第1話 たった一年でも人は変わってしまうということさ
「先輩!」
壁と向かい合っていた祇園の背後から、声が届いた。
振り返るとそこには、黒を基調とした機枢高校の制服を着る少年が立っていた。少年は、男子高校生にしては背の低い方で、女子の祇園と顔の高さが違わない。
小柄な体格に似あう、まだ幼さの残る顔立ちの少年だった。
彼に、祇園は先ほどまでの不機嫌な態度を一転させて、穏やかな微笑みを向ける。
「おはよう、俵田くん」
祇園が、自身の後輩――俵田宮一にかける声は、どこまでも優しげなものだった。
「お、おはようございます……祇園先輩。その、遅れてしまって……」
少し息を切らしながら、俵田は祇園に答えた。
おそらく、待ち合わせの場所に祇園が先に着いているのを遠くから見た彼は、ここまで全力疾走してきたのだろう。手には膨らんだボストンバッグを重そうに持っており、走るのも一苦労だったはずだが、それでも、遅刻して祇園を待たせてしまったと、急いで駆けつけたようだ。
しかし……。
「大丈夫だよ、俵田くん。ほら、今、八時五十五分だから……」
手首に着けている細い革ベルトの腕時計を見ながら、祇園が言う。
「待ち合わせは九時だったでしょ? まだ五分もある。遅刻じゃないよ。私が早く来すぎちゃっただけだ」
「ああ、なら、よかったです」
「うん、それよりも……こっちこそ、こんな休日の朝から呼び出しちゃって、ごめんね」
この日、十月十三日は土曜日だった。
本来なら休みのはずの日に祇園たちが登校したのは、二人が所属している部活動のためだ。祇園は現在、その部活動の部長を務めている。
そして、その立場によって、彼女は部員の俵田を呼び出したのだった。
「悪いねえ。やっぱり、君も来たくなかったでしょ」
「いえ……そんなことは、全然」
どことなく歯切れの悪い、俵田の答えだった。彼の本心では、やはり、休日に学校へ呼び出されたことへの不満があるのだろう。
その不満を肯定するように、祇園は気安げな口調でこぼす。
「そう? 私はー、正直、家で寝ていたかったけどなあ」
「え、そうなんですか?」
「せっかくの休日だからね。……ああ、でも、買い物に行ってもいいな。この前の日曜みたいに。あのときは荷物を手伝わせてしまって、君には迷惑だったかもしれないけど」
「いえ! そんなことは、全然!」
先ほどと同じ否定の言葉を、先ほどよりも強く発した俵田に、祇園はまた優しく微笑む。
「……さ、今日の荷物は先日より重いし、そろそろ行こうか」
そう言うと、祇園は足元に置いていた、俵田が持っているものと同じデザインのボストンバッグを手にとった。二人で「おそろい」のものを使っているというわけではない。
これは学校指定のバッグだった。落ち着いた青色の布地に、機枢高校の校章である「弩と扉」が白く描かれている。
「持ちましょうか?」
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
後輩からの申し出をやんわりと断り、祇園は歩きだした。俵田も後に続き、二人は赤煉瓦の長い壁にそって進んでいく。
「生徒会長選出会議……でしたっけ? 今日、僕たちが学校に呼ばれたのは」
「うん。私たちが、充実した休日を諦めるはめになった原因だね」
歩きながら俵田が尋ねると、祇園は不満をにじませて答える。続く彼女の発言は、明らかな愚痴だった。
「私たちの部を巻きこまないで、生徒会と委員長たちだけでやればいいんだよ。あんな会議を長々と……付き合わされる、こっちの身を考えてほしいね、まったく」
「……生徒会長選出会議って、そんなに長くかかるんですか」
「前回……私が一年生だったときの会議は、土曜の午前に始まって、月曜の昼に決着してね。そのまま、すぐ午後の授業に直行したよ」
……少し嘘を混ぜてしまったが、それ以外については、祇園の言葉は事実どおりだった。
「じゃあ、会議の間は、学校に?」
「うん。学校に泊まったよ。会議の会場になる枢要館って建物には、生徒が宿泊するための施設があるからね」
それを聞くと、俵田は、手にしているボストンバッグに視線を落とした。
「この荷物、先輩に持ってくるよう言われたときは、正直、訳が分からなかったんですけど……これって、会議の間、学校に泊まるためのものだったんですね」
