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第六話「とりあえず、ご飯食べようか」

「はい」

『何だ、芹香いるんじゃん。開けて』


 元彼は相変わらずの軽薄な様子でカメラに向かって手を振っていた。付き合っていたときは、これを軽薄ではなく底抜けに明るいと思っていたのだ。

 いつも笑っていて、トーク力もある。うじうじと悩んだり激昂したりしない。だから、一緒にいるぶんには楽しい男だ。でも、それだけで、繊細さも深みもない。浮気もすぐバレる迂闊な男だ。

 相手選びも杜撰だから、割り切って遊べるタイプじゃない子を浮気相手に選んで、結果泥沼化してしまうほどの迂闊さだ。


「弟が来てるからあげられない。帰って」

『は? そんなベタな言い訳やめてよ。なぁ?』


 ベタな言い訳じゃないんだけどな。私の隣では不機嫌な顔した裕樹がモニターを見ている。こちらの様子もお見せできないのがもどかしい。

 元彼は間抜けな顔でカメラを見ていた。連絡もなしにやってきて、無条件にあげてもらえると信じて疑っていない顔だ。


「ベタな言い訳じゃなくて、本当に困るんで帰ってください。……あと、もう来ないで」

『えっ……ちょ』


 横から受話器を奪った裕樹が一方的に言い捨てると、それを元に戻して通話を終わらせてしまった。モニターは真っ黒になり、そこには驚いた顔をした私と、そんな私を見ている裕樹が映り込んでいた。

 元彼は、無事に追い払えた。でも、裕樹の怒りがおさまっていないのは確かだった。


「姉さん、今からたぶん、答えにくいことを聞くと思う。だから、どうしても答えられないことはイエスかノーかだけでも答えて」


 冷たく平坦な声で裕樹は言った。いつも笑っているように見える目が、今はすごく無表情だった。

 怒っているのは、元彼にではなく私に対してみたいだ。それがわかったから、私は素直にコクンと頷いた。


 


「あの男が別れてからここに来るのは何度目?」

「三回目」

「毎回部屋にあげたの?」


 小さく、私は頷いた。


「体の関係が、まだあるの?」


 また、私は頷いた。


「別れても、まだ未練があるの?」

「……わかんない」


 私の返事を聞いて、裕樹は盛大にため息をついた。そして、文字通り頭を抱えて、俯いてしまった。

 たった四つの質問をされただけ、私も自分の現状を嫌というほど実感して、恥ずかしいやら辛いやらで何も言えなくなってしまった。

 なんて、情けないのだろう。

 客観的に見れば、今の私はとんでもない。だらしがないし、身持ちが悪いと言われても仕方がない。

 弟の立場から見れば、きっとより強くそう感じるだろう。

 裕樹は、呆れたのだろうか。私のことを、軽蔑したのだろうか。



「姉さんがさ、ものを大事にして長く持ちつづけるタイプの人だってことはわかってたけど……あれはないわ」


 どのくらい黙っていたかわからないけれど、長い沈黙を破ったのは、裕樹のほうだった。


「姉さんがものを大事にする姿勢って、すごく良いと思うけど、自分のこと大事にしてくれない男とはさっさと縁切っちゃおうよ。そんなものを後生大事にとっておいたって仕方ないよ。ね?」


 そう言った裕樹の顔はもう怒っても呆れてもいない。だから私は、何だかどうしようもなく泣きたい気持ちになった。


「せっかく浮気男と別れたのに、ホイホイ家にあげて体許しちゃうなんて、姉さん、バカだよ。……そんな都合のいい女にならないでくれよ」

「……うん」

「もっと自分を大事にしてよ」

「うん」


 両手で肩を掴まれて、軽く揺さぶられる。でもそれは決して責められているのではないとわかる。裕樹の目が、ただただ心配そうな色を浮かべていたから。


 


 それから、またキッチンに戻って、二人並んで黙々とハンバーグを成形した。今日の分と、冷凍しておいて今度ロコモコにする分と、カレーに乗せたりするためのミニハンバーグをひたすら作っていった。

