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第21話 十九時五分四十一秒の決意




 十九時。指示されたとおりの時刻に、俵田は祇園の部屋のドアをノックした。

 ドアを開けて出てきた祇園は、どこか疲れた様子だった。手には一冊の薄い本がある。


「あ、すみません。読書中に邪魔してしまいましたか」


 思わず俵田は謝ってしまったが、祇園は微笑みで応じる。


「大丈夫。ちょうど今、読み終わったところだから」


 招き入れられ、俵田はドアから室内へ進んだが、まだ、祇園が手にする本に視線を注いでいる。

 その本のタイトルが、彼の目をひいたようだ。


「……『側用部の時代』……ですか? そんな本があったなんて」


 自分たちの特異な部活動の名前が表題に入った本は、俵田の目には奇妙なものに映ったらしい。

 彼に、祇園は優しく説明する。


「うん。私たちと同じ学園の生徒が書いた本だ。松丘っていう校史小説部の副部長でね。彼と、その部活動が制作した……まあ、オリジナルの同人誌みたいなものかな。松丘の他の作品は、あまり評価が高くないんだけど……これは、それなりに面白かった」

「へえ……校史小説、ですか。どんな話です?」

「内容はタイトルのとおり、私たちの部活動の歴史について、だよ。俵田くんも、昔の側用部が今よりも賑やかだったってことは知っているよね」

「ええ。部員も、今の十倍はいたと」

「まあ、二人の十倍だから……それでも、せいぜい二十人程度なんだけど」


 少し苦笑をつくってから、祇園は続ける。


「その時代、側用部は、生徒会長と委員長たちの取り次ぎ役という立場を最大限に利用して、実質的に機枢高校を支配していたんだ」


 たとえば、委員長たちが学園の統治者である生徒会長に意見や要望を伝えようとしたとき、どうしても、まず側用部を介さなければならない。

 そのとき、委員長たちの意見に側用部が異論を抱けば、生徒会長への取り次ぎを拒否することもできたのだ。

 このようなことがあれば当然、委員長たちとしては、側用部に追従しなければならなくなる。


「……極まったものだと、側用部が生徒会長に下からの一切の意見と情報を遮断し、学校統治への熱意を失わせ、自分たちの意のままに操ったこともあったという」

「うわぁ……」

「まあ、虎の威を()る狐。世界史上に幾度となく見られた佞臣、奸臣の例が、この機枢高校の小さな社会でも再生産されたわけだねえ」

「……我が部のことながら、ひどいものですね」

「たしかに、権力を手中にした方法は、美麗なものではないけどね。それでも、機枢高校を支配した過去の側用部部長のなかには、その権力を正しく用いて、学園と生徒たちに利益をもたらした人間も何人か存在したらしい。――まあ、そうでない例の方が、遥かに多いんだけども……」


 呆れたようにまた苦笑した祇園は、やがて、それを収め、『側用部の時代』を机上に置いた。

 そして、先ほどよりも真剣味を増した口調で、改まって俵田に告げる。


「この本は興味深い内容だったし、側用部の先輩たちの歴史には、それなりに敬意も抱いた。けど、私としては、やっぱり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と思った。……それが、この本を読み終えての感想、かな」

「それは、つまり……」


 祇園の言葉に込められた意味を、俵田は正確に読み取ることができたようだ。

 表情を引き締めた彼は、緊張の声で尋ねる。


「……先ほど、望陀風紀委員長と話したこと。聞かせてもらってもいいですか」

「うん、いいよ。そうしたら、君の意見も聞きたいな……」


 ……祇園は、望陀との会話を俵田に伝えた。


 その話に、当然、俵田は驚いたようだった。

 しかし、彼の顔には、納得するような表情も浮かんでいる。


「……望陀先輩の言うこと、僕も、そのとおりだと思います。やっぱり、祇園先輩が、生徒会長になるべきです。他でもない、祇園先輩自身のために」


 それが、祇園の背中を押す、最後の決め手になった。

 俵田に微笑むと、祇園は、強く言い放つ。


「分かった。私は、生徒会長になる。この選出会議で勝利することによって。側用部の先輩たちのように学校統治の黒幕となるのではなく、堂々と全校生徒の上に立つ。――そして、私が、この学園を変えてみせる」


