三十六話
さて、と。そろそろ部屋に戻るとするか。うーん、と背伸びをして、踵を返して部屋へ向かう途中、騒がしい船の中で、低いのによく通る、聞き覚えのない声に呼び止められる。
「こより様」
振り返って見ると、そこには、王子様みたいな青年が立っていた。この人かな? 後をつけていたのは。
緑がかった長めの黒髪に、新緑色の瞳。髪の毛は、後ろで一つに括ってある。眩しいほどの、白いスーツ。胸元に、金の刺繍が施してある。白馬に乗って颯爽と現れても、違和感がない。しかし、こんな白馬の王子様がなぜ私の名前を?
警戒して、一歩後ずさる。すると、素早く白馬の(略)は、膝をつき私の手をとった。
しまった、貴族の令嬢達の視線が集まっている。今の私は、Tシャツにショートパンツ。とてもじゃないけど、こんな王子様に手をとられて、振り払えるような格好じゃない。コイツ、わかってて私の手を握ったな。
「何か」
「話がしたいので、バーでもいかがです? お酒は飲ませられませんが、雰囲気だけでも」
バー……バーか。大人の世界にちょっとだけ入るという、いけないことをこっそりするみたいな感覚に、悪くない、と思った。ジーヴがいたら、絶対ダメ! って言うだろうし。あの小姑が……。
私は、こくりとうなずいた。王子様が、嬉しそうに笑う。お酒を飲んでみたいと頼んだら、困ったように笑い、舐めるだけなら……と、言ってくれた。
しっかりと、人目があることを確認してから、バーに入る。中は薄暗く、静かな雰囲気が漂っていた。カウンター席は思いのほか高く、よじ登るように座った。隣の王子様は、おかしそうにクスクスと笑う。不思議に思い、見上げる。
「可愛いなぁと思ってね」
とろけるような笑みを浮かべて囁く甘い言葉。だが、それはウソだと、すぐにわかる。普通の令嬢なら、喜んで頬を赤く染めることだろう。しかし、私はそんなウソの甘い言葉なんかより、早くお酒が飲んでみたかった。
急かすように王子様の袖を引っ張れば、一瞬その顔に陰が落ちた。すぐに、笑いながら果汁で割ったお酒を頼んでくれたので、恐る恐るペロリと舐める。果汁多めで割ってあるので、お酒の味はあまりしない。
一舐めして、あとは店内を見渡す。あまりキョロキョロするのも、おのぼりさん丸出しで恥ずかしいので、チラ見する程度に留める。楽しそうにマスターとお喋りしながらお酒を飲む女の人は、色っぽかった。
「お、お酒、もう飲まないのかい?」
上ずった王子様の言葉に、キッパリと答える。
「舐めるだけと決めていたので。それで、本題は?」
王子様は、しばし黙ったのち、お酒をあおる。
「何よう、せっかく、酔いつぶれたところを殺してあげようと思ってたのにぃ! んもう、アタシの甘い言葉も効かないしぃ、なんなのよう、あなた」
…………たっぷり一分間はかたまった。目の前の白馬の王子様は、オカマでした。おとーさま、おにーさま、世の中はまだまだ私の知らないことで溢れかえっています。これからも精進し、それらを知っていきたいと思います……が、こんなイケメンがオカマだとは、知りたくありませんでした。
もしかしたら、殿方というものは、いつオカマになってもおかしくないのでしょうか。だとしたら、おにーさまのことを、しっかりと見てやってください。私は、おにーさまの口から女言葉が飛び出す日は、迎えたくありません。
いや、あのね、別に差別とか、そういうのじゃないんだよ。ただよ、男として完璧過ぎるこの見た目の持ち主がオカマだと知った時の衝撃ですよ、衝撃。
それはもう、天地がひっくり返ったんじゃないかってぐらいの衝撃ですよ。アッパーを決められたぐらいの衝撃なわけですよ、わかる? 私のこの微妙な気持ち。そんな気持ちは露知らず、横に座るオカマさんは続ける。
「魔王様の妃がこんな子供だなんてぇ、アタシは絶対に認めないわっ!」
お酒のグラスを持ち上げ、高らかに宣言する。ああ、うん、そう……。どうぞご勝手にって感じだけど、命狙われるんなら、話はまた変わってくるよね。勝手に認めないわっ! って吠えるんならいいけどね。
というか、見た目が白馬の王子様なだけに、ダメージが大きい。何だろう、また新しい宇宙人と遭遇しちゃった気分。すごく複雑だ。




