第14話 ある記録者の記録
十五時五十六分。「投票結果公表」の仕事をするため、選出監理委員長・亀山煉護は、枢要館の外に出た。
彼は、空を見上げて息を吐く。
十月の、この時間の空。
既に太陽は西に傾き、あたりの景色を赤く染め、夕暮れが迫っている。
一日が、終わろうとしていた。
「今日一日では、決着しなかったか……」
珍しいことではない。
機枢高校の歴史の中で、選出会議が日をまたいだ例は、そうでない場合よりも多いのだ。
そもそも枢要館の、出席者たちの個室や食堂、大浴場といった設備は、そうした連日の会議のために存在する。
「……さて、急がなくては」
亀山は、目の前の仕事に敬意と注意を払いつつも、手早く片付けようとする。
彼ら選出監理委員会の仕事は、煙を焚いて投票結果を外部に公表することだけではないのだ。出席者たちが翌日の会議に臨むことができるよう、枢要館での宿泊や食事の準備もおこなわなければならない。
亀山はマッチを擦り、焼却炉に火を入れた。
やがて、煙突からは「次期会長決定せず」を意味する三度目の黒い煙が、赤い夕空へ昇っていく……。
……その煙を、機枢高校の外、一キロメートルほど離れた自宅の窓から眺める、一人の男子生徒がいた。
彼の名前は、松丘万鑑。
機枢高校の文化系部活動の一つ、校史小説部の副部長を務めている。
「校史小説」とは、機枢高校史上の事件や人物に取材した文芸作品だ。
他の一般的な学校と異なり、生徒たちの手で統治されてきたこの機枢高校の歴史には、権力をめぐる争いや、それにまつわる悲劇、喜劇など、無数の物語があった。
たとえば、昨年にあった、生徒会長・清川総璃愛と内務委員会の戦い。
学園を支配してきた内務委員会に立ち向かう美しい生徒会長の物語は、多くの生徒たちの心を惹きつけている。
さすがに、まだ一年も経っていない現在では、清川会長をはじめとする当事者たちが卒業していないこともあり、表だって創作活動をする者もいなかった。
しかし、裏では、今から清川ら三年生の卒業を見こして、創作者たちは動き始めている。
『機枢高校の伝記・清川総璃愛』『闘争する生徒会長』『内務委員会のいちばん長い日』『どくさい! 清川ちゃん』など、ノンフィクションから脚色まじりの娯楽小説まで、いくつもの作品の企画が進んでいた。
このような文芸作品のことをまとめて、「校史小説」という。
それは、機枢高校独自の文化だった。
その文化の担い手である松丘には、一つの日課があった。
日ごとの機枢高校の政局に関する記録を書きとめる、というものだ。
おそらく彼には、この記録を残すことで、後の時代の校史小説部員たちの創作活動に役立たせたい、という思いがあったのだろう。
さて、松丘の日記には、当然のように、この選出会議がおこなわれた十月十三日の記述も存在する。
それは、彼が、前述の亀山選出監理委員長による「投票結果公表」を目にしたときのものだった。
「……十六時。機枢高校・枢要館より、本日三度目の煙が昇った。煙の色は、黒。またしても、次期生徒会長は決まらなかったのだ。あの黒煙を、いったいどれほどの機枢高校生が見ているのだろう。我々の手の届かない場所、見ることのできない密室から昇る、あの煙を」
……このように記す松丘だが、彼もはじめから、会議から排除される一般生徒だったわけではない。
この年の三月まで、彼の肩書きは「生徒会書記」というものだったのだ。
清川会長の側近として、学園の中枢で働いていた松丘だった。しかし彼は、新年度が始まると、突如として生徒会本部を去ってしまった。
この事情については、異なる二つの噂がある。
「新たに入学する清川普青に生徒会書記の役職を与えるため、清川会長が彼を追放した」
「清川会長の強権的な振る舞いに嫌気が差し、彼自ら職を辞した」
どちらの噂が事実なのか、あるいは別の真実が存在したのか、それは明らかになっていない。
この件に関してだけ、松丘は固く沈黙を貫き、彼の日記帳にも一切の記述を残さなかったのだ。
生徒会を去って後、松丘は、校史小説部副部長としての仕事に専念した。
彼の文才は、決して高い評価を受けるほどのものではなく、在部中に完成させた作品も少ない。同じ部の部長が華々しく筆を振るったのに比べると、どこまでも影の薄いものだった。
むしろ、部の運営や外との交渉、他の部員が執筆した作品の編集作業といった場で、松丘は能力を発揮している。
そこを評価すれば、彼は天才肌の文芸創作家であった部長を良く支える、有能な副部長だといえるだろう。
……なお、余談ではあるが、松丘の著した数少ない作品の中に、『側用部の時代』という校史小説がある。
生徒会長の陰で働く側用部を題材にした校史小説というのは、マイナーなジャンルだった。これ以外にほとんどなく、その点では貴重な作品だといえるだろう。
しかし、松丘がなぜ側用部をテーマに選んだのか、理由は不明だった。
あるいは、同じ日陰者として、なにか思うところがあったのかもしれない――と考えるのは、多分に邪推というものだろう。
十六時十五分。祇園たち側用部の二人は、第二会議室で清川会長と対面していた。
第三回投票の後、会議が解散になると、彼女たちは会長に呼び出されたのだ。
「……平山体育委員長が、約束を反故にしたと思うか?」
抑制された口調で、清川会長は尋ねた。これに、祇園は明確に答える。
「いえ、それはないと思います」
「なぜ?」
「平山委員長は私に向かって、必ず清川普青書記に投票する、と明言しました。その約束を破るのは、彼女の為人にふさわしくありません。それに、投票後の様子からも、彼女が悪意をもって裏切りを働いたようには見えませんでした」
「しかし、すべてが演技だった、ということも……。いや、それはないか」
一度、口から出た考えを否定して、清川会長は苦笑する。
「あの平山は、そこまで名女優じゃないな」
「ですね。むしろ、へぼ役者ですよ、彼女は」
祇園も同じく苦笑で応えた。
先ほどの投票結果によって、会議の情勢はいっそう混迷しているのだが、それでも笑い合えるのは、彼女たちの剛毅さというものだろう。
……もちろん、まだ票数において、清川普青が圧倒的な優位にあるからでもあったが。
やがて、清川会長は、静かに苦笑を収める。
「先ほど平山は、一度だけ投票する、と言ったそうだが。次回の協力は、やはり難しいか」
「もう一度、頼みにいきましょうか?」
「……そうだな。無駄かもしれないが、一応、試してみるか。ただ……この仕事は、そちらの俵田君にやってもらおう」
会長の言葉に、祇園は驚いたが、それは彼女の背後に控えていた俵田も同様だろう。
一瞬の空虚の後、俵田は動揺した声で清川会長に尋ねる。
「ぼ、僕ですか?」
「ああ。祇園とは、この後も少し話したいからね。君が、代わりに行ってほしい」
「でも……」
俵田がためらうのは、平山体育委員長を説得するという難しい仕事を一人でおこなえるのか、不安に思ったからだろう。
困惑する彼に振り向いて、祇園が優しく告げる。
「俵田くん。会長が、ああ言われるんだ。受けるべきだよ。大丈夫、君ならできるさ」
「先輩……分かりました」
こうして、側用部員・俵田宮一は平山体育委員長に再度の協力を依頼するため、一人、退出した。
あとには、祇園と清川会長、二人だけが残された。
次回
第15話
それでも、あなたは機枢高校にとって偉大な会長ですよ




