第七九話 目が覚めたらそこに
今回ちょっと長め。
「なあ……、さっきのを他のトロールにもやったら、オレら勝てるんじゃねぇの……?」
ぜえぜえと息を切らしながら、何とか視界内に魔物が居ない場所まで逃げ切った二人。今はちょっとした倉庫ほどもある大きさの大岩の陰に身を隠している。ジャックはその途中で抱いていた疑問をエリックにぶつけた。
「さっきは都合良くトロールが一頭だけだったから、できたことだよ……。それに、機動力は奪えても討伐は厳しいかな。だって、脛を狙ってもあの程度のダメージなんだよ? 仕留める前に僕のMPが尽きるのは、間違いない」
こんなことならもっと沢山ポーションを買っておくんだった、とエリックがぼやいた。もっとも魔力ポーションに余裕があったとして、慎重派なエリックがトロール討伐に乗り気だったかどうかは甚だ疑問だが。ジャックが何度も真正面からトロールの相手をしなければならない点も、実行を決意するには厳しいものがある。
「そっか、まあそうだよな。オレら二つ星に上がったばっかの初級冒険者だし。それなのにトロール相手にこうして善戦してるって、結構凄くね?」
「ロロさんの指導と、スギサキ君の訓練の賜物だね。あの二人には多分、一生頭が上がらないよ」
楽観的なことを言うジャックに反論することも無く、エリックは冷静に実力を伸ばせた理由を指摘した。
「かもな。……っ」
ジャックは一瞬だけ顔をしかめ、堪えるような声を出した。
「ジャック……?」
それに気付いたエリックは怪訝そうにジャックの様子を窺い、そして気付く。ジャックの右足が、不自然に体重をかけられていないことに。
「右足、庇ってるね」
「……別に、庇ってねぇよ」
「じゃあ右足だけで立ってみてくれるかな?」
エリックの質問に対するジャックの返答は、無言だった。しかめっ面で不機嫌そうに、口を閉ざしている。
「真面目な話をするよ。その足で、あとどのくらい走れるかな?」
死活問題だった。格上相手に逃げの一手を打つことで生き残っているのが現状だ。走れないとなると、それはもう迎え撃つしか無くなる。
「まだ走れる奴が逃げる。それしかねぇよ」
ジャックは腹を決めた顔で、エリックの目を真っ直ぐ見て言った。
「そっか。実は僕の足もそろそろ限界だし、逃げ切れないなぁ」
しかしエリックは冷静に、ジャックの意図したところを否定した。
「ふざけんな。このままじゃオレらどっちも死ぬんだよ」
「ふざけてるのはジャックの方だよ。僕らは生きて帰る」
二人の声は静かだったが、どちらも怒気を孕んでいた。けれど、どちらの方がより強い怒気を孕んでいたかと言えば。
「僕はアンヌとの別れ際に約束したんだ。ちゃんと生き残るって。見たよね、あの時のアンヌの表情。魔物と戦ったアンヌのお父さんが亡くなった時も、あんな顔してたよ」
それは、エリックの方だった。
アンヌの父はその当時、村一番の腕自慢だった。ちょっとした魔物の撃退ならギルドに依頼するまでもなくこなしていたし、周囲からの信頼はとてもあつかった。しかし本職の冒険者に匹敵するほどの実力ではなかった。これはそんな、当たり前の話。
村人であった彼には、魔物に関する深い知識があった訳はない。必然、自分の手に負える相手かどうかの判断基準は勘。彼は判断を誤ったのだ。
「ジャック。もしもこんなところで死んでみろ。僕は一生、君を許さない」
目の奥に、静かに燃える炎を宿して。エリックはジャックに視線を返す。
ジャックは気圧されて、何も言えずにいた。
「……と、ここまでは精神論だからね。ぶっつけ本番でやりたくなかったけど、実を言うとトロールを撃退する手段は考えてあるよ」
先程までの威圧的とすら言える雰囲気を一変させて、エリックは普段通りの口調で話す。
「撃退って、マジかよ……」
「詳しく説明しておきたいところだけど、そんな暇は無さそうだね」
二人が背にしている大岩の方から、二人は逃げてきた。先程の個体以外で考えてもトロールがやって来る可能性が高いのはそちらの方角だったが、エリック達が相手をしているのはトロールだけではない。
「今度はゴブリンってか……!」
わらわらと十頭ほど、緑色の魔物が二人の前方に見える。ジャックが言った通りそれはゴブリンで、明確にこちらへ向かい移動してきていた。
手負いの二人を見てにやけた表情を浮かべているように見えるのは、果たして二人の思い違いか。
「ゴブリン相手にMPを消費する訳にはいかない。僕も前に出るから、ジャックも踏ん張って貰うよ」
