第10話 保健委員長との対峙
「しかし……困ったことになったな。失敗続きだ」
平山体育委員長の部屋を退出して、次に望陀風紀委員長のところへ向かいながら、祇園は、ぽつりとつぶやいた。
「失敗、ですか?」
祇園の独り言を耳にした俵田は、不思議そうな表情で尋ねる。
「たしかに平山体育委員長には断られましたけど、その前に、雨城文化委員長から次の投票の約束を取りつけたじゃないですか。失敗ばかりってこともないんじゃ……」
「いや、雨城の件は、あまり意味がないんだよ」
祇園は、まだ状況を理解できていない後輩へ、丁寧に説明した。
「清川会長が私に命じたことは、つまり、次の投票を前に清川普青への支持を増やす、ということなんだ。そのために、まず私は、離反したとみられた雨城文化委員長のもとへ行き、彼女に次の投票を確約させた。……だけど、じつは彼女は離反なんてしてなくて、はじめから清川普青に投票していたんだ。そして、先ほどは、平山体育委員長に協力を断られてしまった」
一度、言葉を切ると、祇園は自嘲と皮肉を混ぜあわせたような薄笑いをつくった。
「さて、そこでだ、俵田くん。これまでの私の行動は、清川普青の支持者を一人でも増やしたといえるかな?」
「……いえませんね、残念ながら」
そう応じながらも、祇園の忠実な部下は、部長を励まそうと試みた。
「けど、まだ、望陀風紀委員長が残っています。離反した……離反したはずの、望陀委員長を呼び戻すことができれば、清川会長も満足するでしょう」
「……するとつまり、望陀が『裏切り者』であってくれた方が、私たちにとっては都合がいい、ということになるね。そうでなければ、雨城との一件のように、交渉する意味がなくなってしまうんだから」
祇園は薄笑いを収め、硬い表情で言った。その口調は、表面上こそ落ち着いたものだが、底流には冷気が沈んでいる。
祇園にとって、望陀は中学時代からの友人なのだ。その友人を「裏切り者」として疑い、問い質し、「改心」させるために、これから祇園は交渉に向かわなければならない。
「正直に言うとね、俵田くん。私が、望陀のところに行くのを後回しにしたのは、気が進まなかったからなんだよ」
「先輩……」
「望陀と話して、あいつから何て言葉が飛び出るか。『自分が裏切り者だ』って言うんじゃないか──それを聞くのが、今も怖いんだ」
「……大丈夫ですよ、きっと。先輩の友人を信じましょうよ」
「…………」
俵田の励ましにも祇園は答えないで、硬い表情のまま、口をつぐむのだった。
……それから、二人は無言のまま歩を進め、やがて、風紀委員長・望陀布美の部屋の前に到着した。
そのドアを、祇園がノックしようとした時だ。それよりも早く、ドアは中から開けられる。
しかし、出てきた人物は、その部屋の主ではなかった。
「し、下郡……」
祇園たちより先に望陀の部屋を訪れていたその人物は、保健委員長・下郡栞だった。
苦味を込めてその名を読んだ祇園を見ると、下郡は、わざとらしく驚いてみせるような表情をつくって言う。
「あら? これは、御側御用部の御二方。望陀委員長に御用かしら」
側用部を正式の名前で呼ぶ、その声には嘲弄の響きがあった。
ダーク・ブラウンの髪を白いカチューシャで留めて、黒縁眼鏡をかけた下郡栞の容姿は、それだけなら、知的で落ち着いた性格の美少女として見られるものだろう。
しかし、その黒縁眼鏡の奥の瞳は、闇の中で燃え盛る火炎のように爛々と輝いている。他者から忌避し、警戒される、危険な輝きだった。
無論、下郡が祇園たちから警戒されるのは、その瞳の輝きだけが原因ではない。今までこの保健委員長は、清川会長から政権を奪うために、いくつもの陰謀をめぐらせてきたのだ。
テニスコートの密約、校内掲示板の落書、購買部疑獄、北裏門の変、六月二十三日のクーデター……多くの事件に、下郡は関わってきたとみられている。
中でも最も重大な事件が、六月二十三日のクーデターだった。清川会長が沖縄への修学旅行で学園を離れた隙を突いて、下郡にそそのかされた旧内務委員会の残党が蜂起し、生徒会室を占拠しようという事態になったのだ。
そのときは、清川会長が沖縄から電話で叛乱鎮圧を指示し――これは後に「千五百キロを駆けた指令」と呼称される――それを受けた望陀風紀委員長の活躍によって、クーデターは未遂に終わった。
しかし、そのとき風紀委員会によって検挙された生徒たちの中に、下郡の姿はなかった。
陰謀を企てても、決して自分が関与したという証拠を残さず、風紀委員会の追及から逃れ続ける。そこが、下郡の狡猾なところだった。
下郡は、事件のあった翌日には、何食わぬ顔で枢要館での会議に出席する。そして、
「いやー、昨日は大変なことがあったらしいわねー」
と、平然とした口調で言ってのけるのだった……。
このように、清川会長から政権を奪うため多くの陰謀に「関わってきたとみられる」下郡だった。
彼女は「陰謀家」「腹黒保健委員長」などと、清川会長陣営から苦々しく呼ばれている。
だが、もっとも、下郡には、自身が生徒会長になろうという意志はなかったらしい。彼女は総務委員長の小櫃と手を組むと、彼を反清川陣営の旗頭として、自身は常にその下の参謀役でい続けたのだ。
こうした下郡の行動を、黒幕として機枢高校を裏面から支配しようという暗い野望の表れだと見る者もいた。実際、そのような野望を実現した人物は、機枢高校の歴史にいくつか例がある。
