十話
クロエお姉さんは、浮いたまま私の頬にそっと手をおき、柔らかく微笑む。
『ああーー、ようやくだ。生まれた時からずっと見守ってきた主に、ようやく触れた』
嬉しそうに目を細めるクロエお姉さん。私が成長し、自分の声も手も届かない場所へ行ってしまったことがよほど寂しかったのか、私の存在を確かめるように、ペタペタと髪の毛や手などを触る。
それも、とても優しい手つきで触るものだから、何たか照れくさい。こういう時、どんな反応をすればいいのか、わからない。戸惑っていると、手が離れる。
手が離れたことに、少しの安堵と名残惜しさと、複雑な感情が入り交じる。決して、表には出ることのない感情。人の温もりが恋しいなど、私などが言えたものじゃない。その温もりをこの手で殺してきた私が、言えるはずもない。血に染まった私の手は、冷たさしか知らない。クロエお姉さんが、真っ直ぐ私を見つめ言う。
『主、いずれわかる。どうして、自分が殺し屋として育てられたのかーー。その事実で、主が救われるとは、限らない、けど……』
言葉尻が小さくなるクロエお姉さん。私が殺し屋として育てられたのは、そういう家に生まれたからでは、ないの? わからない。でも、今はーー。細く温かいクロエお姉さんの手をそっと握る。
「私は、大丈夫だよ。家業だから、仕方ないって割り切ってるし」
『でも……』
さっきまでの、自信満々な態度をとっていたとは思えない弱々しい態度。ゴニョゴニョ言っているが、気にせず強く手を握る。
「今は、魔王を倒すのが先! でしょ。ね、師匠、京」
「そう、ね。あんの極悪非道な野郎をぶちのめしてもらわないとーー」
「俺がどうかしたか?」
師匠の言葉を遮った少年の声に、その場にいた全員が声のした方向を向くと、そこには黒い霧のようなものに乗って、空から私達を見下ろしている魔王の姿が。即座に師匠が攻撃しようと構えるが、魔王はニヤリ、と妖しげに口角をつり上げ不敵に笑う。
「大事な弟子が死ぬぞ?」
魔王の隣に、なぜか道場の子供の一人が立っている。焦点の合っていない濁った目。今のところ無傷だが、魔王が何かしたのだろう、明らかに様子がおかしい。くっと魔王が笑う。
「コイツ一人でよかったのか、全員操る必要はなかったな」
魔王の言葉に、師匠の顔からさぁっと血の気が引く。道場にいた子供全員を人質にしようとしていたのか。どうする? ターゲットが自ら現れてくれるなんて絶好のチャレンジだ。でも、前に京が魔王はとても魔力が強いみたいなことを言っていた。魔法を使われたら今頃ミンチだと、言われた覚えがある。
「おい、勇者とやら。俺の城へ一人で来い。断るなよ? 街が燃えるからな」
しばらく、余裕の表情を浮かべる魔王を見つめる。
ーー本気、だろうか。今ここで私が断れば、魔王に操られている子供逹はどうなる。考え込む私を見て、魔王が少し苛立ったように師匠に向かって言う。
「また、子供が死ぬ姿が見たいか? 家が燃える様子を見たいか? 俺なら、いつでも地獄を見せてやれる」
「……っ。こより、お願い! あたしはもう、見たくない。魔物に破壊され、人が殺される街を、もう見たくない!」
泣きながら懇願する師匠。……どういう、こと。だって、街は平和そのものじゃない。魔物なんていない、破壊される家も、殺される人も、私は見ていない。茫然としている私に、師匠は泣きながら更に続ける。
「道場にいる子供は皆、魔物に親を殺され身寄りのない子なんだよ。お願い……お願い……」
……仕事に情を持ち込むのは、落ちぶれた証。兄様を見て、ずっとそう思っていた。だから、ずっと自分は兄様のようにはなるまいと淡々と仕事をこなしてきた。だから、だろうか。泣きじゃくる師匠を見ても、何の感情もわかない。頭を占めるのは、どうやったらターゲットである魔王を殺せるか。それだけ。
「ーーカラス、お前殺す。でも、まだ殺せるだけの力、ない。街、平和。お前の言葉、信じられない」
「そうだなぁ、確かに、勇者サマは見てないもんな……」
うんうん、と納得したように魔王はうなずくと、黒い霧のようなものから降りる。それなりの高さがあったのに、なんてことない顔して華麗に着地する。そのまま、私のほうへ真っ直ぐ向かってくる。京が前に出ようとしたので、手で制す。
黒い霧のようなものは、魔王が降りた瞬間霧散した。当然、魔王と一緒に乗っていた子供の体は重力に逆らわず落ちる。地面に激突する寸前で、師匠が受け止めるのが見えた。声をかけているようたが、反応しないみたいだ。それより、今は目の前の魔王だよ。