前衛より前に出て、魔法使いの杖を構えるエリック。本来後衛である彼の背中を見ることになった前衛は、一瞬だけ表情を歪める。
「だあ、クソ、覚悟決めるしかねぇか」
ジャックは雑念を振り払うように頭を振り、剣を構えた。が、しかし。
「ガアアアア!」
後方から、聞き覚えのある雄叫びが聞こえてきた。
「冗談だろ!?」
咄嗟に振り向いたジャックが目にしたのは、トロール。片目が潰れていたり、ところどころに傷を負っていたりはするが、先程とは別の個体が──二頭居た。
「これじゃ例え僕一人でも逃げられない。いっそ丁度良いんじゃないかな!」
エリックは絶望的とも言える状況を前に、けれど高らかに言い放った。
「お前この短期間で本当に強くなったな!?」
「トロールが二頭同時に現れたのは、実は好都合だしね!」
ジャックからの驚きの声も何のその。ゴブリンとの会敵を除き、エリックは理想通りの状況に近付いていることを素直に喜んでいた。
「ジャック、何が何でもトロール二頭を足止めして欲しい! 一分で良いから!」
返事を聞く前に、エリックは前方のゴブリン達に向かって駆け出した。集中を高め、未だ練習中の魔法を思い描く。
『ライズ──』
今現在の実力以上の力を発揮しようとしている反動か、頭を殴られたような痛みがエリックを襲う。だがそれでも、この後行う無茶よりは軽い。それを踏まえ、彼は押し進む。
『──Ⅱ!』
火属性中級補助魔法、ライズⅡ。その効果内容はⅠと変わらず、主に筋力を強化するものだ。魔法使いが使用する場合は基本的に味方に付与するものであり、自身に付与する場合はほとんどが緊急時。それは何故か。
強化されるのが作用・反作用の作用の方にのみプラスの補正を与えるSTRではなく、実際の筋力そのものだからだ。
「……ッ、ああああ!」
エリックには、全身の骨が軋む音が聞こえる気がした。それを塗り潰すように自ら叫び、立ち止まりそうな身体に活を入れる。
初級魔法のライズⅠを、初級剣士が受けるのは普通のことだ。緊急時には初級魔法使いなどの後衛職が受けることもあるだろう。だが、中級魔法のライズⅡは中級剣士などが受けることを想定されているものだ。それを、初級魔法使いが受けている。その非常識の代償は、そのまま彼に降りかかった。
一歩踏み出すごとに、足の骨が砕けるのではないか。そんな懸念を抱かせる激痛を無視して、エリックは前進する。向かう先に居るのは、先程までのふざけた雰囲気を何処かに置き忘れたゴブリン達。
長杖が水平に振るわれる。それは振るった者の肩が外れるのではないかという勢いで、複数のゴブリンがまとめて吹き飛ばされた。
その光景を、呆然と眺めていた者が居る。ジャックだった。
彼とて知っている。火の補助魔法は、受ける側の肉体が相応に鍛えられていて初めてデメリット無しに効果を発揮するものだと。初級魔法使いが不相応にも中級魔法に手を出し、あまつさえ自身に使用するなど、正気の沙汰では無いと。
故に、ジャックは、
「来いやトロール共! オレが相手してやらああああ!」
吼えた。一頭でも自身より格上の相手に、二頭まとめて。言葉が通じなくとも、烈火の如く燃え盛る戦意は雄弁に語っていた。
挑発を受けたトロール二頭は額に血管を浮かび上がらせて、唾を飛ばしながら駆け出す。不遜にも戦いを挑んできた、自分達よりもずっと小さな存在に向けて。
ジャックが思い浮かべるのは、何度も観戦した【黒疾風】と【鋼刃】の試合。五つ星冒険者同士の、いっそ観戦料を取っても文句を言われないのではなかろうかと思われる試合だ。
異常なまでの高速移動から繰り出される、四方八方からの怒涛の連撃。それを受ける【鋼刃】は、どのように剣を扱っていたか。どのように立ち回っていたか。
静かに息を吐く。迫り来る二頭の脅威を視界に収めながら、滾る戦意を研ぎ澄ます。ジャックの集中は今急速に、かつて無い程の高まりを見せていた。
僅かに先を行っていた片方のトロールが、ジャックの脳天に向けて棍棒を振り下ろす。ジャックはこれを、半身になって立ち位置をずらしつつ斜めに構えた剣で受ける。
踏ん張りの利かないジャックの右足が悲鳴を上げ、それをジャックは聞き入れる。受けた力に沿って体勢を傾け、左足を軸に回転運動へ移行する。
続けて迫る二頭目のトロールが棍棒を水平に振るうが、姿勢を落としたジャックが辛うじて避ける。そのまま二、三歩前進し、トロール二頭の脇を過ぎ去る。
