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バーフバリ王が現代日本を救う!

作者: 鈴木美脳

 バーフバリ! バーフバリ!

 もとい、『バーフバリ』というインド映画があって、面白い。

 日本人みんなに見てほしいな。


 何が面白いって、物語が感動的。

 なぜなら、キャラクターが魅力的。

 現代日本には作り出せない種類の感動がそこにはあるのだ。

 現代社会が忘れてしまった何かがそこにある。


 映像はお金かかってて凄い。

 主人公やヒロインも美男美女。

 音楽や踊りも元気があって美しい。インド映画ですし。

 でもそこじゃない!

 バーフバリの凄さはもっと深いのです。

 人物達の奥底にある哲学。

 その哲学が、現代日本の社会とは異なる。

 そこに魅力がある。非常に示唆的なのである。


 作品は1と2とあって、前半と後半に物語が別れている。

 かなり長いのだ。しかもアクションシーンが結構ある。

 インド人並みの元気がないと、見ていて途中で疲れてしまうかもしれない。

 なので万人に必ず楽しんでもらえるとまで言いにくい……。

 でもちゃんと展開があって、前半と後半の整合性はかなり高い。

 そして、すでに言ったように、通底する哲学に凄さがあるのである。

 どう凄いかっていうと、この映画を見ると、日本がいい国になって、日本人が幸せになると思う。

 そういうスケールの凄さなのだ。


 社会論の知識があると、この凄さを論理的に分析できる。

 以下、『バーフバリ』の凄さについて分析してみよう。

 若干のネタバレを含むので、読みたくない人は読まないでください。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 凄さの一つは恋愛。深く心通じ合う。

