第27話 彼氏と彼女
生徒会議長・那珂川涸太郎、生徒会会計・東田ひよこ。
生徒会役員の二人が「彼氏と彼女」の仲であることを知る者は少ない。
二人きりの第二会議室。
彼氏の方が、ひと月ほど前から付き合うことになった彼女に語りかける。
「東田会計……」
姓に役職を付けただけの、あまりに色気のない呼びかけだったが、それでも東田の表情は明るくなった。
……ある種のフィルターのようなものがかかっているのかもしれない。
基本的に、「彼氏」である那珂川の一言一行は、なんであれ東田にとっては魅力的なものだった。
小柄な体の中に、少女は恋心を秘める。
――生真面目で神経質で無愛想で、女性に対する配慮が皆無で、本当は端整な顔立ちなのにいつも目つきを険しくしてしまって、それでも、たまには優しい表情を見せてくれる先輩。
その先輩が、今は自分を慰めてくれるのではないかと期待したのだ。
……しかし、それは儚い期待だった。
「先ほどの、小櫃総務委員長の陣営と協調するという案のことだが」
「……はあ。知ってましたよ。どうせ、こうだって知ってましたけどね」
那珂川の事務的な言葉に、一転して表情を曇らせた。東田は溜め息まじりに言うと、すぐに思考を切り替える。
「なんでしょうか?」
東田は、一瞬で思考を「生徒会会計にして本部役員の一人」という公人のものへ切り替えた。
彼女の真剣な表情を見て、那珂川は満足を覚えたらしい。その険しい眼光に、わずかだが嬉しそうな色を映したのだ。
その満足の表情もすぐに収めると、那珂川は尋ねる。
「小櫃委員長に協力させる見返りとして、彼へ生徒会議長の地位を約束するということ。君は、本当にそれで構わないのか?」
「……どういう意味でしょう」
「私は、次の生徒会では君が議長になると思っていたのだが」
生徒会会計を務めていた者が議長になるというのは、珍しい話でもない。
現に、那珂川自身も一年前までは会計だったのだ。
昨年の選出会議の後、清川総璃愛が生徒会書記から会長になると、会計・那珂川涸太郎も議長へ昇進した。
その前例が、今回も、清川普青と東田ひよこによって踏襲されるだろう。そのように、那珂川は考えていたらしい。
その考えは東田も同様だった。
しかし……。
「私も、できれば議長になりたかったですよ。先輩の後を継ぎたかったです。……でも、諦めます。そうでもしなければ、小櫃委員長を味方にできず、この会議も終わらないでしょうから」
「東田……」
一度、口をつぐむと、那珂川は思案顔をつくった。
やがて、彼は淡々と言う。
「……東田会計。君には、これまで色々と教えてきたな」
「ええ。涸太郎先輩には、大変お世話になりました」
元会計ということもあり、那珂川議長は東田が生徒会に入ったときから、彼女の指導役を務めてきた。
その指導内容は、生徒会会計としての仕事や心構え、委員長たちに対する予算折衝の技術。他にも、学園の中枢、権力の側近で生きるための知恵など、多岐にわたる。
そうした、那珂川議長がこれまで得てきた知識と情報を、東田はすべて学びとった。だけにとどまらず、彼女は実践を重ね、自身の経験も蓄積していった。
東田は、那珂川の優秀な弟子だったろう。
数ヵ月ほどで、彼女は師匠を凌駕するほどの、学園財政を統御する生徒会会計となったのだ。
ただ、東田が財政家としての実力を身につけた後も、彼女に対して那珂川は、上から指導するような態度を変えなかった。
まだ、彼女を「未熟な後輩」だと思っているのかもしれない。
そして、今回も……。
「……これまでの指導の中で、一つ、伝え忘れていたことがあった。いいか、東田会計……」
――そら来た、と東田は思った。
那珂川からの指導に、無論、彼女は感謝しているのだが、それでも今では少し煩わしく感じてしまう。
真剣ではあるが少し暗い表情で身構えた彼女を気にする風もなく、那珂川は淡然と告げる。
「この機枢高校で権力の側にいる人間にとって、妥協はそのまま弱みとなる」
「……私が議長の地位を諦めたら、それは私にとっての不利になる、ということですか?」