「ああ……説明不足で悪かったね。忘れ物は無いかな?」
「はい。二日分の着替えも、歯ブラシも、月曜の授業の準備も……一応、指示されたとおりのものは持ってきました」
「なら、よかった。いや、いちど会議が始まると、私たちは枢要館に閉じ込められちゃうからね。忘れ物を取りに帰るってことができないんだ」
「え……」
祇園の発言に、俵田は衝撃を受けたようだ。絶句してしまった彼を安心させようと、祇園は落ち着いた声で付け加える。
「大丈夫、大丈夫。そんなに心配しなくていいよ。この荷物も、まあ、一応の備えみたいなもので……たぶん今回は、去年と違って泊まりがけにならないと思うから」
「一日で終わるってことですか?」
「順調にいけば、今日の昼までに片がつくと思うよ。今回は、やる前から結果が分かってる、単純な会議だからね」
「……生徒会長選出会議が、ですか?」
信じられない、というような声を俵田は漏らした。彼が祇園の言葉を不審に思うのも、当然だろう。
他の一般的な学校と異なり、機枢高校は創立以来、生徒たちの高度な自治によって運営されてきた。その機枢高校において、生徒会本部の権限は強く、生徒会長は学園の頂点に君臨する帝王のような存在となっている。
その生徒会長を選び出す会議は、当然、機枢高校に通うすべての生徒にとって重要なものであるはずだった。
しかし、今の祇園の発言は、まるで会議を軽視しているようなのだ。
「やる前から結果が分かっているっていうのは……」
訝しむような口調で俵田が尋ねると、祇園は、つまらなそうに答えた。
「一強他弱。一人の最有力候補者に、対抗できる人間がいないからね。まあ、私としては、会議が早く終わって結構なことなんだけど」
そう語った祇園の声は、しかし、どこか陰のあるものだった。
「……話は変わるけど」
「はい」
「…………」
「……な、なんですか? 祇園先輩」
急に口をつぐんで、黙考に沈んでしまった先輩に、俵田は困惑するしかない。その姿を見ると、祇園は苦笑しつつ答えた。
「いや、ちょっと昔のことを考えちゃってね」
「昔……ですか」
「うん。去年の会議のこと。今日は俵田くんが来る前から、ふとした隙に思い出してしまう。ここは、あのときと少しも変わってないからね……」
壁の方を一瞥してから、祇園は続ける。
「あのとき、私は一年生で……壁の中でも外でも敬語ばかり使っていたよ。でも、今はこうして、一年の後輩に偉そうな口を利く先輩になってしまった」
「はあ」
「つまり……」
「つまり?」
「歳をとったなぁ……って」
「……いや、たった一年間でなに言ってるんですか」
俵田のツッコミは至極もっともだったが、祇園は淡々と説明する。
「たしかに、たったの一年間だ。人間の一生に比べれば、短いものだけどね。でも、高校生にとっての一年間は、学園生活の三分の一。それこそ人間の一生、平均寿命に当てはめると、およそ二十五年――青年が初老になるぐらいじゃないか」
「うーん。どうなんでしょう、それって……」
「……うん。いや、これは暴論じみていると、自分でも言いながら分かっているんだけどね」
少し恥ずかしげに頬をかいてから、祇園は結論づける。
「ま、私が言いたいのは結局、たった一年でも人は変わってしまうということさ」
「おおげさですよ……言葉づかいぐらいで」
「いや、口の利き方だけじゃないよ」
「他には?」
「『祇園ちゃん、顔が老けましたねー』と、この前、友だちに言われてしまった……」
「…………」
俵田は反応に困ったらしく、声をなくしている。
ほんの少しだけ落ち込んでいる祇園は、小さく溜め息をついた。
祇園の端整な顔には、たしかに十七歳の女子高校生らしくない、どこか老成した趣があった。髪型は一年前と同じ白銀色のポニーテールだが、今の落ち着いた雰囲気の中では、微妙にアンバランスな印象を与える。
「顔が老けたって……事実だとしても、ふつう、女の子に向かって言うセリフじゃないよなあ」
「……で、でもっ、僕は祇園先輩のこと、大人っぽくて素敵だと思いますよ!」
沈黙を破り、思い切った口調で、俵田が告げた。緊張しているのか、気恥ずかしいのか、その頬は少し赤い。
祇園は軽く目を見開き、きょとんとした顔になった。後輩の口調に驚いたからだが、それでもすぐに、彼女は微笑みで応える。