しかし、それとは別のところに、下郡が小櫃を担ぐ理由があるのではないか――と、祇園は思っている。
機枢高校の中でも知る人は少ないことだが――実際、祇園も側用部としての「委員長たちへの監視の目」という役割がなければ、知らないままでいただろう――下郡と小櫃は、友人どうしでもあったのだ。それは、二人が同じ小学校に通っていたときからのもので、「幼なじみ」といってもよい関係だった。
その幼なじみが、総務委員会内部の意思に押されて生徒会長職を望んでいる。彼に協力し、その望みを叶えようという考えは、下郡にとってごく自然な発想だったかもしれない……。
とにかく、下郡が小櫃総務委員長にとって公私にわたる協力者、盟友だということは事実だった。
その下郡が、今、望陀風紀委員長の部屋から出てきたのだ。
このことが何を意味するか。祇園の頭に不吉な考えが浮かんだ。
「……望陀に、総務委員長陣営への寝返りを持ちかけたのか?」
「さて、どうかしら。気になるんだったら、本人に直接聞いてみたら? お前は私たちを裏切るのか、ってね」
下郡の嘲弄まじりの返答は、挑発そのものだった。そこには、友人の疑惑に苦悩する祇園の繊細な心を突き刺そうという悪意が、露骨に表れていたのだ。
祇園の華奢な肩が、微かに震える。そのときだった。
「下郡先輩!」
怒気の充満した声を放ったのは、祇園の忠実な部下である俵田だ。彼はそのまま前に出ようとする。祇園を庇い守ろうとしたのだろう。
しかし、この俵田の行動は、すぐに制止されてしまった――彼が庇おうとした祇園の手によって。
片手で俵田を抑えた祇園は、既に怒りを収めていた。少なくとも、表情には、その気配を微塵も残していない。
彼女は不敵な微笑を浮かべて、下郡に応戦した。
「聞かなくても分かる。望陀が小櫃総務委員長の陣営に寝返るなんてことは、絶対に、ない」
「……ずいぶんと自信あるようだけど、どうしてそう言い切れるのよ?」
「あなたと小櫃委員長とには及ばないが、望陀と私も長い付き合いでね。あいつの考えることは、よく分かる。あいつは、ああ見えても自尊心の強い性格をしていて、自分の上に立つ人間には拘るんだよ。つまり……」
「つまり?」
「風紀委員長・望陀布美は、決して、小櫃委員長なんかの下風に立つことはない、ということだ」
痛烈な反撃だった。
下郡は祇園の友人に対する苦悩をえぐるような挑発をしたが、これに対して祇園は、下郡の盟友を否定することで報いたのだ。それが、下郡自身への侮辱よりも遥かに彼女にとって堪えがたいものだということを、祇園は知っている。だからこそ、祇園は反撃の手段に用いたのだ。
祇園の思惑通り、その反撃の効果は、てき面に現れた。下郡の黒縁眼鏡の奥の瞳は怒りに燃える。その怒気をなんとか抑え込んだ口調で、彼女は言う。
「……次からの投票が楽しみね」
捨て台詞を吐いて、下郡は立ち去った。その後ろ姿を見送りながら、祇園と俵田は、同時に溜め息をつく。
「陰謀家め……」
「あまり、話して気分の良くなる人じゃありませんね、あの先輩は」
俵田の率直な感想を耳にすると、祇園は、少しだけ機嫌を回復させた。
「ふふっ、俵田くんも、なかなか酷評するねえ」
「え? いや、その……先ほどの、祇園先輩ほどでは……」
「私?」
俵田が何について言っているのか、はじめ、祇園は理解できなかった。数秒ほど、顎に指をあてて考えた後、ようやく彼女は得心の表情を浮かべる。
「ああ、『望陀が小櫃なんかの下につくことはない』って言ったことか。たしかに、この場にいない小櫃には酷な言葉だったかもしれないけど……事実として、そうだからねえ」
「祇園先輩は、小櫃総務委員長をそれほど評価していないんですね」
「生徒会長にふさわしくない、とは思ってるよ。自分の委員会すら抑えられない人間が、他の委員長や機枢高校全体を率いられる道理がないだろう?」
「それも……そうですね」
「うん。けど、そんなことより……」
祇園は、やや強い口調で話題を切り替えた。その表情には、微かな焦りがにじむ。
「下郡なんかと話していたら、貴重な時間を浪費してしまった。ほら、もう、会議の再開時刻まで十分を切ってる」
そう言って、祇園が俵田に見せた腕時計は、十三時二十分を示していた。その時計を、祇園は腕から外して、俵田に手渡す。
「俵田くん、頼みがある。この時計で、これから時間を見ていてほしいんだ」
「時間、ですか」
「そう。清川会長に任務の結果を報告する時間を考えると、遅くても二十五分には望陀との話を終わらせなくちゃならない。だから、君は時間を見張っていて、その時が来たら、なんとしても私を制止してほしい。いいかな?」
祇園の依頼を、当然のように、俵田は拒まなかった。しかし、承諾しながらも、彼は祇園に尋ねる。
「僕の制止が必要なくらい、祇園先輩は望陀先輩と話し込むかもしれない、ってことですか」
「うん……そうならないように、私も気をつけるけどね……ちょっと、どうなっちゃうか分からないな」
力なく苦笑しながら言うと、すぐに祇園は、その表情を引き締めた。
「……さ、行こうか」
祇園は、ドアに体を向ける。視線は鋭く、ドアの先に居るはずの人物を睨むようだ。
その視線と同質の口調で、祇園はドアの向こうに声を飛ばした。
「望陀、私だ。入るぞ」
その短い言葉がまとう雰囲気は、宣戦布告のようだった。
次回
第11話
風紀委員長の表情、そして、第二回投票