「考えてみなさい。君の案が実現すれば、会長は清川普青、議長は小櫃。そして、君は会計のまま、その下につくことになる」
「今までと変わりませんね」
「いや、確実に変わる。小櫃委員長の下風に立ってしまえば、これまでどおり彼と対等に交渉することが難しくなるだろう。相対的に君の立場が弱まる、ということだ」
また、小櫃総務委員長の優越を認めたなら、自然と、彼の仲間である他の委員長たちにも譲歩しなければならなくなるだろう。
委員会予算を決めるのにも、主導権を奪われる。
険しい眼光と口調、そして、いつもの上からの態度で、那珂川は東田に説く。
それに、東田は初め、煩わしさを感じていた。
しかし、次第に、秘められた那珂川の真意が見えてくるように覚える。
「先輩。あなたは……」
「いいか、東田会計。君がこれからも機枢高校の中央にいるつもりなら、現状に妥協することへは慎重になったほうがいい。やや欲深くとも、地位を保持し、また、より高みを目指すことを、まず考えるべきだ。……なによりも、君自身の立場を守るために」
――この先輩は、自分を心配してくれているのだ。
東田は気づいた。
今回だけでなく、これまでの少し煩わしかった指導も、すべて自分を思ってくれてのことだったのだ。
嬉しい驚きに瞳を輝かせた彼女へ、那珂川は続けて言う。
「これまで以上に、君は、自身の立場を守るということを考えなくてはならない。私がいなくなったら、もう、君を守ることはできなくなるのだから」
「……本当に。先輩が留年してくれればいいのに」
つぶやくように言ったそれは、那珂川の真意に気づいて、その照れ隠しとしての冗談だった。
そして同時に、東田の本音でもあった。
「せっかく、先輩の彼女になれたのに。もう、生徒会からいなくなってしまうなんて」
「……そうだな」
「それに、あと五ヵ月もしたら、卒業ですよ。先輩と離れるの……嫌だな」
「嫌と言われてもな。それは、どうしようもないことだろう。だから、せめて、私がいなくなっても大丈夫なようにと、君に……」
「……分かっていますよ。心配いりません。私は無論、先輩の彼女ですが、それ以上の長い間、先輩の弟子だったんです。不肖の弟子ではありますが、それでも、たいていの問題なら乗り越えられますよ」
自信に満ちた、東田の言葉だった。
それを聞くと、那珂川は一瞬だけ、珍しく微笑を浮かべる。
貴重な表情。それを、東田は心のカメラに収めるように見つめた。
熱い視線でフィルムに焼きつけて……満足すると彼女は、やや含みのある声で話題を転じる。
「涸太郎先輩。話は変わりますけど……一つ、お願いがあるんですが」
「なんだろうか? 東田会計」
「それ、その呼び方です。……先輩、付き合ってから一ヵ月もたつんですし、そろそろ私を名前で呼んでくれませんか。ひよこって」
悪戯っぽい微笑に、わずかな気恥ずかしさもにじむ表情で、東田は頼む。
しかし、対する那珂川の答えは、つれないものだった。
「東田会計。私はまだ、公人である生徒会議長で、ここは生徒会長選出会議という公的な場だ。だから、そのように私的な頼みには応じることができない」
「もう、固いですね、先輩は。嫌みなくらい真面目すぎます。……では、いつになったら、いいんですか?」
「そうだな……この会議が閉会するとき、私の議長としての最後の仕事が終わる。そうなれば、私も公人ではなくなるな」
「分かりました。なら、一刻も早く、会議が終決するようにしないと。……私、頑張りますよ!」
強く言い放つ、東田であった。
その、私的な思惑によって会議へ臨もうとする彼女に、那珂川は嘆息して言う。
「……東田会計。君には、もう一つだけ、教えておかなければならないことがあるようだ」
「なんですか?」
「極々、基本的なことだ。公私の分別をつけなさい。そう、たとえば……雨城文化委員長と平山体育委員長。両者の関係のように」
那珂川が持ち出した例は奇妙なもので、東田は小首を傾げた。
「どうして、先輩は、対立しあっているはずの二人の名前を出したんだろう?」
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鎧を脱いで




