一話
「これから、ちょっと異世界に行ってきてほしい」
父様直々の依頼を受けた私は、異世界にきている。そしてなぜか、広々としたベッドの上で魔王にくみしかれている。ーーどうしてこうなった。
*
遠くでセミの鳴き声が聞こえる。季節は夏真っ盛り。かすかに感じるそよ風は、生温くて気持ちが悪い。被っている帽子を脱いで、うちわ代わりにしようか少し迷ったけど、私の瞳の色は目立つ。止めた。
腰まで伸びた黒髪が鬱陶しく、ゴムで一つに纏める。横を通りすぎる人は半袖やタンクトップ、各々涼しげな服装をしている。今の時間帯は、下校途中の学生が多い。
私は、肩から下げているバッグから資料を取りだし、ペラペラとめくりながら、楽しそうに友人とお喋りする一人の学生を視界の端で見つけた。そろそろと気配を殺して近づき、何事もなかったように横を通りすぎる。
はー、今回も緊張した。この仕事、やっぱり小心者で緊張しいの私には向いてない気がするけど……。小心者で緊張しいと言うと、自称がつくとよく言われる。失礼な、私はとても繊細な心の持ち主だというのに。まぁこれは、家業だから、仕方ない。諦めも大事。
うんうん、と拳を作り小さく頷く私から少し離れた人混みで、悲鳴が上がる。私は、資料をバッグに仕舞い関係ない顔をしてその場を立ち去った。
悲鳴が上がっても仕事に追われているサラリーマンは駆け足で会社に向かうし、何事かとチラ見するだけでスルーしていく人が殆んど。所詮は他人だもんね、そら関係ないよねぇ。変に巻き込まれるのも嫌だし。他人事のように考えて、ジリジリと照りつける太陽を恨みがましく思いつつ、家路を急ぐ。
「ただいまー。暑いっ、アイスアイス」
玄関で靴を脱ぎ散らかして早く冷房の効いたリビングへ行ってアイスを食べようと急ぐと、視線を感じる。帽子を脱いで感じた視線のほうへ顔を向ける。
「お嬢様。靴は脱ぎ散らかすものではありません。丁寧に揃えてください。それと、アイスは着替えを済ませシャワーを浴び旦那様へ報告が終わってからです」
キラリと光る銀縁の眼鏡をかけたメイドが鋭く言い放つ。うへぇ、見つかっちゃった……。この人、仕事できるけど言い方キツいし色々厳しいから苦手。
でも、そんなことはおくびにも出さずに素直に返事をして靴を揃える。こんなことで表情に出てたら、うちの仕事なんてやっていけない。徹底的に幼い頃から叩き込まれたから、意識せずともやれる。
靴を揃えたあとは、バッグをメイドに渡し、風呂場へ向かう。長い廊下を歩いてる途中で、三つ年上の兄とすれ違った。
「今日も父様に媚売りか? まだ成人もしてないくせに、色目を使うなんてな。それも、実の父親に」
「兄様、無能。カラス、強い。それだけ」
兄の嫌味はいつものこと。いつも通りの返しをすれば、兄の顔はみるみるうちに怒りで歪む。媚びへつらってるのはどっちだか。いつも父様の顔色伺ってるくせに。
何より、この家の代表の名、カラスを受け継いだのは私だ。長男としてこの世に生まれ、父様からの血反吐を吐くような鍛練を受け、数年前まで将来を有望視されていた兄。だが、黒髪に金色の瞳と少し風変わりな見た目で生まれてきた私の誕生によって兄の将来はドン底。
ま、私が生まれなくても仕事に情を持ち込んじゃった兄様がカラスになれないことぐらい、誰でもわかる。
うちは、代々殺し屋をやっている。依頼を一度受けたら遂行するまで家には戻れないし、うちに生まれた以上は男だろうが女だろうが関係なく鍛練を受ける。幼い頃から殺しを学び、死のすぐ側で生活する。
ターゲットは老若男女関係ない。例え赤ん坊でも、お年寄りでも、ターゲットになったら殺す。仕事に情は持ち込まない。それがこの世界で生き残る術。
兄様は、数年前の依頼で、あろうことかターゲットの女性を好きになってしまった。当然、好きになった相手を自らの手で殺せるはずもなく、兄様は落ちぶれたと囁かれ女性は別の殺し屋によって殺された。
ちなみに、カラスの名を私の年で、しかも女が継いだのは初めてなんだって。どうでもいいけどね。私は強くて兄様は私より弱かった、それだけ。
怒りに顔を歪めて固まっている兄の横を通りすぎる。事実を言ったまでなのに、ねぇ。第一、ターゲットを殺せなかった時点でこの世からおさらばしていてもおかしくない。なのに、未だに兄様が生きて私に嫌味を言えるのは、全て父様の尽力のお陰。嫌味言う暇あるなら、鍛練でもしたら?
以前、兄様が私の好物に毒を混ぜると言う、嫌がらせという名の殺人未遂があった。その時は流石に怒って兄様を半殺しにしたので、以来手は出てこない。そのまま軽くシャワーを浴びて父様の書斎へ向かう。ノックすると、穏やかな声で入室を許可されたので、一声かけて入る。
「ハトからもう連絡は入っているよ。今回も無事だったようで、安心したよ。さて、カラス。今日は君に大事な話があるんだ」
先ほどまでの穏やかな表情から一転、真剣な顔になる。その真剣な顔のまま、突拍子もないことを言った。
「これから、ちょっと異世界に行ってきてほしい」
……? 父様、連日気温三十度を越える暑さで脳味噌が茹で上がったのかな。などと失礼なことが頭を過るが、勿論顔には出さない。だが、多少戸惑いは伝わったようで、というかこれで普通に話を進められたら困るので伝わってよかったんだけど、父様が苦笑いで私の戸惑いに答える。
「うちの三階に上がったことは?」
「ありません。父様に、幼い頃から三階には上がるなと言われていたので」
「うん、その通り。うちの三階はね、実は異世界と繋がってるんだよね」
まるで世間話でもするかのような軽さで、とんでもないことを言い出す。そして、真剣な表情のまま重大な事実を打ち明けるように私に依頼を告げる。
「カラス、君の次の依頼はーー異世界に行って、魔王を倒すことだ」
ーー父様、それって俗に言う、勇者ってやつじゃあありませんか?