六十二話
ジーヴが、笑う。さっきまでの、口元だけの冷たい笑みじゃない。慈しむような、優しい微笑み。冷たい笑みで私の首を絞めていたとは思えないほど、優しい眼差しをしている。
その豹変ぶりに、鳥肌が立つ。ああ、まただ。また、あの恐ろしい目をしている。表面だけ優しさで繕っても、わかる。わかってしまう。恐怖で、体がガタガタと震える。
……! そうだ、京、京は? 護衛として、私の後ろにいたのに。視線をめぐらせるけど、見当たらない。京を目で探していると、いきなりジーヴに顎を捕まれ、強引に目を合わせられる。暗い瞳。暗い瞳が、訴える。俺から離れることは、絶対に許さないーーと。
その瞳に、ぞくりとする。だけど、気がつくと震えていた手を、ジーヴの頬にそっと当てていた。壊れものでも触れるかのように、静かに。一瞬、ビクリと少し身を引いたけど、手に頬をすり寄せるように目を閉じた。
手で、ゆっくりとジーヴの頬を撫でる。いつのまにか、体の震えは止まっていた。もう片方の手も頬に当て、そっと唇を重ねた。ジーヴが、閉じていた目を開く。私は、笑みを浮かべた。ちゃんと笑えているかな? 変な笑いかたになっていないだろうか。
「ジーヴ、大丈夫。私、離れないよ。そんなに怯えないで」
「……何で? 俺、こよりにひどいことしたんだ。嫌っても、いいんだぞ……?」
そんなことを言うジーヴは、迷子になった幼い子供みたいに不安そうな顔をしていた。今にも泣きそうな、でも泣きそうなのを我慢しているような、そんな顔。
馬鹿だなぁ、ジーヴは。私が冗談でも嫌いなんて口に出したら、死んでしまいそうな顔をしているくせに、強がっちゃって。
「大丈夫だから。ね?」
「こより……っ」
ジーヴの背中に腕を回して、安心させるように軽く背中を叩く。抱き締めながら京の姿を探す。
すると、ジーヴの護衛の人達が何やら騒いでいるのが見えた。どこへ行ったとか、早く捕まえろとか騒いでいる。京はうまく逃げられたのかな? そんなことを考えていると、足元に一匹の猫がすり寄ってくる。なぜか、白い布を纏っていた。
「みゃあ」
「わぁ、可愛い。ジーヴ、猫! 猫だよ」
「む、どこから入り込んだんだ? うちの船はペット禁止なのに」
「みゃう」
猫が一鳴きしたかと思うと、その姿は消え、目の前には少し乱れた白いシャツを手早く直す京の姿があった。床に、紺色のネクタイが落ちている。ハーフパンツは、ちゃんとはいている。あれ、そういえば京が最初に名乗ったのって確かーーネコ。
つまり、さっきの猫が、京ってこと? 自由自在に変身できるんだー。へぇ、便利だな。何より可愛くて癒される。そういえば、さっきの猫の毛の色は京の髪の毛と同じ青みがかった黒色だ。アーモンド型の瞳も京と同じ群青色だった。
しかし、やっぱり変身するときは真っ裸なのね。猫が人間の服着てたらおかしいし、邪魔だもの。当たり前か。
「こより様、無事で何よりです」
「京もね」
「お前は……。母上の使い魔か。母上も相変わらずの心配性だ」
「ええ、まったく」
ジーヴの言葉に、苦笑いでうなずく京。え、何この二人。もしかしてお知り合いだったの?
「ボクは、ユズキ様の使い魔ですから、幼い頃のジーヴ様の秘密も沢山握っておりますよ。聞きたければ、いつでも命じてくだされば何でも答えましょう」
ニッコリ、と天使のような笑みを浮かべてジーヴにとっては悪魔みたいなことを言い出す京。
え、幼い頃のジーヴなんて、秘密どーのこーの以前に、普通に気になる! キラキラした目で期待を込めて京を見れば、慌てたジーヴが間に入ってくる。
「なんてこと言い出すんだ、キヨ! こよりも、キラキラした目で見るんじゃない!」
「えー、何でよう。いいじゃん! ジーヴの小さい頃の写真とかないの? あったら見たい!」
「ありますよ。おねしょして泣き崩れるジーヴ様、積み木を立ててどや顔のジーヴ様、ユズキ様に初めて抱っこされて照れるジーヴ様。どれがいいですか?」
「何であるんだよ……」
「じゃあ、泣き崩れるジーヴ!」
「よりにもよってそれ!?」
スッと懐から写真を取り出したところを、ジーヴが狙って奪おうとするが、写真は素早く高々と掲げられてしまう。なんと言っても、京は身長が百七十を軽々と越えている。対するジーヴは、百五十に満たない私より頭半分ぐらい高いかなってところぐらい。
恐らく、百六十もあるまい。圧倒的身長差に敗北して、ガックリとうなだれるジーヴは一旦無視して、わくわくしながら写真を見る。そこには、おねしょをしたらしき敷きパットを前に、世の中のすべてに絶望したかのような表情を浮かべて膝から崩れている小さいジーヴの姿が写っていた。
何これ、滅茶苦茶可愛い! 当たり前だけど、ジーヴが小さい! しかも、この世の中すべてに絶望しきったような表情がたまらない。
「京……これ、私の秘蔵コレクションに……」
「ダメに決まってーーあっ、こら!」
「大事な写真ですから、ボクが預かっておきますね」
いじけていたジーヴに写真を奪われそうになったので、サッと避けて京に渡す。京は私から受け取った写真を、懐へ。




