第8話 文化委員長「雨城のお嬢さま」
文化委員長・雨城楊子。
彼女は、その名が示すとおり、学園創立者にして子爵位を有した華族・雨城直柾の末裔だ。
雨城直柾による創立の後、代々の雨城子爵家の子弟は、多くが機枢高校(旧制機枢高等学校・尋常科)に入学し、生徒会長や委員長といった要職に就いてきた。
そのため、現在の機枢高校の中でも、「雨城」という名前は特別な意味を持つようになっている。
雨城楊子もまた、学園の生徒たちから特別な目で見られていた。
ただ、彼女は、その華奢な体に「雨城」の血こそ流れているが、本流である旧子爵家ではなく分家の出身だった。
それでも、このとき機枢高校に在籍している「雨城」の人間は雨城楊子しかいなかったため、彼女は家名に寄せられる声望を独占してしまっている。
ただ一人の「雨城」として、雨城楊子の学園内における一般生徒からの人気は、清川会長に次ぐものとなっていた。
そのことについて、あるとき、体育委員長・平山雪家が周囲にこぼした。
「いつの時代、どんな社会でも、大衆は高貴な血統に惹かれるものだ。それに……文化委員長は、顔が良いからな。『美人のお嬢さま』が人気を集めるのも、仕方がないさ」
平山体育委員長が、公的な場において雨城文化委員長と対立していたことは、周知の事実だ。
しかし、その彼女でも、雨城委員長の人気と容姿だけは認めるしかなかったようだ。
文化委員長・雨城楊子の長い髪は烏の濡れ羽色で、その美しさは清川会長をも凌ぐと評される。肌は高級な陶磁器のように白い。気品ある顔立ちには、ときおり、憂いを秘めたような表情が浮かぶ。そこがまた、見る者の心を惹きつけるのだった。
その雨城文化委員長は、いつもよりいっそう深い憂いの表情で、自身の部屋に祇園たちを迎えた。
「祇園側用部長、君が私の部屋を訪れた理由は、分かっている……つもりだ」
祇園が用件を切り出すよりも早く、雨城は語り出した。
その口調は、「お嬢さま」というよりも貴族の当主のように、威厳あるものだ。
「先の投票において私が裏切ったと、清川会長は思っているのだろう? それを、君は問いただしに来た」
その問いかけに祇園は即答しないで、まず、雨城の表情を探った。
陰影の深い貌を見るに、清川会長の読みは正しく、雨城の離反は事実なのだろうか。
しかし、仮に雨城文化委員長が「裏切り者」だったとしても、祇園に、それを問いただそうという気はなかった。彼女に与えられた務めは、雨城を清川会長陣営に復帰させること、それだけなのだ。
「雨城委員長。私がここに来た理由は、清川会長のお言葉を、あなたに伝えるためです」
「あの人は、何と?」
「会長は、こう言われました。次で最後とする、と」
「……最後通牒、だな。『心を入れ換えれば赦してやる。次はないぞ』といったところか。すると、やはり会長は、私が離反したと思われているらしい」
伝言に含まれた意味を正確に読み取ると、雨城は憂いの表情に、小さな苦笑を浮かべた。そこには、皮肉と悲嘆の微粒子が含まれているようだ。
やがて、苦笑を収めると、雨城は冷ややかな声で祇園に告げる。
「嘆かわしいことだ。任期満了を前にして、清川会長の慧眼にも曇りが生じたか。私は裏切ってなどいないというのに」
裏切っていない――その言葉を、祇園は直後の驚きと、数瞬後の複雑な思いで受け止めた。
信じていた人物の潔白に、安心したい感情はある。
しかし、雨城でないなら、誰が裏切ったのか。それを考えれば、彼女の言葉も素直に受け入れることはできない。
「事実ですか?」
「誓って事実だ。私は、清川普青書記に投票した」
「…………」
「……たしかに昨今は、私が管轄する文化系部活動のいくつかの問題を巡って、会長と口論になったこともある。おそらく、それを気にして、会長は私を疑ったのだろうが……」
