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第一話「遠くに行きたいって思ってたんだ」

 大慌てで会社を出て、目的の駅までたどりついたのは午後七時過ぎだった。

 メールを受け取ったのは午後四時。

 三時間ほど待たせてしまったけれど、あの子は大丈夫だろうかと、この辺りで一番大きな駅の構内をキョロキョロと探す。けれど、人が多すぎてすぐには見つからない。そういえば、今どんな姿をしているのかもわからないのだ。離れて暮らすようになってから、あの子とはメールと電話でのやりとりしかしていない。

 最後に会ってから、五年経つ。

 少年にとっての五年なんて、きっととんでもなく長い時間だ。せめて、どんな服装かだけでもメールで聞いておくべきだったと後悔しかけたとき、後ろからポンと肩を叩かれた。

 振り返ると、むに、と頬に何か当たる感覚。そして聞こえてくるクスクスと笑う声に反対側に顔を向けると、見知らぬ男の人が立っていた。


「姉さん、そんなんじゃまるで姉さんが迷子みたいだ」

「……裕樹(ひろき)?」


 目の前の男の人は、こくんと頷いて、そして目を細めて笑った。

 ーーああ、元から細い目がなくなっちゃう。

 そう思って、まじまじと見つめると、確かに目の前の男の人には、私が知っているあの子の面影があった。

 背が伸びて少し見上げなければ目線が合わなくなっているし、体つきも大人の男の人になっているけれど、間違いなく、この人は裕樹だ。

 五年前まで、私の弟だった男の子だ。





「ごめんね。待たせちゃったよね」


 すっかり大人の男になってしまった元・弟にどぎまぎしながら、とりあえず私は笑ってみせる。家族だったはずなのに、こうして久々に会うと妙に気恥ずかしいのはどうしてだろう。

 裕樹が身内の贔屓目を抜きにしても、ちょっとカッコイイ男の子になっているからだろうか。

 ヨレっとしたTシャツに履き古した感じのジーンズという出で立ちだけれど、それも気にならないくらい爽やかだ。いかにも、好青年という感じ。

 一緒に暮らしていた頃は、小柄で華奢な子だとばかり思っていたのに。会わない間に、随分と背が伸びて、体も鍛えたらしい。いい感じの細マッチョに仕上がっている。ゴツくはない適度な筋肉というものは、男の子に清潔感を与える。うん、これは女の子にモテるだろう。


「ううん。適当にお茶しながら待ってたから」


 三時間ほど待っても、この受け答え。何でもないことのように微笑んで見せるなんて、合格だ。


「そんなことより、電話鳴らしてくれたらよかったのに。まぁ、キョロキョロしてる姉さんを見られたのは面白かったけど。姉さんは相変わらずだね」

「そっか。電話で『どこいるの?』って聞けばよかったか。でも、慌てちゃって……」


 言いかけて、私はやめた。小中学生の子を待たせているならいざ知らず、裕樹はもう二十一だ。しかも、ここ福岡よりうんと都会の、東京で大学生をしているのだ。博多駅くらいで迷子になるわけがない。


「……裕樹、大きくなったね」


 思わず言ってしまったら、目の前の好青年は少し困った顔をしながらしばらく考えて、くしゃっと笑った。

 それは、何年経っても変わらない、可愛い弟の笑顔だった。



   ***


 何か食べに行こうかと尋ねると、「姉さん家で適当に食べさせてよ」なんて言うから帰ることにした。

 鉄鍋餃子の美味しい店にでも連れて行くつもりだったのに。熱々の餃子を食べながら冷えたビールでカンパーイ、なんて最高の想像をしていたから、少し気持ちが萎える。まぁ、旅の疲れもあるだろうし、家で食べたいと言ってもらえると安上がりで助かるのだけれど。

