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焼けた肌に喝采

作者: 鳳


「あーもう嫌だ。焼ける、煮える、溶けるー」

夏奈(かな)、うるさい。っていうか、ウザい」

 夏奈の放り投げた独白に、うんざりしたような声が返ってきた。

 聞き慣れた声は、蝉たちのけたたましい合唱の中でもはっきりと聞こえてくる。

 けれどうだるような暑さが、夏奈の思考にダメージを与えていた。ただ一つ、暑いということ以外は深く考えられない。

 アスファルトからじりじりと立ち昇ってくる熱に顔をしかめながら、夏奈は言い返した。

「ちょっと、ウザいって酷くない? 暑いんだからしょうがないじゃん」

「熱っ苦しいって言ってるの。あんたのその恰好が」

「だって焼けやすいんだから、しょうがないでしょ」

「だからってこの時期に薄手の長袖カーディガンはないわ。長めのスカートとかダサすぎでしょ」

「ほっとけ」

 夏奈は恨みがましい目で隣を歩く親友を睨んだ。

 汗で首筋に張り付いた髪の毛が気持ち悪い。鞄から取り出したハンドタオルで何度も拭くが、湧き出す汗は止まることを知らないようだ。

 熱い空気を遮断したくて口元に当てたタオルは、吐き出す息を柔らかな布地に押し返させて、籠もった熱を生み出すだけだった。

「あたしは(とう)()みたいに焼けたくないんです。あんたみたいに健康的に歩いてたら、あっという間にヒリヒリのクロクロになっちゃう」

 日傘を差し、耐えられる間は長袖を着て、毎日欠かさず日焼け止めを塗っても夏奈の肌は白からはほど遠い。

 夏奈がそれを気にしているのを知っているのくせに、冬子はお構いなしに肩を竦める。

「多少焼けたっていいじゃない。青白い方がわたしは嫌」

「そんなこと言って、十年後にシミだらけになって後悔しても遅いんだから」

「十年後には化粧をするから問題なし」

 十年後と言ったらふたりは二十七歳。確かに化粧もマスタークラスになっている年頃だろう。

 だがやはり、日焼けしないに越したことはない。

「でもスッピン美人になりたいじゃん」

「美肌にはなれるかもしれないけど、美人はやっぱり化粧しないとなんとも」

「それって何気に酷くない!?」

 素顔じゃ美人になれないと言いたいか。

 文句の一つも言いたくなるが、悲しいことに夏奈も毎日鏡を見て、自分の顔の形は把握していた。

「とにかく、あたしは絶対に焼かないから! っていうか、そもそもこの河川敷が信じられない。日陰ないし、もっと町ん中歩こうよ」

「それこそやだよ。遠回りじゃん。時間の無駄」

「えー。……冬子の意見ばっかりずるーい」

「なに?」

「なんでもありませーん」

 小さく呟いた後半は聞き取られなかったらしい。

 夏奈はわざとらしく言ってそっぽを向いた。

 川の水面に太陽が反射して、眩しさを感じる。水の流れる音は涼やかだが、アスファルトや水面の照り返しは、夏奈にとっては天敵である。

 日傘の角度を調整した夏奈は、そこで河原に動く影を見つけて立ち止まった。

「夏奈?」

「ねえ、冬子。あれ、人だよね」

「うん? ああ、人がいるね。なにしてるんだろう」

 河原にしゃがみ込んで女性がなにかをしていた。

 近づいてみると、綺麗に化粧をした顔やお洒落な服に泥をつけて地面を探っている。その表情からは、事情は分からないが必死さは伝わってきた。

 しばらく冬子とふたり、河川敷から観察していたが、女性はこちらに気づく気配はなかった。

