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第四話「ままならないのが人生だよ」

「無為に過ごしちゃダメよ。何か、有意義なことをしなさい」


 玄関でそう言い置いて、私は仕事に向かった。

 ただダラダラと過ごさせるのはどうかと思って言ってみたけれど、我ながら無責任な発言だ。でも、仕方がない。しばらく家におくことにしたのはいいのだけれど、いかんせん心配なのだ。

 それも、具体性のある心配ではなく、漠然とした心配。

 大学三年の青年が、サークルもバイトも何もかもほったり投げて姉の家に避難しているというのは、客観的に見ると如何なものかと思うのだ。

 そのうち就活だって始まる。大学生活は無限には続かない。

 そんな今、やっておくべきことややらねばならないことがあるのではないかと、心配になるのだ。

 けれど心配する私に対して裕樹は「そうだね。時間もたくさんあるしね」と言っていて、のんきなものだった。

 とは言っても、私も大学三年のとき何か有意義なことをしたかと言えば、そうでもなかったけれど。

 バイトかゼミか、蚤の市巡りか。

 決して意識の高い学生ではなかった。こんな夏の暑い日なんて、少しでも電気代を浮かせようと大学の図書館でDVDを見ていたのだから。しかも、名画と言われるものを見ればいいのに、ラーメンズのライブDVDを好んで見ていた。仏文専攻でメディア系の授業は全くとっていなかったからなぜ大学の図書館にラーメンズがあったかはわからないけれど、暑さでとろけた脳に彼らの笑いは良い刺激になったと思う。

 なぜなら、今でも「ギリギリジンジン」の歌をフルで歌えるのだから。

 ……よくよく考えると、無為な日々だ。これではたとえ裕樹が今日私が帰宅してゴロゴロとしていたとしても、何も言えない。


 ***


 仕事を終えて帰宅すると、今日も玄関までいい匂いが漂ってきていた。

 ごま油の匂いがするから、今日は中華だろうか。

 裕樹はこの年頃の男の子にしたら非常にマメでよく出来た子だと思う。私は大学生の頃、面倒くさいときはカレーとシチューとハヤシライスと肉じゃがをローテーションで作って食べていたのだから。

 仕事を始めて、食べることくらいしか帰ってからの楽しみがないため、少し手間をかけて料理をするようになっただけだ。


「ただいま。今日はなーに?」

「水餃子! 皮から作った!」

「すごいー!」

「レンコンのキンピラもあるよ」

「やったー!」


 仕事から帰宅して、こうしてご飯を用意してもらっているなんて、なんて幸せなんだろうと今日も思う。

 仕事中に夕飯は何かななどと考えてしまうくらい、実は楽しみにしていた。

 小さなテーブルに並べられた食事を見て、期待を裏切らないその出来栄えに感激する。

 今日は少し仕事で嫌なことがあったけれど、そんなことももう気にならなくなっていた。


 

 添えられたレンゲでスープをすくってひと口飲んでみると、思いのほか美味しかった。鶏ガラベースであっさりしているのに、あとを引くコクがあるのだ。


「美味しい! スープの水餃子もいいねぇ」


 てっきりタレで食べるのだと思っていたのだけれど、ひと口食べると今日はこれだったんだ! という気持ちになってしまった。


「スープについては、誰でも美味しく出来ちゃうあの調味料を入れてるだけだからね」

「ああ、例のアレね」

「そう、アレ」


 裕樹が言っているのは、おそらく“中華といえば”なあの調味料のことだろう。でも、驚いたことにあれは本場にはないのだという。


「そんなことより、俺ね、今日小説書いて過ごしてたんだ」

「小説?」

「そう。初めて書いたんだけどね」

「ほぉ」


 一刻も早く見てもらいたいと言った様子で裕樹がノートを差し出してくる。だから私はレンゲを置いて、それをパラパラとめくってみた。

 どうやらそのノートはネタ帳として使っていたらしく、何ページかは箇条書きのアイデアの羅列だった。そういった部分を飛ばし、文字がわりと詰まっているページを見つけたので読み始めている。

 それは小説というよりは、私が目にしたことがあるものでいえば戯曲集に近かった。つまり、ほとんど脚本書きと変わらない代物ということだ。

 かぎかっこの合間におそらく地の文らしきものも書かれているのだけれど、それは描写という人格を感じるものではなく、淡白な説明文だった。

 でもまぁ、それは小説初挑戦だから仕方がない。


 

 内容のほうはまずまずだった。

 ある男が行く先々に置かれたカエルの置物を手がかりにひとりの女を探すという筋書きなのだけれど、その置物に対する男の物言いがいちいち面白い。

 置物は置物に過ぎないのに、男はそこに女からの何らかのメッセージを読み取ろうとするのだ。これこれのポーズは彼女が俺の足取りについて如何ともしがたい気持ちを抱いているからだとか、この艶は彼女がここまでの道中寂しさを紛らわせるために撫でまわしていたのを如実に表しているだとか。