 まずは地下鉄に十分ほど揺られ、そこからまた十分ほど歩くと、私の住むマンションまでたどりつく。


「意外と便利なところに住んでるんだね」

「うん。職場にも市街地にも近いところが良くって」

「家賃高い?」

「うーん、そうでもないかな。少し古めのところにしたから、そのぶん築浅なところより安いの」

「なるほど」


 手入れはされているからボロくはないけれど、さして綺麗とも言えない築十三年のマンションを二人で見上げた。こうして見ると、アクセスの良さ以外褒めるところのない物件だ。

 オートロックを外せない条件として掲げると、ないところと比べるとどうしても賃料は上がる。ただ、外観も立地も防犯も、と何もかも欲張りさえしなければそこそこ良いところに住める。私の場合は立地と防犯を優先したから、ここに来るまでに通り過ぎた新しいマンションと比べるとどうしてもくすんでしまう。


「マンションって、築十年過ぎたあたりから賃料が下がるから、立地の良いところに住みたかったら築年数に目をつむるといいよ」

「ふぅん」


 裕樹の返事はどうでも良さそうだ。オートロックを解除すると、するりとエレベーターホールに入っていってしまった。

 職業柄、どうしてもこういった話を膨らませたくなってしまうのだけれど、裕樹は別に賃貸マンションになんて興味はないみたい。残念。


「ねぇ、青春18切符で来たの?」

「あー……うん、まぁそんな感じの、それなりに青春を感じる手段で来たかなぁ」


 東京から福岡に来るまでの道中の話を聞こうかと思ったのに、どうやらあまり楽しくはなかったみたいだ。

 裕樹は肩にかけたレスポのボストンバッグを担ぎ直し、ニコっと笑うと私に早くエレベーターに乗るよう促した。

 旅の感想を突破口にして事情を聞き出そうと思ったのに、どうやらそれは嫌だということらしい。

『姉さんに会いに来た。博多駅にいるよ』なんてメールを突然送りつけて来るのだから、何か訳ありにちがいない。それも、来てもいいかとも今から行くねとも言わずにやって来たのだ。簡単には話したくないことなのかもしれない。

 ちらりと、隣に立つ裕樹を観察してみるけれど、その横顔からは少し疲れた様子くらいしかわからなかった。



「適当に座っといて」

「うん」


 促す前に裕樹はきちんと洗面所で手洗いとうがいをしてくれた。このあたりに私の躾がまだ生きているのを感じるとホッとする。忙しい両親に代わってこの子に色々教えたのは私だ。あの頃一緒にいなかったら、きっとこの子は帰って来て手も洗わない子になっていただろう。

 裕樹が腰を落ち着ける場所を見つけたのを横目で確認して、食材のチェックにとりかかる。玉ねぎと人参と、少し萎びているけどピーマンもある。冷凍庫に作り置きの鶏の竜田揚げも発見。これならささっと支度ができそうだ。


「裕樹、酢豚嫌いじゃないよね?」

「うん、好き。あ、俺はピーマン食べられるからね」

「……私もさすがにこの歳になれば食べられるよ。ちなみに、豚肉揚げてる時間もったいないから、鶏の竜田揚げで代用するからねー」

「何でもいいよー。あ、俺、米研ぐ」

「じゃあ、二合ね」


 私が野菜を切り始めた横で、裕樹は計った米を研ぎ始める。一緒に暮らしていた頃も、よくこうして並んで夕飯の支度をしたのを思い出す。母も家にいるときは、私たちに料理を教えてくれた。男の子だからと言わずに、母は裕樹に熱心に台所のことを教えた。その甲斐あって、中学生になる頃には裕樹はあらかた何でもできる子に育っていた。


「そういえば、お母さん元気? って、お母さんとか言うの、変なんだけどさ」

「そんなこと言ったって、石井さんなんて呼ぶわけにいかないでしょ。うん、お母さんは相変わらず元気だよ。仕事もバリバリ、恋もバリバリ」

「あははー。そっか、相変わらずか」


 手早く米を研いで炊飯器にセットした裕樹は、隣で私が調理する様子を見ていた。野菜は切ったら、タッパーに入れて電子レンジで一分加熱。そのあと、油で炒めて、解凍した竜田揚げを入れて、しょうゆとみりんとケチャップで味付けして、味を見て少し酢と鶏ガラスープの顆粒を入れて、水溶き片栗粉でとろみをつけたら出来上がり。