 全部丸め終えて、焼くのは裕樹がやってくれた。

 私は手を洗って、横でサラダを作りながら、この沈黙をどうしたものかと頭を悩ませていた。

 まさか、この歳になって弟に叱られるとは思ってもみなかった。しかも、叱られた内容が内容だけに居心地が悪い。

 これが、私がどうしようもなく快楽主義者で、元彼との行為が忘れられなくてズルズルしていたとかだったら、たぶん幾らかマシだったのだと思う。

 でも、私があの男を完全に切れなかったのは、そんなことではない。

 コンビニでもらった割り箸だとか、ちょっと可愛いショップの紙袋だとか、そういったものをいつまでも捨てられないのと似たような感覚だ。

 ……相手が物じゃないだけに、余計に始末におけないのだけれど。

 結局は、流されていたのだ。

 離れたくないとしがみついていたわけではないところが、本当にみっともなかったと今なら思う。


「姉さん、淋しかったの?」

「え?」

「淋しかったから、あの男に体を許しちゃってたの?」


 ハンバーグを焼くフライパンをジッと見つめたまま、ごく小さな声で裕樹が私に問いかけた。かろうじてそれは聞き取れたのだけれど、何と答えて良いものかと私は考えた。


「……そうだね。淋しかったのかも。彼氏にしとくのは面倒くさくて嫌だったけど、淋しさを紛らわせるにはちょうど良かったんだね、きっと」


 あははと、笑いながら答えてみた。こんなこと、もう笑うしかない。けれど、こちらを向いた裕樹の顔はちっとも笑っていなかった。


「……そういうの、もうやめろよ。俺がいるんだから」


 この細い目は、笑みが失われると途端に表情がわかりにくくなる。今も、その目つきが一体何を意味するのかがさっぱりわからない。

 でも、とりあえず真剣な様子なのは伝わる。


「そうだね。弟の裕樹がいてくれるんだもん。他人で淋しさを紛らわせたりしなくていいんだもんね!」


 どうしたらいいかわからなくてとりあえず口にした言葉で、墓穴を掘ってしまったのだと気がついた。私の言葉を聞いて、裕樹が、ピリっと不穏な空気を発したのだ。


「……姉さん、俺は本当は弟じゃないって知ってた?」

「……」


 どうやらハンバーグは焼けたらしい。火を消し、換気扇を弱に切り替えた裕樹は改めて私のほうへ向き直った。

 無表情ではなくなって、うっすらと笑みが浮かんでいる。でもそれは、笑っているのにどこか苦しそうだった。


「俺たち、法律上では姉弟でも何でもないんだよ。姉さん、父さんと養子縁組してないだろ? だから、俺たちは単なる連れ子同士なの。俺たち、一秒たりとも姉弟だったことなんてないんだよ」

「……知ってた」


 大学に進学するときか一人暮らしをするときか何かに、戸籍を取り寄せる機会があって、そのとき知ったのだ。知っていて、今まで忘れていた。それは、あまりにも私にとってショッキングだったから。


「ショック受けたって顔してるね。でも、俺は嬉しかったけどな」


 この子は悪魔なのか、と私は思った。

 今更な事実を改めて私に突きつけ、笑っている。私たちが姉弟でも何でもないということをわざわざ言葉にして、そして笑っている。

 私と他人なのが、家族ではないということが、そんなに嬉しいのだろうか。


「……何でそんなに嬉しそうなのよ!」


 思わず声を荒らげてしまった。涙が滲む目で睨むと、裕樹はそれに若干動揺したような様子を見せた。

 そういえば、この子は私が泣くといつもオロオロとするのだ。小さな頃から、ずっと。それは、たとえ映画を見て泣くという現実味のない涙でも、きまって慌てるのだ。

 ひどく慌てた様子で、まるで言い訳するように裕樹は言った。


「……だって、弟じゃないなら、俺、姉さんのこと好きでいてもいいんだから」

「……え?」

「俺は、ずっと好きだったんだよ!」

「え⁉︎」


 怒ったような顔をして、頬を真っ赤に染める裕樹が何だか恐ろしくて私は後退った。それなのに、裕樹はそんな私を逃すまいと距離を詰めてくる。


「……姉さんは無防備だよね。姉さんは、俺を弟だと思って、自分のことを好いてる男をホイホイ家にあげてたんだよ?」

「……」


 狭い部屋の中、逃げ場なんてなくて、どうしたらいいのかわからないまま、私は動けなくなった。裕樹はそんな私にただ距離を詰めているだけで、壁に押しつけようとか無理矢理捕まえようとかはしなかった。

