第24話 湯煙の中の交渉
一瞬のうちに、祇園と望陀は口を閉ざした。
表情を引き締め、新たに大浴場へ入ってきた人物を窺う。
湯煙の向こうから現れたのは、すらりと細く伸びた足。
華奢な体躯、白磁を思わせる肌。
そして、烏の濡れ羽色の髪。
それは、機枢高校で、一、二を争うとも称される美貌だった。
その美貌の所有者――文化委員長・雨城楊子は、湯船の中の祇園と望陀を一瞥する。
なにか声をかけるということはなく、彼女は黙ったまま洗い場へ進んだ。
雨城がシャワーを浴びる音を聞きながら、祇園と望陀は囁きあう。
「……もう、上がりましょうか。雨城ちゃんがいては、密談もできませんし」
「いや、望陀。それは大丈夫だ」
「なぜです?」
「雨城は、私が呼んだ」
息を呑んだ望陀に、祇園は不敵な微笑を向ける。
それを見ると、望陀は友人の考えに気づいたようだ。
「まさか」
「その『まさか』だ。……それで、望陀。これから少し、芝居に付きあってくれ」
――このとき、雨城は祇園たちに背を向け、髪を洗っていた。
艶めく黒髪に、シャンプーが白く泡立つ。
目をつぶっている雨城には、その泡が弾ける音しか耳に入らない……はずだった。
突然、ある音が、雨城の耳に飛び込んだ。
「なんですって!?」
大音量のそれは、望陀の叫び声だった。
「祇園ちゃん! 本気ですか?」
「ああ、本気だ。私は、もう決めたんだ!」
望陀と祇園が、なにやら大声で話している。
これに、雨城は、つい聞き耳を立ててしまった。
他人の会話を盗み聞くことの不行儀を、雨城は充分に知っているが……しかし、この場合は、雨城の耳に届くほどの声量で話す二人に責があるというものだろう。
……祇園と望陀は話し続けている。
そして、決定的な言葉が放たれた。
「望陀! 私は決めた。私は、この選出会議で勝利して、生徒会長になる!」
決して、聞き逃すことのできない言葉だった。雨城は振り返り、祇園を見ようとする。
しかし、雨城が目を開くと、そこに、シャンプーが滲みてしまった。
少し苛立ったような表情を浮かべると、彼女はシャワーに手を伸ばした。
……祇園と望陀は、まだ、わざとらしい大声で話を続けている。
「嗚呼! なんということ。あの清川会長に、背こうというのですか?」
「あの清川会長に、背こうというのさ。……たしかに、清川会長は偉大な生徒会長だった。しかし、それでも、永遠不滅の存在などではない。ならば、この私が、清川会長に引導を渡すとしよう」
「それなら! 私は、もう何も申しません。あなたの覇業に、微力ながら、この身命を尽くさせていただきます」
「よく言った! 望陀、お前は早晩、目にするだろう。機枢高校の新たな時代の幕開けを。機枢高校の革命を。そして! それを執りおこなう者こそは、新生徒会長……」
「祇園」
背後からの冷ややかな声が、祇園の熱弁に水を差した。
それでも祇園は、むしろ満足げな笑顔で、後ろへ振り向く。
そこには、雨城楊子が冷淡な視線で、湯船の中の祇園を見下ろしていた。
「……祇園。呼びつけておいて、私抜きで話をしないでくれ」
そう言って一つ嘆息すると、雨城は静かに、湯船へ身を沈めた。
「……まず、一つ苦情を言わせてほしい」
「うん。聞いてあげよう」
祇園の応答に、一瞬だけ、雨城は意外そうな顔になった。
今日の昼まで、委員長である彼女に対して祇園は丁重な言葉づかいを守ってきたのだ。
祇園の露骨な態度の変化。
それでも雨城は驚きの表情をすぐに収めると、鋭く詰るように「苦情」を伝える。
「私はな、君が『大浴場で秘密の話をしたい』と言うから、こんな時間に入浴したんだ。それなのに、なんだ? あの三文芝居は。あんな安っぽい寸劇を見せつけるために、私を呼びつけたのか?」
「私としては、名演技のつもりだったんですがねー」
脇から、冗談とも本気ともつかない口調で望陀がつぶやいた。
彼女を冷たく睨むと、雨城は、さらに苦情を続ける。
「私の友人にも演技がへぼなのがいるが……それと同じくらい、先ほどの君たちは酷かった」
雨城からの酷評に、祇園は苦笑するだけだった。
やがて、表情を真剣なものへ切り替えて、彼女は雨城に告げる。
「……しかし、演技ではあっても、そのセリフは事実に基づくものだ。私は、次期生徒会長を目指す。この言葉に、偽りはない」
断言すると、祇園は自信に満ちた微笑をつくった。
不敵な、微笑だ。
彼女の内心はともかく、表面には、会議における強大な敵への恐怖が微塵もあらわれていない。