「俺、炊きたてご飯食べるのかなり久しぶり。食べるにしても、レンジであっためるご飯だから」

「炊飯器ないの? 買いなよ。それか、電子レンジで米炊けるタッパーみたいなのあるでしょ? あれ買いな」

「何で? 米は日本人の心、みたいな?」

「まぁ、そんなところ。とにかく、最低限米は炊いて食べなさい。衣食住の食が崩れると、何もかもダメになるってよ」

「何それ。……わかった。何かそんな予言めいたこと言われると怖くなるもん」


 米が炊きあがるのを、私と裕樹は炊飯器を見つめながら待った。急速炊きモードにしたのに、おかずのほうが先に出来上がってしまった。デジタルの表示はあと九分と出ている。

 フライパンを洗ってお味噌汁を作るくらいの時間はありそうだ。


「まだ炊けないから、座ってていいよ」

「うん。……てか、テーブルちっさいね」

「一人暮らしだからね」

「でも、食器は……揃ってるね」


 ノートパソコンを乗せるとほかに何も置けなくなるくらいのテーブルの前にちょこんと座ると、裕樹は食器棚代わりのカラーボックスを見ていた。

 裕樹の観察眼が鋭いのか、それともパッと見ればわかるものなのか、確かにその食器棚には一人暮らしのものより多い食器がある。しかも、何種類かは対になったものだ。


「彼氏がいたときの名残。たまにうちでご飯食べたりしてたから、それでね、捨てるのももったいないから置いてあるだけで」

「まぁ、今日みたいな急な来客のときは役に立つよね」

「うん……あ、炊けたね」


 タイミングよく、炊き上がりを知らせる電子音が鳴る。ちょっと間の抜けたアマリリスのメロディは、何かに夢中になっているときに聞くといつもビクッとしてしまうけれど、今は少しありがたかった。

 何が悲しくて、別れた彼氏が使っていた食器の話を弟にしなくてはならんのだ。



「いただきまーす。うまい!」

「よかった。ごめんね、簡単なものしかできなくて」

「ううん。こういう家庭料理に飢えてからすげー嬉しい」

「そっか」


 リスのように頬張って食べる裕樹を見ると、私も嬉しくなった。裕樹がこういう手料理が久しぶりなように、私も誰かに食事を振る舞うのは久しぶりだった。

 野菜にタレが絶妙にからんでいても、竜田揚げにうまく味がしみていても、ひとりで食べるのだったら味気ない。「美味しい」と言ってもらえることに飢えていたのだと、裕樹の笑顔を見て思う。


「思いきって来てみてよかった」

「そう」

「何もかんも嫌になっちゃってさ……どっか遠くに行きたいって思ったときに頭に浮かんだのが姉さんのことだったんだ」


 おかわりをして米一粒残さず食べ終えて、しみじみとした様子で裕樹は言う。

 何もかんも嫌になって遠くに行きたいだなんて、何があったんだろう。

 自分の大学生の頃を思い出しても、そんなことはなかった気がする。あの頃は、何もかも楽しかったから。嫌なことなんて、適当に成績をつけると評判の教授やバイト先にムカつく客が来ることくらいだった。

 疲れていて、でも心底安心しているみたいな裕樹の顔を見たら、私は事情を聞きたいと思っていた気持ちを引っ込める気になった。

 この子はヤンチャだけれど、めったなことをする子ではなかった。ポンと家を飛び出して何時間もいなくなったり、押し入れに閉じこもって出てこなかったりしたのは、よっぽど辛いことがあったときだけだ。


「裕樹の言うところの遠くっていうのが、せいぜい福岡でよかったよ」

「俺、福岡じゃなくても姉さんのいるところならどこでも行ったよ」


 そんなことを言う裕樹の顔は笑っていたけれど、表情が妙に真剣で、私は何も言えなかった。

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