」が正しいと感じられるのであって、彼らの能力がどうとかいうより、彼らが何を指向しているか、彼らの羅針盤が正しい方向を向いているのかという事が大切であるように感じられた。
宇多丸の細田礼賛はそういう意味では、宇多丸ファンには、一貫性を欠いたものに見えているのではないかと思う。宇多丸は細田守の映画に関してこんな事を言っている。
「細田さんの作品の根底には健全性がぶっとく流れている。言い換えれば世界への肯定感がある。細田さんはずばり公共のために作品を作ることが自分のモットーであると公言されていますが(略」
「逆に、例えば成功した子育てとか、理想的なお母さんとかをフィクションで描いてはいけないって法もないでしょうと思うんです。つまり、世界を肯定的な目で絶対的に見つめる作家がいてもいいでしょうと。」
(宇多丸 「おおかみこどもの雨と雪」評より
「さめたパスタとぬるいコーラ」というブログを参考にさせていただきました)
宇多丸はこう言うのだが、これはおかしい。ネットのコメントにもあったが、細田守の「世界への肯定感」というのはそもそも「嘘くさい」のであって、何故嘘くさいかと言えば、そもそも「世界への肯定」というのが非常に難しいものだからだ。
普通に考えれば分かるはずだが、「世界を肯定する事」と「世界のあり方を偽善的にまるめ込む事」は全然違う。そこで、本当の、古典となって残るような芸術家と、その時代・雰囲気の中で終わる芸術家との違いが出てくる。
世界というのは何だろうか。考えてみれば、目を見開いてみれば分かるはずだ。確かに楽しい事も、嬉しい事も、喜ばしい事もあるだろう。しかし、同時に、色々な悲惨や犯罪も存在する。殺人があり、強姦があり、様々な悪があり、報われない被害者もいる。それだけではなく、目に見えない悪とか、罪に問われない犯罪もある。権力と悪が一致すれば、それを裁く方が自分達を認可しあうので、そこでは罪や悪は問われる事すらない。大きな力を持てば、悪すら悪でないという事になる。そういう人間の醜さは、自分の中にもあり、自分の外にもある。
世界への肯定感と一口に言ってみても、世界のほんの一部、自分達にとって都合の良い部分を切り取って肯定し、それを「全て」とする事と、世界の混沌を受け入れて、肯定するのとはまるで違う話だ。幼い頃から親に虐待されてきた人間に対して「でもほら世界はそんなに悪い事ばかりじゃないよ。いい事もあるよ」というのは途方もない偽善なのだが、そういう忠告をする人はやがて、そういう人間ーーつまり、世界の理不尽さを全身に受けた人間を切り捨てるだろう。それは細田守作品があるものを切り捨てるように切り捨てる。
本気で世界を肯定しようとした人としては、トルストイという作家がそうではないかと自分は思っている。最も、これはシェストフのトルストイ理解に強く影響されているので、偏った見方という事は言っておきたい。
トルストイという作家は本気で世界を肯定しようとした。「アンナ・カレーニナ」という作品には二組のカップルが示されるが、片方は都会で浮ついた生活を送って、不倫に陥るアンナとヴロンスキー。もうひとつは、田舎で真面目に生きるリョーヴィンとキチイ。結果的には、都会で浮ついた生活を送る二人は悲劇的な結末となり、田舎で暮らす真面目なカップルは幸福な結末となる。
哲学では、徳福の一致という話があるが、要するに、「善人だからといって幸せになれるとは限らない」という話だ。逆に言えば、悪人が幸せになる可能性だって十分ある。散々、虐殺しまくったスターリンは王としてその生涯を終えた。世の中がそんなに理路整然としているわけもない。
しかし、人間はそんな理不尽には耐えられない。「アンナ・カレーニナ」で幸福になるカップルの片割れ、リョーヴィンにはトルストイ自身の面影が封入されている。トルストイは善が幸福と結びつき、トルストイが不徳とみなすものが悲劇的な結末を辿る姿を描こうとした。
こう書くと、トルストイは偽善的な話を書いたという事になるだろうが、確かに、そういう部分はある。しかし、トルストイの偉大さは、なんとしてでも、善や幸福に辿り着こうとする過程で、世にある理不尽・混沌・悪といったものから逃げ出さなかったという事にある。それから逃げ出さず、それらを含みつつ、なおも世界を肯定しようとした所にトルストイの偉大さがある。しかし、その結果はどうだったか? 最終的にトルストイは自身の作品も含めたほとんどの芸術を否定し、道徳を撒き散らす宣教師の立場になった。彼は最後には、家を出て、駅で野垂れ死にしている。
トルストイそのものは悲劇的な結末を辿ったのだが、彼がその内部で目指していたのは幸福であり、善であり、徳であった。世界は悪いものではない、素晴らしいものだと宣言しようとしたのだが、そう言おうとした瞬間に、世界の理不尽という事実が彼を襲った。彼は富裕な地主だったが、同時に、世界には貧しく、ただ押し潰されて死んでいく人間もいる事も理解していた。
トルストイの話はこれぐらいにするが、自分が言いたいのは「世界を肯定する」という事は途方もなく難しいのであって、それをやるのは、人間にとって恐ろしい難行だという事だ。こういうものに対して「そういうアーティストがいてもいいじゃないか」というのはもちろん結構だが、しかし、それは「世界を偽善的に切り取る」というのは全く意味が違ってくる。
細田守の作品に世界に対する「ぶっとい」肯定感が流れているとしても、それが、細田守が世界の混沌を見据えた上での肯定ではないとは、見ている誰にもわかるものであると思う。要約すれば、細田守にしろ、新海誠にしろ、それらの作品は「エンタメ」である。これらの作品は世界の混沌を見据えて、それをフィクションとして乗り越えようとするものではなく、世界の混沌を排除しながら、自分達の気持ちの良い空間を作り、それをある種の人々に見せる、そういう作品であるかと思う。
そういう作品は僕の定義では「世界の肯定」とは呼べない。世界というものには嫌なものも、気持ちの悪いものも混じっている。それらから逃げ出さない事が、偉大な物語作家の特徴だと思うが、細田守はそういうタイプのアーティストではない。だから、世界への肯定というのがいかに難しいか、それがわかれば、細田守をああした形で絶賛する事もないと思う。細田作品のクオリティの高さはあくまでも、一部分の人が喜ぶ為にできてきたものであって、人間全体の在り方を見据えたものではない。
僕の理解では、細田守の中にある羅針盤というのは、正しい方向を指していない。彼は、世界を肯定しようとしているのではない。世界の一部を切り取って、それを全てであるという風に誤認させようとしているにすぎない。現代のエンタメ作品の多く、または芸術を装っているものの実質エンタメでしかない作品というのは、我々にとって気持ちの良い空間を演出して、そこに浸らせてくれる。しかし、聖者になろうとしたトルストイという人間を、現実という悪魔が絶えず苦しめたように、我々がいかに空想的な作品に耽溺しようとしても、現実は我々を捕まえて離さない。この闘争から逃げ出さない事は恐ろしく辛い事だが、本当の芸術家はそれから逃げ出さないのだと思う。ところで、細田守はそういうタイプのアーティストではない。