 自転車が背後を通り過ぎる。同じ高校の男子生徒が数人じゃれ合いながら通っていったが、その声にもやはり彼女は顔を上げなかった。

「ねえ、あんまりじろじろ見てたら悪いよ」

「でも気になるじゃん」

「そうだけど……」

「あの!」

「ちょっと、冬子っ」

 見かねたように、冬子が声をかけながら土手を下りていく。

 夏奈は意味もなく周りを見回してから、その後を追いかけた。

 昔から人見知りしない冬子は、気安く女性に話しかけた。

「なにか探し物ですか?」

「え、ええ。そうなのよ。昨日ここに、……落としてしまって」

 突然声をかけられて、困惑したように女性は頷いた。

「よかったら探すの手伝いますよ」

「ちょっと、冬子ってば!」

 急になにを言い出すのかと夏奈は親友の腕を引いた。

 女性の方も驚いたように目を瞬かせ、少し悩む素振りを見せた。

 けれど彼女は苦笑して首を振った。

「ありがとう。でも大丈夫だから。見つからなかったら、それはそれで、しょうがないもの」

 知らない人に無闇に関わるものではない。

 断ってくれた女性に安堵した夏奈だが、彼女の強張った笑みは家に帰ったあとも忘れられなかった。





「あーもう嫌だ。焼ける、焦げる、干からびるー」

「夏奈、うるさい。っていうか、ほんと毎日変わり映えしないね。あんたのその三拍子、飽きてきたわー」

「いや、毎日同じではないよ。少し変わってる、はず」

 青い空にもくもくとした入道雲が浮かんでいる。四方から押し寄せてくる熱気は万人に容赦なく、炎天下を歩く人間を馬鹿にするかのように、湿気を含んだ生温い風が追い越していく。

 そんな中をくだらないことを言い合いながら、ふたりはいつものように道路に揺らめく逃げ水を追いかけて歩いていた。

 その途中で足を止めるのも、すでに恒例となってきている。

「ねえ、夏奈。今日もいるよ」

「まだ見つからないんだね。探し物」

 昨日も一昨日も、その前も、前の前の日も彼女は河原にいた。

 探し物は見つからないらしい。

 最初に彼女を見た日は髪も顔も服装もばっちり決めていたのだが、いまではスッピンに髪は一本に縛っただけ、服はジャージだった。

「やっぱり手伝ってあげようよ」

「えー」

 日差しを気にして夏奈は渋る。

 今日は天気がいい。せめて曇りだったら。

「だってなんか可哀想じゃん」

「……うん」

 これには頷かざるをえない。

 女性の必死さに夏奈も絆されつつあるのも事実だ。

「あ、でも待って。手伝うなら着替えてこなきゃ。焼けないように帽子と日焼け止めも……」

「すみませーん」

「こら!」

 夏奈を無視して、冬子はさっさと女性の元へ下りていった。

 手伝うというふたりに、女性は礼を言いつつも首を振った。

 しつこく言いつのると、困ったように苦笑して事情を聞かせてくれる。

「探し物って、由美恵さんのすっごく大事な物なんでしょう?」

 女性は()()()と名乗った。

 彼女は曖昧に首を傾げて息を吐く。

「どうかしら。大事じゃないと思ったんだけれど」

「でも毎日必死に探してるじゃないですか」

 冬子が言うと、由美恵は驚いたように目を丸くした。

「え? どうして知ってるの?」

「あたしたち、ここが通学路なんです」

 夏奈は上の河川敷を指して言う。

 由美恵は恥じるように視線を彷徨わせ、ぽつりぽつりと話し始めた。

「母から成人のお祝いに貰った指輪なの。貰ってから何年も経ってたから、ずっと仕舞っていたんだけど、ふと思い出して付けたのよ。そんな日に母とちょっと、……大喧嘩しちゃって。自分で投げちゃったの、指輪」