 それと家族愛。やっぱり、心通じ合う。

 さらには、社会的な愛。集団の心が一つになる喜びがあるのだ。

 それらの本質は、「エゴイズムの超越」と言い表せる。


 ヒロイン「デーヴァセーナ」の台詞の一つに次のものがある。


「国の威光を示すのは王座でも黄金像でもなく

 徳のある治世

 徳のなさを恥じなさい」


 『バーフバリ』の凄さの本質にあるのがこの哲学だ。

 社会論では、この哲学を、「徳治主義」と呼ぶ。

 徳治主義というパラダイム自体は、世界中の歴史において見られたものだ。

 しかしそれとは異なる巨大なパラダイムも存在する。「大衆主義」である。

 「徳治主義vs大衆主義」という視点で見ると、『バーフバリ』の意義の本質が理解できる。


 なお、ニーチェという哲学者の言葉を借りれば、徳治主義と大衆主義はそれぞれ、「君主道徳」と「奴隷道徳」と呼べる。

 哲学のマイノリティな流派においては、これらは詳細に分析されてきた。


 現代社会は実は、「大衆主義」というパラダイムに色濃く影響されている。

 フランス革命以後の、世界全体が影響されていると言うべきかもしれない。

 というのも、現代民主主義の源流には、歴史的な王権に対する否定があったのだ。

 つまり、権力というものは、非常に危険なものだ。

 権力には必ず、功罪の両面がつきまとう。

 いわゆる、「独裁」や「専制」に対する否定が、民主主義を作り上げてきた。

 だから、民主主義の素朴なパラダイムは、「権力vs市民」である。


 「権力vs市民」という視点は、権力の横暴を批判するには都合がよい。

 しかし、安易に用いれば、時に行き過ぎることもある。

 行き過ぎればそれは、「大衆主義」としての色彩を強める。

 そして、大衆主義としての色彩を強めるということは、徳治主義の美点を損なうことを意味する。

 民衆の欲求を権力から解き放とうとすることは、行き過ぎれば、倫理的な規範までもを弱めてしまうことに繋がるからだ。


 現代日本の思想を考える上では、第二次世界大戦の存在を無視できない。

 世界にとってもそうだが、それは日本にとって非常な悲劇であった。

 悲惨な負け戦を戦った日本は、戦争を呪い、軍隊までもを嫌った。

「正義の戦争など存在しない」

 それが戦後日本の哲学になった。

 それは世界的には極めて特殊な哲学だ。ほとんどの国は、自衛戦争についてはさほど迷わず肯定する。日本は、戦争自体を悪と見なす傾向が強い。


 その結果、日本は、外交の要素としての軍事力を軽視するまでに至った。

 軍事的な抑止力の拮抗でなしうるものを、経済力で代替しようとした。

 経済的な相互依存による平和の増進を重視し、商業活動を重んじた。

 商業活動それ自体は、自由市場を本質とするから、権力の必要性は小さい。

 だから、戦争で莫大な損失を経験した日本は、国家権力を抑圧することを優先していった。

 つまり、権力よりも「市民」を優先していった。

 市民それぞれの自由を優先した。国が価値観を押しつけることは否定された。

 しかしそれは同時に、社会的な規範を失っていくことでもあった。

 個人の価値の一つとしての「人徳」という視点は、結果的に、失われていった。


 民主主義は、大切な考え方だ。

 しかし、「権力vs市民」という考えが行き過ぎれば、倫理的な規範を損なう。

 倫理的な規範が損なわれれば、個々人の欲望を肯定することになる。

 自らの欲望を許すことは、基本的には喜ばしいが、弊害はある。

 人間の人徳を尊ぶことが忘れられ、社会から「徳治主義」の実態が失われていく。

 だから、徳治主義と大衆主義とは、本質的な対立軸なのだ。


 大衆主義は、個々人の欲望について、露悪的である。

 徳治主義は、放逸な私利私欲を恥と見なして、心に気高さを求める。

 これらは、非常に異なった哲学である。


 大衆主義が行き過ぎれば、モラルとコンプライアンスの区別がわからなくなる。

 逆に言えば、モラルとコンプライアンスの違いがわからなくなっている社会は、大衆主義に傾いている。

 コンプライアンスとは、遵法主義であって、善悪の基準は法律にある。法律に明記してある以上のことを他人に強いるな、というのが、近代的な自由主義や功利主義の矜持だ。

 法律には罰則が定められているから、私利私欲を追求するとしても、コンプライアンスに従うことになる。一方で「モラル」とは、法律のもとでの私利私欲だけでは説明のできないもののことである。

 雑に言ってしまえば、罰を恐れて法を犯さないのがコンプライアンスであり、社会の人々の幸福を望むことがモラルである。

 これは本質的には、「選挙+法律+私利私欲」で社会が持続的に発展するか、そうではないか、という考え方の違いである。大衆主義はそれを肯定し、徳治主義はそれを否定する。

 「大衆主義」は、コンプライアンス以上のモラルの意義をほとんど認識しない。「徳治主義」はむしろ、コンプライアンスを越えた部分のモラルにこそ価値の実体が宿っていると考える。


 大衆主義は本質的に、私利私欲について肯定的なのである。

 そして、近代経済学における自由競争市場の原理を重視する。「見えざる手」による自動調整機能を尊ぶのだ。

 結果的にはどうしても、金銭主義、悪く言えば「拝金主義」の傾向が生じてくる。

 お金を多く持っている人々に人気が集まり、お金を多く持っていることが幸せだと見なされる。

 自分さえよければよい、といった考えで人間性に劣る振る舞いをすることも、お金になるならよいと、許容する感覚が強まる。

 「徳治主義」から遠ざかれば、どうしても人々は「拝金主義」に染まっていく。

 現代日本も、残念ながらその色合いが強いのだ。


 ここで再び、ヒロイン「デーヴァセーナ」の言葉を引用しよう。


「そなたが飛びつく金銀財宝も

 私には塵に等しい」


 塵! (塵と書いてチリです!) 過激ですよね。

 でもこれこそが、「徳治主義」の本質なんです。頂点なんです。


 近代日本の戦前時代には功罪があるが、1882年の「軍人勅諭」に次の言葉がある。


「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ」


 つまり、善悪の重さに比べれば、命の重さは羽毛に等しいと。

 世界史の思潮をマクロに眺めるならば、これらには共通点を見ざるをえない。

 つまり、お金や命といった、私利私欲から言えるような価値を、どこまでも限りなく蔑んでいくことが、「徳治主義」という考え方の本質にある。なぜなら、徳治主義は、私利私欲を自制し合うことが、(幸福合理的な意味で)社会を社会たらしめているエネルギーだと考えるからです。