「何だよ。冷静に対処すりゃ意外と弱いんだな、お前ら。スギサキと比べりゃ欠伸が出るほど遅せぇし」
今のジャックは表情を無にしていたが、そこに余裕を感じたトロールは更に怒りを覚えた。棍棒の振り下ろし、横薙ぎ。それらばかりを二頭共が繰り返し、その全てにジャックは対処していく。
ジャックが挑むのは接近戦。それも、自身の剣がギリギリ使える程度の距離を詰めて。トロールの大きな棍棒が十全に機能しない距離を保ち、可能な限り一頭がもう一頭の影に隠れるような位置取りを心掛ける。
許容可能な足への負荷を無意識に考え、計算し、或いは妥協し。反撃の余裕が全く無い現状を耐える。
けれど、先の挑発によって単調化されていたトロールの攻撃は徐々に冷静さを取り戻し、元来の荒さのみになってきた。それに伴ってジャックの身体には擦過傷や打ち身が増えていき、次第に動きも悪くなっていく。
「がァ───ッ!」
そしてついに攻撃をいなせず、辛うじて剣で受けることには成功したものの、ジャックの身体が棍棒によって吹き飛ばされる。
どさり、背中から地面に叩き付けられる音が聞こえてから、静寂が訪れた。先程までの剣と棍棒が打ち鳴らしていた音を含め、全て止んだ。
二頭のトロールは舌なめずりをしながら、肩に棍棒を担いでジャックににじり寄る。仰向けに倒れたジャックは動かず、呻き声を漏らすのみ。
とうとう、片方のトロールの棍棒が届く位置にまで距離を詰められた。距離を詰めたトロールは、高らかに棍棒を振り上げる。もう一頭は一歩後ろに立ち、にやけた顔でそれを眺めている。
「残念だったな。……オレ達の、勝ちだ」
口元で緩やかに弧を描くジャックが、トロールの背後で長杖を構えるエリックを視界内に入れながら宣言した。
『ジ・フレイム!』
エリックの杖から放たれたのは、火属性中級攻撃魔法。基本形は火の球体だが、この瞬間に行使されたそれは熱線と表現すべき鋭さを持っていて。後ろでにやけ面を晒していた個体の首を貫通し、その先で棍棒を振り上げていた個体の後頭部を炸裂させた。
二頭のトロールが受けた傷はどちらも致命傷。どしゃどしゃ、と二頭分の死体が倒れる音が遅れて聞こえた。死体が浮かべた表情は死の直前と変わらず勝利を確信したままで、行使された魔法は実に速やかに敵を葬ったことが分かる。
エリックと戦っていたゴブリン達はと言えば、揃って緑の肉片と化していた。無理な身体強化の無茶苦茶な威力で乱暴に殴られた結果としては、当然のものだっただろう。
その処理を終えたエリックが真っ先にしたのは、隠れることだった。トロール達の意識が完全にジャックへと向かうことを期待し、事実そうなった。元々注意力が散漫な魔物であるので、視界内から消えれば逃げたと判断するだろうという希望的観測だったが、賭けに出なければどの道勝算も無かった。
後は、二頭の死角からまとめて急所を貫く魔法を構築すれば良い。中級の魔物としてはVITが低いので、中級攻撃魔法の出力を絞れば仕留めるだけの威力はあると見込んで。そしてそれも、事実そうなった。
結果を見れば出来過ぎなくらいだったが、二人ともとっくに限界を迎えている。特にエリックは全身の骨に罅が入っているし、背伸びに背伸びを重ねた中級魔法の連続行使で脳味噌が沸騰しそうだった。
トロールが倒れたときと似た、しかしそれよりも小さな音が、森の中に響く。エリックが倒れた音だった。
「エリック、生きてるか……?」
むしろ声の主こそが死にそうな調子で、そんな問い掛けが行われた。
「そっくりそのまま、返すよ……。生きてるよね、ジャック……?」
とはいえ返答も死にそうな調子で、周囲に魔物の死体が複数転がっていることもあり、このまま死体が二つ増えてもおかしくはなさそうだった。
「死んでたら、喋れねぇだろ……」
「まるでゾンビみたいな声だし、本当に生きてるか、疑わしくて……」
「今のお前の声も、大概ゾンビみてぇだからな……!」
二人のゾンビモドキが醜い口論をしている。
「あー、けど、やったなオレら……」
「そうだね。もう一度やれって言われたら……遠慮するけど」
しかし口論はすぐ終わり、自分達が成し遂げたことを語り合い始めた。
「二つ星に上がったばっかの剣士と魔法使いが、たった二人でゴブリンの群れとトロール二頭を、撃退どころか討伐だぜ……? やべぇなオイ。まあ、八割くらいはお前の手柄だけどよ」
「いいや、手柄は半々だよ。後衛が敵二頭の急所を同時に撃ち抜ける状況なんて、並の壁役じゃ偶然だって作れない。ジャックは僕の成長を褒めてくれるけど、僕はジャックの成長が驚きだよ」