一瞬、雨城は先ほどよりも苦味の深い、憂いの表情を浮かべた。だが、すぐにその表情を硬質のものに切り替えると、彼女は祇園に向かって断言する。
「しかし、その軋轢を……少なくとも、それだけを理由に裏切るようなこと、私はしない」
「それは……あなたが、清川会長から今まで受けてきた恩義によるものですか?」
「恩義、か。まあ、たしかに、会長には文化委員長の顕職に就けていただいたし、その後もいろいろと世話になってきた。そうした恩には、できるかぎり報いたいとも思う。だが……」
一度、言葉を切ると、雨城は、視線と語調を強めて言い放った。
「だが、私が清川会長に従うのは、なによりも、それが私たち文化委員会のためになるからだ。私には文化委員長としての、委員会や部活動を守るべき責任がある。だから……清川会長が文化委員会を冷遇したり、彼女よりも優遇してくれるような人物が立候補したりしない限りは、私の忠誠も揺るがないだろうよ」
それは、文化委員長・雨城楊子の、清川政権に対しての牽制だった。これに、祇園は無言で対峙する。
やがて、祇園は一つ頷くと、顔に微笑をつくった。
「分かりました。あなたを信じます。雨城委員長は離反していないと、清川会長にお伝えしましょう」
「……ありがたい」
そう言った雨城だが、表情は、まだ硬かった。祇園に向ける視線は、なにかを探ろうとするようだ。
決して気分の良いものではなかったが、それを無視して、祇園は一つの疑問を発す。
「しかし、雨城委員長。あなたでなければ、誰が離反したのでしょうか?」
その質問を受けて、雨城は一瞬、驚いたようだった。
意外というような表情は、すぐに掻き消えて、彼女は視線鋭く問い返す。
「平然と言ってのけるな。離反者は君だろう? 先の投票で、君は自身に一票を入れていたじゃないか。あれを見て私は、いよいよ祇園も独立独歩の志を立てた、と思ったのだが」
「……はぁ。雨城委員長、あなたもですか」
祇園は大きな溜め息を吐きだした。先ほどからの祇園を探る視線の意味が分かったのだ。
雨城だけでなく、俵田宮一も、清川会長も、皆が祇園の野心を疑う。
しかし、そのようなものが存在しないことは、誰よりも祇園が分かっているのだ。
「私には、生徒会長になるべき意志も能力も資格もありません。先の、私への一票は、それを分からない何処ぞの馬鹿が入れたものでしょうよ」
苛立ちから、つい、言葉が粗暴になってしまった。それをすぐに自省して、祇園は穏やかに告げる。
「雨城委員長。先ほど私は、あなたの言葉を信じました。だから今度は、あなたが私を信じて欲しい」
「……そうか、分かった。うん、疑ってすまなかったね」
素直に謝った雨城だが、その直後、彼女は一つ付け加える。
「しかし、祇園。君は卑下したが、『生徒会長になるべき能力と資格』ぐらいなら持っていると、私は思うよ」
「あっ」
ごく短い驚きの声は、祇園の背後に控える俵田が漏らしたものだった。
彼は先ほど、祇園なら生徒会長の職も充分に務まると語ったが、そのことへの賛同者が今、目の前に現れたのだ。
祇園としては、自身を高く評価する人々に前後を挟まれたことになる。
しかし、背後の俵田はともかく、前に対峙する雨城のそれは、冗談だろう――祇園は冷ややかに、そう断じた。
「雨城委員長」
短く、冷淡に呼び、祇園は雨城の「冗談」を封じた。
それは、清川会長が祇園の意見を抑えるときに使う方法の、無自覚の応用だったが……そのことには気づかないまま、彼女は努めて冷静に伝える。
「あなたには、次も清川普青書記に投票してもらいます。……よろしいですね」
これに、雨城は了承した。
こうして、文化委員長に次の投票を確約させたことで、祇園の仕事は、まず一つ完了したのだった。
次回
第9話
体育委員長の本質