「え? 捨てたんですか」

「そうなの。あの時は、こんなもの二度と付けるかって思っちゃって」

「人って、頭に血が上るとなにするか分かりませんよね」

 あけすけな感想を述べる冬子の脇を、夏奈は慌てて小突く。

 由美恵は怒る様子もなく「そうね」と疲れたように苦笑した。

 白い頬に赤みが差している。それがチークではないことに気づいて、夏奈は持っていた日傘をくるりと回した。自分が作る傘の影は小さい。

 少しだけ持つ手に力を込めて傘を高く上げると、丸い影が由美恵の額を陰らせた。

 細められていた由美恵の瞳が、力を抜いたように開かれる。

「いま思うと、なんであんなことしちゃったのかしら」

「いまは後悔してるんですよね。だって、こんなに探してる」

「タイミングが悪かったのよ。帰る気にならなくて友達の家に泊まったんだけど、電話がきて。母が倒れて病院に運ばれたって」

「うわっ、最悪」

「ちょっと、冬子」

「いいのよ。本当に最悪だから。本当に、最悪な娘。お見舞いにもいけない」

「……指輪を捨てちゃったからですか?」

「もう顔も見たくないって思って捨てちゃったの。本当に馬鹿よね。いくら後から後悔しても遅いのに」

「そう思うなら、お見舞いいけばいいのに。後で後悔しても遅いんですよ」

「そうよね」

 頷く由美恵だが、やはり動く気配はない。

 「自業自得だから」といって手伝いを拒んだ由美恵は、それから二日経っても五日経っても河原で見つからない指輪を探し続けていた。


「今日もいるね」

「見つかるまで探すのかな」

「でも指輪だよ。この雑草だらけの広い河原で指輪!」

「見つかるわけないよねぇー」

「熱射病で倒れなければいいけど」

「同じ病院に運ばれれば、お母さんにも会えるんじゃない」

「それは駄目!」

 ある日、夏奈と冬子は由美恵にペットボトルを差し入れて話しかけた。

「由美さん、休んでます? 顔色悪いですよ」

「お母さんの容態、良くないんですか?」

「ちょっと冬子、少しは遠慮しなよ」

 ずばり核心をつく冬子に夏奈は慌てたが、由美恵は笑って答えた。

「いいのよ、夏奈ちゃん。そうね、あんまり芳しくないみたい」

「まだお見舞い行ってないんですか」

「願掛けしてるの。指輪が見つかれば、母も良くなるって」

 見つからない。見つからない。何度も夕陽が沈む。


 由美恵は日ごとにやつれていくようで、彼女の母を知らない夏奈たちは由美恵の体調の方が気になった。

「ねえ、夏奈。今日の夜、台風だってさ」

「うん」

「指輪、大丈夫だと思う?」

「……うん」

 小雨が降り始めた河川敷を、今日は普通の傘を差して歩く。

 由美恵はやはり河原にいて、必死の形相で指輪を探していた。その鬼気迫る様子に、その日ふたりは彼女に声をかけられなかった。





 窓硝子がガタガタとやかましい音を立て、なかなか眠れない。

 水を飲みにリビングに行くと、夏奈の母親はまだテレビを見ていた。

「あら、夏奈。どうしたの」

「ちょっと喉が渇いて。……ねえお母さん。あたしが二十歳になったら指輪をくれる?」

「え? 急にどうしたのよ」

「あたし大事にするよ。絶対に捨てたりしないから」

「なあに? お強請り? まだ夏奈には早いわよ」

 可笑しそうに言う母親に「そうだね」と笑って、夏奈は「おやすみなさい」と告げた。

「明日が休みだからって、あんまり夜更かししちゃ駄目よ」

 追いかけてくる小言に、「もう寝るってば」と呟く。

 いつか聞けなくなるのだろうか、この声を。その日はなんの前触れもなく、突然にやって来るのかもしれない。

 それはどれほどに恐ろしいことだろ。

 由美恵はそれを体験しているのだ。

 もしかしたら、母親から貰った指輪を捨てた罰が当たったのだと、そう思っているのかもしれない。母親が倒れたのは自分の所為だと思っていたらさぞや辛いだろう。

 なにがなんでも見つけ出さなければ会わせる顔がないのかもしれない。

 自分にもそんな日が来るのか。

 嵐の音を聞きながら、夏奈はその瞬間が少しでも遅くあればいいと願った。

 熟睡とは言えない眠りから覚めたとき、空は思わず目を覆いたくなるほどの快晴だった。

「台風一過だぁー」

 寝起きの頭で呟く。晴れ渡った青が目に痛いほどだった。