 ついに、側用部部長・祇園渚卯子は決意した。十月十三日、十九時五分四十一秒のことだった。


 それは、機枢高校の歴史が動いた瞬間だったのかもしれない。

 少なくとも、この生徒会長選出会議の情勢に重大な影響を及ぼすことは間違いないだろう。


 しかし、あれほど自身の野心を否定していた祇園が、生徒会長を目指すとは……。

 俵田は、まだ声を緊張させたまま確かめる。


「……生徒会長に、なるんですか」


 それを受けて、祇園は数秒だけ思考と意志を整理してから、まっすぐに俵田を見つめて告げる。


「生徒会長になる。それを望む親友がいるから。君も望んでくれたから。なにより私が、やってみたい……うん、()()()()()()()()があるんだ」

「やってみたいこと、ですか?」

「そう。以前から、少しずつ考えていたことなんだけど……」


 そして、祇園は忠実な部下に、その野心的な考えを打ち明ける。

 それは、機枢高校を大きく変革する計画だった。


「……以上が、私の『やってみたいこと』だよ」


 聞き終えると、俵田は、まるで壮大な夢を見て目覚めた後のように、表情を輝かせた。


「いい……すごく、いい考えだと思います」


 その「やってみたいこと」は、一般的には凡庸なものだろう。

 だが、一般的でないこの機枢高校では、前例のないほど清新なものだった。


「祇園先輩が、それを望む。そのことだけで、先輩が生徒会長を目指す、なによりも正当な理由になるでしょう」

「ふふ……君も、望陀みたいに人を煽るのが上手いな」


 祇園の笑みは、しかし、長くは続かなかった。

 急に彼女は表情を暗くして、弱音を吐く。


「……でも、じつはね、まだ不安なんだ。生徒会長を目指すってことは、清川会長を裏切らなくてはならない。あの清川会長と戦わなくてはならないんだ。それが、本当に……こわい」


 祇園の内で、清川会長への敬意や思慕の念、今まで世話になった恩に対する義理といったものは、完全にではないにしても整理されている。

 それでも、なお残るのは、純粋な恐怖だった。

 初対面で精神的に打ちのめされて以来一年半、清川会長の側に仕え続けて、自身との力量の差は嫌というほど思い知らされてきた。


 ――あの会長に背き、勝つことができるのだろうか。

 祇園は、それを怖れている。


「ほら、俵田くん……」


 つぶやくように言うと、祇園は両手を俵田の前に差しだした。

 その手は、小刻みに震えている。


「我ながら、情けないと思う。やっぱり、私は臆病者なのかもしれない。あのとき、清川会長に会って夢を諦めたときから、ちっとも進歩していないよ……」

「……祇園先輩!」


 俵田は、敬愛する人の名を強く呼んだ。

 そして、祇園の震える手を、自身の両手で包むように握る。


「先輩は、臆病者なんかじゃありません。今も立派な志を抱いて、その夢を取り戻したじゃないですか!」

「俵田くん……」

「祇園先輩は僕にとって、いつも、頼れる部長でした。先輩が、僕の他にも多くの人の上に立てるってことは、ずっと先輩の下で働いてきた僕が保証します。ですから……」


 俵田は言葉に詰まってしまった。

 それでも彼の真摯な視線は、祇園に、まっすぐ向かう。

 彼の手から、熱が伝わる。


 しばらく、二人はそのままでいた。

 沈黙の内に、祇園の心は落ち着き、そして、覚悟が決まる。

 祇園は、静かだが確かな口調で告げる。


「……ありがとう、俵田くん。勇気が出てきたよ」


 それは、心からの感謝の言葉だった。

 祇園は俵田を見つめる。しかし、すぐに視線を落とした。


「うん……それで、そろそろ、手を離してもらってもいいかな」

「え……? あっ」


 はっと我にかえると、俵田は、弾かれたように祇園の手を解放した。

 祇園は微かに頬を赤くした。自身の手を眺めながら、つぶやくように漏らす。


「俵田くん。君の手って、けっこう温かいんだね」

「す、すみませんでした……」

「いや、謝らなくていいよ。たしかに、いきなり手を握られたのは、びっくりしたけど……でもそれで、臆病な気持ちも吹き飛んだみたいだ」


 祇園の手の震えは、収まっていた。かわりに、少しだけ温まっている。

 その手を胸に当て、息を整えてから、祇園は落ち着いた声で俵田に告げる。


「……でもね、俵田くん。やっぱり、無断で女の子の手を握るっていうのは、感心できないな。()()()()()、私が要請したときだけにしてほしい」

「はい、分かりました……って、え?」

「不満かな?」

「いや、不満じゃないですけど……その、『今度から』っていうのは……」

「言葉どおりの意味だよ」


 それだけ言うと祇園は、はにかんだ表情で、混乱したままの俵田を見る。

 その頬は、また、少しだけ赤くなっていた。





 次回


 第22話

 幼なじみ

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