 逆に、大衆主義がどこまでも行き過ぎれば、お金や自分の命だけが価値になっていってしまう。


 私利私欲だけを重視することには、もちろん大きな弊害がある。

 利己的なコンプライアンスは生じても、内発的なモラルは失われてしまうからだ。

 つまり、人々が権威主義に傾いていく。とがめる目がなく、罰されないと思えば、パワハラやセクハラも恥じることなく行われる。

 どんなに法律を細かく定めても、機械的には定めきれない抜け穴が残る。それを利用して、非道な性格の人々が社会的な地位を得ていってしまう。

 だから、「徳治主義」という古典的な価値観は、実は、永遠にその価値を失わない。

 近代的な大衆主義が自省的であるために、徳治主義は常に必要とされているのだ。


 『バーフバリ』は、インドでもややマイナーな、テルグ語圏で生まれたものだそうです。

 主人公の顔立ちも、いわゆる西洋的なものとは異なる美しさだし、みんなテルグ語で喋る。

 テルグ語については、日本語のテキストもごく少ないみたいだから、やっぱりマイナーだということでしょう。

 よく(まったく)知らないのですけど、近代化が比較的に遅れた地域だと言っても間違いではないだろうと思います。

 その地域から『バーフバリ』が発表され、全インドのみならず日本でも人気を博したことは、大きな理由があると考えられる。

 日本は最後に近代西洋と接触したと言える地政学的な特徴を持っている。しかし接触して、明治維新以後の全国的な近代化は急速かつ画一的だった。そして敗戦を経験し、徳治主義はほとんど完全に失われてしまった。ある意味では、近代化が早かったのだ。

 一方で、テルグ語圏には、その「徳治主義」が生き残っていたのだと考えざるをえない。

 その徳治主義は、テルグ語圏にあっても、様々な圧迫にさらされているはずだ。経済競争の現代にあって、精神にモラルを備えて生き残ることは簡単ではないはずだからだ。


 だから、『バーフバリ』は、テルグ語圏からの非常に貴重なプレゼントだと思います。

「テルグ語圏の皆様、ありがとう!」

 そう言ってみせるのが、日本として自然だろうと思う。

 そのくらい、『バーフバリ』は深い示唆に富んでいる。

 『バーフバリ』から日本が得られるものは非常に大きい!

 「徳」の感動が作品中に散りばめられている。大衆主義の偽善にわずかにも汚されていない、本来の純粋な「徳」の価値を、『バーフバリ』は描ききってみせたのだ。「徳のなさを恥じなさい」、これは金言とすべきだ! デーヴァセーナ様まじ天使! なむなむなむ……。

 この映画の精神性は、とても「正しい」と言える。『バーフバリ』を見た日本人男性が、その主人公のような気持ちを少し持って翌日から生きる、日本人女性が、ヒロインのような気持ちを少し持って生きる、そうしたら日本はさらにずっと素晴らしい国になります。

 『バーフバリ』は、現代日本にもたらされた救済だ、とすら言える。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 以上が、社会論の視点から言える『バーフバリ』の意義である。

 最も難解にして、最も深い分析だろう。(自画自賛)


 しかし、堅い話を抜きにすれば、単純に「この映画は面白い」ということだ。

 その感動をあえて分析すれば上の議論にも繋がるが、分析する必要はないのかもしれない。

 それが、映画のいいところだ。社会論ではなしえないところだ。

 欧米や日本の、どんなに優秀な人々がどんなに論理を語っても、現代的な「拝金主義」の拡大は止められなかった。金銭への蔑みと徳治主義とは、破壊されつづけてきた。

 しかし、テルグ語圏とやらから訪れた映画一つが、事態を一変させてしまった。

 私が果たしたかった全ては、『バーフバリ』によって果たされた。

 社会論など不要だということだろう。人類の潜在的な力には驚嘆せざるをえない。


 なので理屈は脇に置いて、最後には感情的に讃えてしまおう。

 バーフバリ! バーフバリ! バーフバリィィィィ!!

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― 新着の感想 ―
[一言] お久ぶりです、にのい・しちです(^^) いやはや、鈴木美脳さんは「バーフバリ」をそこまで掘り下げて見ていたとは(;'∀') 僕などは単純に歌って踊って戦って熱くなる作品ぐらいでしか見てい…
[一言] 初めまして。 私は社会学については詳しくありませんし、件の作品もみていません。 私が感じたのは、筆者さんの言う大衆主義と徳治主義は、利己主義と利他主義と言い換えてもいいような気がします。…
[気になる点] >「バーフバリ」という作品の魅力、価値を大きく損なうエッセイだった 書こうかどうか長いこと迷っていましたが、言いたいことは言っておくことにしました。 内容についてではなく、書き方の…
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