「ふふっ、ありがと、俵田くん。お世辞でも嬉しいよ」
笑顔をつくっても、そこには微かに、諦観と困憊の陰がたゆたう。
それは、一年前の彼女なら、決してしない表情だった。
暗赤色の煉瓦の長い壁にそって、しばらく歩き続けた祇園と俵田は、やがて、その足を止めた。
二人が立ち止まったそこは、壁の一部が切り取られ、黒い鋼鉄の門扉となっている場所だった。
鋼鉄の門は、煉瓦の壁以上に、来る者を冷たく拒絶するような雰囲気を放っている。
その門の前には、一人の女子生徒が立っていた。三つ編みのおさげ髪に眼鏡という古式ゆかしいスタイルの女子で、黒い制服には「選出監理委員会」と記された腕章を着けている。
彼女は祇園と俵田を見つけると、生真面目そうな口調で呼び止めた。
「現在、会議期間中につき、一般生徒の立ち入りは禁止されています。会議に出席される方には、生徒手帳の掲示を願います」
機枢高校の生徒手帳には、その生徒の所属組織――生徒会、委員会、部活動、クラスといったもの――が記されており、校内での身分証として用いられる。
前回も会議に出席した祇園は、門の前で掲示を求められることをあらかじめ知っていたので、制服の胸ポケットから素早く生徒手帳を取り出した。俵田も数秒ほど遅れながら、それに続く。
二人が差しだした生徒手帳を、選出監理委員の女子生徒は慎重な視線で確かめた。
「……御側御用部――側用部の方々ですね」
御側御用部。
それが、祇園と俵田の所属する部活動で、二人の肩書きだった。この御側御用部は、しばしば「側用部」と短縮され、その略称のまま公式文書に記されることも多い。
側用部とは、生徒会長直属の組織で、会長と各委員長との間の連絡役を務める。会長の命令を委員長たちに伝え、委員長からの報告を会長に伝えることが、この部の主な仕事だった。
そうした仕事から、側用部のことを「使い走り」「会長の下働き」などと揶揄する者もいる。
実際、祇園の内にも、その自覚はあった。
――自分たちは生徒会長の手足として働く、しょせんは学園政治劇の脇役に過ぎない存在だ、と。
ただ、この側用部は、常に最高権力者の側に身を置くため、ときとして職権以上の力を持つことがあった。かつての側用部の権勢は、この部が生徒会長選出会議への参加を認められた唯一の部活動だということからもうかがえる。
しかし、過去に権勢を誇った側用部も、時代の流れとともに衰退してしまった。祇園が部長を務める現在では、部員は俵田ただ一人だけにまで減ってしまっている。
その側用部の二人だということを確認すると、選出監理委員の女子生徒は、生徒手帳から目を離した。
「では次に、携帯電話・スマートフォン等の通信機器をお持ちでしたら、この場で電源をお切りください」
これにも祇園は素早く応じ、電源を切って暗黒になった携帯画面を選出監理委員へ見せた。俵田も、それに倣う。
「会議の期間中、外部との連絡は一切禁止されます。万一、携帯電話等を使用された場合は、会議の終了まで我々が預からせていただくことになりますので、ご了承ください」
丁重だが有無を言わせない選出監理委員の言葉に、俵田は鼻白んだ。
「……そこまでするかよ」
俵田は小声でぼやいたが、祇園が素直にうなずいたのを見て、納得することにしたようだ。こうして彼らに注意事項を了承させたことで、選出監理委員による入場審査は終わった。
「ご協力ありがとうございました。では……少々お待ちください」
そう言うと、選出監理委員は制服の胸ポケットから、小さな黒いリモコンを取り出した。そのリモコンを鋼鉄の門に向けて、ボタンを押す。
すると、物々しい音をあげながら、ゆっくりと門が開いていった。
「お待たせしました。どうぞ、お通りください」
「うん……あ、そうだ。ちょっと聞きたいんだけど」
鋼鉄の門をくぐる前、祇園は一つ思い出して、選出監理委員に尋ねる。
「望陀委員長は、もう来ているかな?」
「望陀……風紀委員長ですか。ええ、かなり前にこの門を通って、枢要館に入られましたが」
「そう……分かった。ありがとう」
短く礼を言うと、祇園は俵田を連れて、門をくぐった。二人が少し進むと、すぐに門は音をたてて閉まっていき、選出監理委員の姿も見えなくなってしまった。