その祇園の顔に、雨城は冷徹に観察するような視線を向けた。
彼女は慎重な声で尋ねる。
「そのことを、なぜ、私に告げる? 清川会長の陣営に身を置く、この私に」
「賢明な文化委員長には、わざわざ説明する必要もないと思うが」
「……まさか」
「その『まさか』だ。雨城文化委員長、あなたには、我が陣営に加わっていただきたい」
日中、清川陣営への協力を求めた側用部長の口は今、己の野心を実現するために動いた。
その変貌を、雨城は冷ややかに眺める。
「なるほど、虚言ではないようだ。ついに、君にも野心が芽ばえたわけか。……いや、それとも、はじめから君は野心家で、今までが仮の姿だったのかな」
「さて、どちらだろうね」
そう答えた祇園だが、はぐらかしたわけではない。
彼女自身、その野心がいつからのものなのか、不分明だったのだ。
確かなことは、二つ。
今の彼女は野心を抱いているということ。
そして、その野心を手放す気はないということだった。
「……どちらでもいいさ。いずれにしても、君の野心は痴人の夢だ。そのようなものに付きあう義理も、巻きこまれる理由もない」
「雨城」
「……一応、今までそれなりに親しくしていた義理だけはある。清川会長には、黙っておいてあげよう」
そう言い捨てると、雨城は立ちあがった。祇園たちへ背を向け、湯船から出ようとする。
「裏切り者たちと同じ湯に浸かりたくない」と言わんばかりだった。
その雨城の白い背中へ、望陀が声をぶつける。
「なるほど。烏の濡れ羽色の髪をもつ文化委員長は、入浴も烏の行水というわけですか。……では、カラスならカラスらしく、いつまでも、清川会長の手からこぼれた残飯を漁っていればよろしいでしょう」
「……望陀。煽りすぎ、煽りすぎ」
望陀の露骨な挑発に、祇園は小声でたしなめた。
しかし、祇園としても、このまま雨城を味方にすることを諦めたわけではない。
「雨城、あなたは、このまま清川普青に投票し続けるのか?」
「当然」
祇園は、にやり、と意地の悪い笑みを浮かべる。
「平然と言ってのけるな。離反者は、あなたもだろう? 先の投票で、あなたは自身に一票を入れていたじゃないか。あれを見て私は、いよいよ雨城も独立独歩の志を立てた、と思ったのだが」
その言葉を投げつけられると、雨城は静止した。
それは、第一回投票の後に彼女が祇園に言ったことの、精巧な複製だったのだ。
前回と違う点といえば、発言する者と、される者が、そのまま反転したことだけだ。
雨城は、自身の言葉によって、自身の行為を暴かれたのだった。
「なぜ、それが事実だと言い切れる? と……返すことはできないな。私以外に私へ投票する人間などいるわけがない。そんなことは、明らかなんだから」
そう言って自身の離反行為を認めると、雨城は振り返った。
表情には、自嘲の陰がにじむ。
「しかし、祇園。君は『独立独歩』と言うが、その点だけは事実と異なる。君と違って、私は、そのような気概を持ちあわせていないよ。……先の第三回投票における、あれは単に、清川会長への反発から生まれたものだ」
「反発……。清川会長に、不満を覚えたのか?」
「前に言ったね。『清川会長が文化委員会を冷遇しない限り、私の忠誠は揺るがない』と。しかし、清川会長は、私を切り捨てて、平山体育委員長を引き込もうとした。私に無断で、今までの文化委員会の待遇を改めようとしたわけだ」
「…………」
「よって、私も、清川会長たちの政権に見切りをつけることにした。と、まあ、そういうことだ」
雨城が語ったことは、事実に符合している。
しかし、「清川会長が平山を引き込む」という情報は、彼女に伝わっていないはずだ。
どうして雨城は、それを知ることができたのか――祇園は不審に思う。
だが結局、祇園は問いただすことを控えた。
今は、雨城を味方につけることに専念するべきだと考えたのだ。
「雨城文化委員長。清川会長たちを見限ったあなたに、改めてお願いする。私が生徒会長となることに、力を貸してほしい」
真剣な表情で、祇園は頼みこんだ。
口調は落ち着いたものだったが、その底流には、たしかに彼女の熱意が存在している。
燃えるように熱い意志。
雨城の白磁の肌に微かな汗がにじんだのは、大浴場の室温だけが理由ではないだろう。
湯煙のただよう大浴場は、静寂に包まれる。
黙考の後、雨城は答えた。
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Baden-Baden