 きっとこれほど強い日差しなら、草に埋もれた指輪も反射するだろう。

 そう思ったら、夏奈は家を飛び出していた。

 少しもしないうちに、横道から冬子が走ってくる。

 冬子は夏奈に気づいて目を丸くした。

「あれ、夏奈。おはよう」

「おはよう、冬子。そんなに走ってどこいくの?」

「わたしに並走してるあんたはどこに行くのよ」

 並んで走りながら顔を見合わせたふたりは、思わず吹き出した。

 走り着いたのは、もちろんあの河川敷だ。

 土手を下りて、ふたりで地面に這いつくばる。

「あら、夏奈ちゃん、冬子ちゃん?」

「――ッうっわ。由美さんいたんですか?」

 死角になっていた場所から、ひょこりと由美恵が顔を出した。

「ってびしょびしょの泥だらけ。まさか台風の間も探してたんですか」

「さすがに一番ひどいときは家に帰ったわ。それよりもふたりは、こんな朝早くからどうしたの?」

 不思議そうにこちらを見る由美恵の目の下にはひどい隈があった。

 ここ最近、ほとんど眠れていないのだろう。

「探すの手伝いますよ」

「でも」

「一人よりも三人です。意地張ってないで見つけ出しましょうよ」

「……でも、どうしてそこまで気にしてくれるの? あなたたちには関係ないのに」

「だって、気になっちゃったんですもん」

「後で後悔しても遅いし」

 もし由美恵が指輪を見つけられなかったら、彼女の母親の容態が急変したら、関係のない夏奈たちだってきっと手伝わなかったことを後悔する。

 由美恵が顔をくしゃりと歪めた。

「……ありがとう。ごめんね、ありがとう」

「大丈夫です。きっと指輪を見つけましょう」

「はい。喋ってる暇があったら手を動かす」

「冬子! 雰囲気ぶち壊しっ」

 パンパンと手を叩く冬子に夏奈がツッコむと、由美恵がくすくすと笑った。

 その笑みに、何とはなしにほっとする。

 三人で場所を区切り、しらみつぶしに銀色の光る物体を探した。


「あー、爪に土が入ったー」

「大丈夫?」

「大丈夫です。ぜんぜん問題なし」


「あ、この辺ぬかるんでるみたい。気をつけて……」

「うぎゃあっ――!?」

「……もう手遅れみたいですね。夏奈は案外とろくさい」

「うっさいな! あ、カエル発見」

「ちょっ、こっちに投げないでよ」


「あっ、……と違った」

「紛らわしいなぁ、もう。期待しちゃうじゃん」


「そっちの方は探したの。こっちをお願い」

「了解でーす」


「ああ、もうっ。やかましいな、蝉!」

「そうだよ。やかましいよ、夏奈!」

「ひどっ!!」

「まあまあ、ふたりとも落ち着いて」


「あ、なんかいま光った! ……って、瓶の蓋かぁ」

「いまどきあるんだ、瓶の飲み物」


「これは?」

「違うわ」

「こっちは?」

「それは男物の指輪だね」

「意外にいるのかな、指輪投げる人」

「……そういう衝動に駆られるのよ」

「あれは?」

「よく見て! 野球のボール」


 草を除けて探るせいで、指はすっかり青臭くなった。

 汗は顔といわず首、腕、背中、膝の裏を流れる。

 ほとんど休憩を入れず、途中コンビニで買ってきたお昼だけを挟んで、たった一つの指輪を探し続けた。

 陽が傾き始め、横を流れる川が明度を下げ始めた頃、夏奈は焦りを覚えて握った草を引っこ抜いてしまった。むしった雑草をその辺に放り投げる。

 今日が駄目なら明日がある。もう何日も由美恵が探していた物が、一日で見つかるわけもない。

 だがオレンジ色の太陽は、無闇に未熟者の焦りをあおった。

 明日でいいなど悠長なことを言っていては、後悔したくないと動いた意味もない。

 雨の中、寝る間を惜しんで探す由美恵のためにも一日でも、一分一秒でも早く見つけ出さなければ。

「出てきなさいよー、指輪。こんなに探してるんだから。返事くらいしろー」

 無茶なことを言って、夏奈は太陽を仰いだ。夕方になっても気温は下がる気配を見せない。

 剥き出しの腕に野草が擦れてかすかな痒みを覚える。頬に当たる熱量が懐かしい。もっと幼い頃は太陽の下で一日中走り回っていたものだ。

 そこで夏奈ははっとした。

「ヤバいっ、日焼け止め塗ってない!」

 悲鳴に近い声を上げる夏奈に返事をするカラスが一羽。

 街路樹に留まっているそいつと目が合った。