鋼鉄の門が完全に閉まり、音も止んで静かになってから、二人は会話を再開する。
「……なかなか厳しいですね。携帯禁止なんて」
「まあ、あれでも昔よりは甘くなったらしいよ。何年か前までは、門をくぐった時点で全員が携帯を没収されたらしいから」
「今は、使用禁止といっても、自分の手元にあるだけまし、ってことですか。でも、どうして、そんなことを……」
「あの選挙監理委員の子が言っていたように、外部と連絡させないためだよ。生徒会長の選出に際して、部外者から影響や圧力を受けないようにね。会議が壁の中でおこなわれるのも、そのためさ」
「壁……そういえば、僕たち今、あの壁の中に入ったんですよね」
そのことに気づいた俵田は、ゆっくりと周囲を見まわす。
煉瓦の高い壁で囲まれた、機枢高校敷地内の一区画。
外の世界に通じる道は、先ほどの鋼鉄の門しか存在しない。そこは不気味な静寂に包まれていた。
「……なにも聞こえませんね」
休日とはいっても、部活動などで、機枢高校に来ている生徒は多いはずだ。彼らのにぎやかな声が、壁の外では聞こえたのだが……。
「――生徒たちの喧騒は聞こえない。聞く必要もない。ここでおこなわれる政治にとって、『一般生徒の声』など、雑音以上のものではないのだから……」
祇園が淡々とした声で言う。なにかのセリフを棒読みしているような、まったく心のこもっていない口調だった。
「誰の言葉ですか、それ」
「……昔、私が尊敬していた人の言ったことだよ」
複雑な心理のにじむ声で、祇園は答えた。いつのまにか、その表情は不機嫌なものに変わっている。
俵田は、先輩の急変に息をのんだ。やがて、静かに尋ねる。
「……さっき、先輩は言ってましたよね。『生徒会長の選出に際して、部外者から影響や圧力を受けないように』って。その『部外者』って、つまり……」
「校内大多数の一般生徒のことだね。彼らを排除して、限られたメンバーだけで生徒会長を選び出す密室会議――それが、生徒会長選出会議なんだ」
その会議を、祇園は決して快く思っていない。機枢高校の生徒を支配する者とされる者に分断する煉瓦の壁も、その壁の中で行われる密室会議も、祇園は嫌いなのだった。
そうした祇園の心情は、彼女の次の言葉にも、にじみ出る。
「そして、あれが密室会議の開催地。我らが機枢高校の閉ざされた政治の府――枢要館だよ」
皮肉めいた声と、細い人差し指で、祇園は前方に見える建物を示した。
枢要館は、暗い灰色の外壁に覆われた、ほぼ立方体の建築だ。窓ガラスの配置と数から、二階建てで部屋数が多いことがうかがえる。
「あれが、枢要館ですか。話には聞いてましたけど……意外と、地味ですね」
「まあ、壁の中にあって、一般生徒の目につくこともないからね。外見は凝ったものにする必要がなかったんだと思うよ」
「でも……あの中に、機枢高校のリーダーになった生徒たちが集まって、今まで学園を動かす重要な会議を何度もやってきたんですよね。その会議に、これから僕たちも……」
そこまで言うと、俵田は口をつぐみ、表情を硬いものにした。
後輩の顔をちらりと見ると、祇園は、穏やかな口調で言葉をかける。
――その言葉の内容は、彼女の立場にふさわしくない不穏なものだったが。
「そう緊張しなくても大丈夫だよ。あの陰気な箱の中ですることは、総じて下らないのだから」
「…………」
この先輩からのアドバイスは、かえって、俵田を困惑させてしまったらしい。それは「生徒会長の使い走り」である側用部としては、不穏当な発言だったのだ。
緊張と困惑によって、俵田の足は止まってしまった。そのような彼を尻目に、祇園は数歩先に進む。
振り返ったとき、彼女の顔は、いつもの後輩に向ける優しげなものに戻っていた。
「さ、行くよ、俵田くん。さっさと終わらせて、さっさと帰ろう。下らない会議に潰されちゃった貴重な休日も、まあ、半分くらいは返ってくるかもしれない」
それを聞くと、俵田もようやく、表情を少し柔らかいものにする。「順調に進行すれば昼までに会議が終わる」という先ほどの祇園の言葉を思い出したようだ。
その期待を胸に、二人はまた歩きだし、枢要館の中へと入っていった。
……しかし、期待はいずれ裏切られる。
再び外に出られる日がいつになるのか、祇園たちはまだ知る由もない。
次回
第2話
開会