 とにかく、主人公の男はよくしゃべった。

 鹿児島から始まった男の旅路は、広島、京都、山形を経て、北海道・苫小牧で終結する。

 女を捕まえた男は、そのあと知床に流氷を見に行くというところで終わった。

 これを読んでわかったことは、自分の弟の頭の中が随分とエキセントリックだということだ。

 正直に言えば、よくわからない。でも、弟が書いたと思うと面白いような気がするのだ。


「どうだった?」


 期待の眼差しで裕樹に問いかけられた。この手の質問に対する受け答えって、すごく難しい。絶賛するわけにもいかないし、酷評するのもどうかと思う。かといって適当にお茶を濁すのも失礼だから、思ったことの半分を伝えるしかないだろう。


「男がいちいちカエルの置物にコメントするのが面白かった。でも、どうして女を追いかけてるのかがわかんなくて」


 私の感想を聞いて、裕樹は「むぅ」と唸った。でもそれは不満そうなわけではなく、むしろ困った顔をしていた。


 

「……やっぱり、初の小説で恋愛は難しかったか」

「そ、そうだね……」


 これ、恋愛小説だったのかという言葉は何とか飲み込んだ。

 おかげで裕樹の創作意欲は折れなかったらしく、明日も頑張って書くと言っている。

 明日もきっと読むことになるのだろう。それなら、できればもっとわかりやすいものがいいなと私はこっそり思った。


「ところで裕樹、あんた彼女いないの?」


 ふと、疑問に思ったことを尋ねてみると、ジト目で裕樹に見つめ返された。どうやら、聞いてはいけないことだったらしい。


「彼女いるのに、こんなふうに何もかんもほっぽりだして福岡にいたらおかしいだろ」

「それもそうよね。……ごめん」

「別にいいけど。そんなことより、姉さんは何で彼氏と別れたんだ?」


 今度は、私が地雷を踏まれる番だった。

 人の触れられたくないことに触れると、自分も同じ目に遭うということか。でも、会話の流れとして自然だったから仕方がない。


「理由は色々あるけど、浮気ばっかりする人だったからね。遅かれ早かれ別れてたのよ」

「浮気はどうしようもないな」

「うん、どうしようもない」


 口には出さないけれど、「どうしようもない」という言葉に私は様々な思いをのせる。

 本当に、どうしようもなかったのだ。

 裕樹はおそらく、私が彼氏の浮気に我慢ならなくなって別れたと思っているのだろう。でも、実際はそうではない。

 そういう単純なことだったなら、私はこんなにも未だにモヤモヤとしてはいないだろう。

 別れた理由は、彼氏の浮気相手のひとりにひどく精神に来る攻撃を受けたからだ。


 

 嫌は嫌だけれど、私は別段彼氏の浮気をどうとも思っていなかった。それは、彼氏が浮気を私との関係に持ち込まなかったからだ。私とは私とだけの関係、浮気相手とは浮気相手との関係といった、個々の人間関係を築いていたため、そんなものかという割り切りができていた。

 でも、攻撃してきた子はそうではなかったらしい。私のことが憎らしくて、私が彼といるときもいないときも関係なく、ましてや自分が彼といてもいなくても関係なく、その憎しみに心が支配されてしまったらしい。

 そして彼氏が寝ている隙にでも私の連絡先を知ったらしく、電話やメールでの嫌がらせをしてきたのだ。

 私は、それが面倒臭くて、彼氏と別れたのだ。

 浮気するのは勝手だけれど、私を巻き込まないでーーそれが、別れたときの私の本音だった。

 私が彼氏のことを好きな気持ちと、その子が私の彼氏を好きな気持ちは全く関係のないことなのに。それがわからない人には浮気相手は向いていないと思う。

「浮気相手でいいの」と言った以上、本命の彼女に嫉妬するなんて本末転倒だ。「あなたのことが好きだから、今付き合っている彼女と別れてください」と言えなかったのなら、その立場に甘んじるべきだ。二番手として名乗りをあげたのなら、二番手として生きる覚悟がなくてはならない。

 ……それは一番手にも言えることで、私は面倒くさくなってしまったから何とも言えないのだけれど。


 


「恋って難しいよね……」

「そう? 『好き』ってひとりで思ってる分には、すごく簡単なことだと思うけどね。それが相手や周りと折り合いをつけていく段階になると、難しくなっていくけどさ。……ままならないのが人生だよ」

「はぁ……」


 二十一歳にして、こんな達観したことを言ってしまう裕樹は、一体どんな恋をこれまでしたのだろうか。

 彼女がいたということは、当然恋もしたのだろう。浮気したりされたり、そんなこともあったのかもしれない。

 そういえば、姉弟と言ってもそういうことまで話し合う仲ではなかった。小中学生の裕樹に「好きな子いるの?」と尋ねると、決まって「姉ちゃんには関係ないだろ」と怒られていたのだ。

 だから、姉弟でこんなふうに恋バナなんてするのは初めてだった。とはいっても、大して踏み込んだ話はできなかったけれど。

 でも、踏み込まないほうがいいのかもしれない。

 人に話せるような、綺麗な恋ばかりしてきたわけではない。弟には話せない、あんなことこんなことがある。

 別に、人の道を外れることをしたわけではないけれど、姉の見栄というか何というか、知られたくないこともあるのだ。

 それはきっと裕樹も同じだろう。


 そんなことを、私は皿を洗いながら思った。


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