「な、なにさ。もとが真っ黒なあんたにこの苦労が分かるの!?」

「夏奈。カラスに喧嘩売ってんな。阿呆に見えるよ」

 同意するようにカァーとカラスが鳴く。

「お、話の分かる奴」

「カラスにまで馬鹿にされたぁ――!!」

 ぎゃあと騒ぐ夏奈に、冬子がケラケラと笑う。

 ふたりとも夏の日差しにだいぶやられてきていた。

 カラスの真っ黒い瞳がきらりと光った。前傾姿勢で翼を広げる。

 こちらに向かってきそうなカラスの気配に怯む。だが夏奈は、そこで違う可能性に思い至った。

 カラスの目は微妙に夏奈たちを捉えていない。見ているのは地面だ。

 カラスの特徴。真っ黒な羽と瞳。頭が良く、ゴミを漁り、不吉の象徴でもあって。そして、――光り物が大好物だ。

「ちょっと、待ったぁああ」

 叫びながら、カラスの向かう先へ飛び込んだ。

 邪魔をされてガァガァと不満げに鳴くカラスは、旋回をして街路樹に戻る。

 だが夏奈には、カラスに申し訳なく思ってやるようなカラス愛はない。

「夏奈?」

「夏奈ちゃん?」

 冬子と由美恵の声を聞きながら、カラスが狙い澄ませていた場所を探る。

 かすかに視界の端で光るものがあった。

 草に埋もれ泥に汚れ、けれど太陽の光を反射して煌めく小さな銀色。

「あったぁ――――――!!」

 夏奈は手にした指輪を天高く挙げ、満面の笑みで振り返った。

 冬子と由美恵が駆けよってくる。

 夏奈は由美恵の手の平にそっと指輪を乗せた。

「これで合ってますか?」

「……ええ、そう。これよ。この指輪」

「すごい、夏奈! 偉い!」

「やったね」

 冬子と手を打ち合わせる。

 由美恵は指輪を乗せているのとは逆の手で丸い輪郭に触れていた。

 その表情がくしゃりと歪む。潤んだ瞳から隈の浮いた目の下に涙が転がった。

「あ、ありがとう。ありがとう、本当に。……ふたりとも、ありがとう」

 何度もお礼を言う彼女の表情は、大人びたところの一つもない、まるで同い年の女の子のようだった。

「お母さん、よくなるといいですね」

「ええ、きっと良くなるわ。ありがとう」

 満面の笑みで由美恵は顔を上げた。涙を拭って、夏奈と冬子を見つめる。

「そうだ。ふたりに何かお礼をしなきゃ」

「そんなのいいですから、早くお母さんのところに行ってあげて下さい」

「でも」

「いいから!」

 夏奈たちに急き立てられて、由美恵は何度もお礼を言いながら駆けだしていった。

 彼女の細い指に填まった指輪が夕陽に反射して、いつまでも夏奈の網膜に焼き付く。

「由美さん、あのまま病院に行くのかな」

「え、そうじゃないの」

「きっと追い出されるよ。あんな泥だらけの恰好じゃ」

「あ、そうかも。ちょっと、なんで先に言ってあげなかったのさ」

「わたしもいまになって思ったんだってば」

 言い合いながら顔を見合わせて、ふたりは同時にぷっと吹き出した。

「冬子、ひっどい顔。ほっぺたに泥が付いてるよ」

「そういう夏奈は、鼻の頭が赤くなってるよ。間違いなく、明日剥けるわね」

「ああっ! 日焼け!!」

 夏奈は頭を抱えて愕然とした。

 そういえば、顔だけでなく腕も脚も、首の後ろもヒリヒリする気がする。朝から何の対策もなく炎天下のもとに居たのだ、間違いなく手遅れだろう。

 だが、指輪を見つけられた由美恵の表情を思い出して、たまには焼けるのもいいかと思った。

 焼けた肌以上に、心が熱い。達成感に、気持ちは今日の空模様のようだ。

「でも、早く帰って今日はパックしよう」

 一度焼けてしまったものは仕方がない。せめてアフターケアだけでもしっかりやらなくては。

 だがそんな夏奈にお構いなく、冬子は体を伸ばすように組んだ両手を上げて、清々しく笑った。

「うーん、わたしアイス食べたいなぁ。どっか寄って帰ろうよ」

 冬子の言葉で渇いた喉がアイスの冷たさを思い出す。

 夏奈は無意識にごくりと唾を呑み込んだ。

 ああ、まずい。このままじゃ帰れない。


「冬子の馬鹿ぁ――――――――!!」


 焼けた肌は痛いけれど、アイスは飛びっきり美味しかった。 






 焼けた肌に称賛を――。


 了





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