四十話
ジーヴの、今にも泣き出しそうな笑顔と、ありがとうという言葉。伸ばしかけた手は頭を撫でることなく、ジーヴにあんな顔をさせてしまった。
あのあと、ジーヴは黙って部屋から出ていった。いつもみたいに、カギをかけろとか、うるさい小言は一切言わずに。ジーヴが出ていったあと、カギをかけてベッドに入っても、中々寝つけなかった。
頭は、まるで熱に浮かされたようにぼんやりとしていて、でも眠れなくて、仕方なく起きて一晩中窓から見える月を眺めていたから、寝不足である。鏡を見ると、少しやつれている気がした。
月が暗雲にすっぽりと隠れてしまったので、カーテンを閉めて部屋を出た。せっかくのバイキングなのに、食欲がわかなくて結局、朝食はスクランブルエッグを少しと、こんがりと香ばしく焼けたパンを一つだけ。
部屋から出る時には、ちゃんと護衛をつけていった。そのことに、ビーちゃんが目を丸くさせてビックリしていた。私が大人しいこともあって、珍しく割りと本気で心配された。
「大丈夫ですか? 体調がすぐれないのでは……」
「私は大丈夫だよ。それより、ジーヴは?」
「それが……」
十日間で終わらせるつもりで持ってきた仕事を、寝る間も惜しんでこなしているそうだ。体調、崩さないといいんですが、とビーちゃんが心配そうに目を伏せる。ジーヴも、壁を一枚隔てて一晩中起きていた。
なんで……私が、ワガママを言って無理に連れてきてもらったから? だから、早く仕事を終わらせないといけなくなった?
申し訳なくて、今更のように後悔が押し寄せてくる。勝手だけど、ジーヴが部屋から出てきたら謝ろうと思い、部屋の前をうろうろ。すると、従者に追い払われてしまった。大人しく自室に戻る。
自室の中でも、ベッドに座っては立ち上がって、ソファに座っては立ち上がって、部屋の中をぐるぐると円を描くように歩き回る。不安は、胸の中でどんどん大きくなっていく。どうにも落ち着かなくて、旅行バッグから荷物を引っ張り出す。着替え用に入れた数着の服を見る。
ジーヴが、肌の白い私によく似合うと言って特注してくれた、白色のビジューつきワンピースや、淡いピンク色のチュニック。どれも、飾りはついているもの、年頃の娘が着るにはやや地味目。
私が、無駄にひらひらふりふりしたものを動きづらいといって、嫌うからだ。しかし、幼く見える私の顔に合わせて、可愛らしい作りになっている。ジーヴが、私をただの着せ替え人形として見ているわけではない、というのがわかる。
食事に気を使うから、と抗議したところ、唯一特注で作ってくれた、黒色のノースリーブワンピース。コーディネートを考えなくていいからと、ワンピースを多目にしてくれた。そんな心遣いが嬉しかった。口には出せなかったけれど。
私はカラス。人殺しのカラス。深く関われば関わるほど、弱い私は相手を殺せなくなるってわかってた。だから、今までずっと人付き合いを避け、逃げてきた。臆病者の私には、これだけ関わってしまったジーヴはきっともう、殺せない。
高く高く飛んだカラス、誰よりも自分が高いところにいると信じて疑わなかった。とうの昔に、地に落ちていたというのに。人を殺せなくなったら、私はただの子供。
ねぇ、昨日……あなたが魔王だということを認めた上で、あなたに手を伸ばせばよかったの? そうすれば、泣きそうなくせに、無理に笑ったりしなかった? あんな顔を、させたかったわけじゃない。
こんな感情、知りたくない。。知りたくもなかった。あなたのことを考えると、胸が締め付けられるように苦しくなるのは、どうしてなの。あなたに、無理をしてほしくないと思ってしまうのは、なぜ。こんなにも、あなたが頭を占める。気がつけば、震える唇が言葉を紡いでいた。
「兄様も、きっと……こんな気持ちだった。好きになってしまった相手をこの手で殺めるなんて、できっこない……!」
言葉にしてしまえば、簡単なこと。服を胸に抱き、ポロポロと大粒の涙が瞳からこぼれ落ち、床を濡らす。
血にまみれたこれまでの人生が、今更綺麗になるだなんて、幻想は抱いていない。これからは、今まで私が殺めてきた人達に、償っていかなければいけないだろう。
ジーヴを殺せなかった私に、帰る場所などあるのだろうか? 元の世界に戻ったとして、これ以上父様に迷惑はかけたくない。かけられない。見知らぬ異世界の土地に、一人で放り出された気分になった。心細く、不安で、また涙が溢れ出た。