 でも、息のかかる距離にいる。捕まえようと思えば、いつでもできる距離に。


「……そういうことだったの。てっきり、私と何の繋がりもないことが嬉しいのかと思っちゃった。私はショックだったのに。裕樹との繋がりを証明するものが何もないってわかって、すごくショックだったの」


 努めて平静を装って私は言った。本当はちっともそんなことないけれど、動揺していても始まらないから。

 こういうときこそ、“姉”の余裕だ。でも本音は、弟だと思っていた目の前の男の子にとって食われるのではないかと冷や冷やしている。


「私、泣いたんだよ? 親が離婚する前から、私と裕樹の関係を証明するものなんてなかったってわかって、すごくショックだったんだよ? すごくあんたのこと可愛がって、弟だって、家族だって思ってたのに!」


 言いながら、初めて事実を知ったときのショックが蘇ってきて泣けてきてしまった。

 離婚はさほどショックではなかったけれど、裕樹との繋がりがなくなることは嫌だったのだ。

 おまけに今、混乱するようなことを言われて、頭の中はぐちゃぐちゃだ。

 弟だと思っていた裕樹に告白されて、姉じゃなくてよかったと言われ、私の気持ちはどこへ行けばいいのだろう。

 もうこんなの、泣くしかないーーそう思って、私は涙を流れるままにしていた。


「泣くなよ」


 困った顔をして裕樹が言う。拗ねているみたいな顔が、ちょっと可愛いなと思う。でもきっと、弟じゃないから、可愛いなんて言うと気を悪くするのだろう。


「……これが泣かずにいられますか」


 もう何だか嫌になってしまって、私は涙と一緒に鼻水をすすり上げた。

 それを見て、裕樹まで泣きそうな顔になっていった。


「じゃあさ、また家族になろう! ……でも、もう姉と弟は嫌なんだ!」


 あっと思ったら、抱きしめられていた。少し汗のにおいのする胸板に顔を押しつけられて、逃れようにも後ろ頭を両腕で抱え込まれて、私は動けなくなっていた。


「……それ、どういうこと?」

「だから、他人じゃ嫌なんだろ? それは俺も同じ。だから、家族になろうって言ってんの」

「……こういうとき、『恋人になって』って言うのが正解じゃないの?」

「だって、そんなもんじゃ嫌なんだ。足りない。だから、家族になるんだ」


 言いながら、裕樹はより一層私の体をぎゅうと抱きしめた。心細い夜に枕に抱きつくようなその仕草に、苦しいと思いつつも「しょうがないな」という気がしてきて、私も裕樹の背中に腕を回した。

 いつの間にこんなに大きくなったのだろう。

 抱きしめ返した体は、もうすっかり大人の男の人だった。


 ***


 まだ混乱しているし、正直何だか恥ずかしい。でも、この腕を振りほどこうという気にはなれなくて、むしろ居心地の良さを感じていた。


 私たちが姉弟でないというのなら、この離れがたい気持ちは何なのだろう。

 その答えが出るより先に、別の問題が浮上してしまったのだけれど。


「……今の、どっちのお腹の音?」

「……わかんない」

「とりあえず、ご飯食べようか」

「うん」


 抱き合ってお互いの鼓動だけしか聞こえない状態だったのに、間の抜けた腹の虫が二人の間に響き渡った。

 今鳴らなくてもいいじゃないというくらい大きな音で、しかも振動までばっちり伝わってきた。そのおかげで、本当にどちらの音なのかわからなかったけれど。


「あー……しまらねぇなぁ」

「家族だから仕方がないよ。恋人だと、こうじゃなかったかもしれないけど」


 体を離してお互い見つめあって、気恥ずかしさとおかしさで私たちは笑った。

 私たちの関係を適切に示す言葉は、まだ自分の中に見つけられない。それでも、この子のことを大切に思っていることは間違いなかった。

 なぜなら、裕樹の告白に私は嫌悪はないし、その逆で嬉しく思っているのだから。


 ただ、“姉”としての私が、どうしたものかと混乱しているだけなのだ。

 そればかりは仕方がない。

 でも、時間が解決してくれると、私は自信を持って思っていた。


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