そう、エリックの成長こそ顕著ではあるが、ジャックとて成長しなかった訳ではない。今回の件では一つの壁を越えたと言えるだろう。
「でもこの状況、あんまり呑気に喜んでもいられないんだよね……」
「ここで襲われたら、ひとたまりもねぇな」
縁起でもない、とエリックは思ったが、心底同意してしまったのも事実だ。
現在の二人は満身創痍で、ここからの戦闘行為など自殺行為と同義だった。ジャックは立ち上がって歩くのもやっとであるし、エリックに至っては誰かに支えて貰っても歩けるか怪しいところ。
「一応、気休め程度だけど魔物避けのお香を持ってきてるから、それを使っておくよ。ゴブリンくらいの魔物だったら近付いて来ようとはしないはず」
エリックは腰にあるポーチに手を伸ばし、あまり力の入らない手で目的の物を取り出す。円錐形の黄色いお香と、火をつけるためのマッチだった。
腕自体の重さでぷるぷる震える手にマッチを持ち、何度目かの失敗の後に着火成功。円錐の先端部分に火をつけて、自身から少し離れた地面にそれを置く。
「用意が良いな。じゃあ、そろそろ気絶して良いか? もう限界なんだよ」
「僕だって限界だよ。襲われたら逃げられもしないし、素直に休む。次また目覚められるかは、もう賭けるしかない」
二人の会話はそれで終了し、沈黙が訪れる。風もほとんど吹かない中、数分後にようやく聞こえ始めたのは二人の寝息だけだった。
ずず、ずず、と。重い何かが地面と擦れる音が聞こえる。音はそれだけではなく、湿り気を帯びた吐息もあった。
次第に近付いていく音に、まず気が付いたのはエリックだった。身体中が痛く重く、到底熟睡など望めない状況だったこともあるだろう。
少しだけ回復した体力を消費して何とか上体を起こし、周囲を見渡す。日は落ち、月明かりが淡く照らすのみの視界は良好とは言い難く、音の発生源に目を向けてもその正体は判然としない。
「ジャック。起きて、ジャック」
這いずるようにジャックの元へ行き、寝息を立てる彼を起こす。
「あ……? 何だよ、何か──、何の音だ?」
何かあったか、というジャックの問いは口から発せられるまでもなく、自身の耳に届く音により霧散した。反射的に剣を握り、けれど随分歪んでしまったそれは酷く頼りなく思えてしまう。
じっと目を凝らして音源を辿っていると、徐々にその正体が露わになる。それは、まだ周囲に転がっている死体二つと同じ形をしていた。不恰好な匍匐前進で、怒りの形相を浮かべた──トロールだった。エリックが脛に火魔法を見舞ったあの個体だ。
「冗談だろ……。なあ、エリック。魔法は?」
「……MPだけは少し回復したけど、日中の無茶が過ぎた。初級魔法だってぎりぎり撃てるかどうかだよ」
接近速度は非常に遅い。亀のような、という比喩表現を使っても良い。だが、移動などすれば数メートルで息切れを起こしてしまう状態にある者からすれば、確実に移動し続ける相手のなんと速いことか。
「回復ポーションも尽きてるし、どうするよこの状況……?」
せめてもの足掻きとして、二人もナメクジのような遅さで距離を取ろうとする。しかしすぐに動悸が激しくなり、エリックが動きを止めた。
「……できるだけ至近距離から、何が何でも魔法を発動させてぶつけるよ。頭にぶつけて気絶させるくらいはできるかも知れない」
「オーケー、じゃあオレはそれをサポートしねぇとな」
ふらふらと倒れそうになりながら、ジャックが何とか立ち上がる。きっと生まれたての小鹿はこんな様子だろう。杖にできる剣があるだけマシかと思うが、これからそれを振るわなければならない状況を考えると、むしろ条件が厳しいか。
「かかって来やがれ、この──!」
精一杯の虚勢を張って、ジャックが吼えた。が、それは唐突に聞こえてきた風の音で掻き消される。
「はい、お休み」
黒髪黒目に黒い皮鎧、そして何より黒い両手剣。本人としてはいっそ突き抜けてしまえと、半ばヤケクソになって統一した黒一色。
闇夜にあって尚深いその黒はこの場にやって来るなり、行き掛けの駄賃のように至極あっさりとトロールの首を刈った。
「良いタイミングで到着したようで何よりだ。これで何とかアンヌにも良い報告ができる」
仕留めたトロールには最早何の興味も無いようで、穏やかな笑みを二人に向ける。
「エリックもジャックも、本当にお疲れ様。もう大丈夫だ」
【黒疾風】ことリク・スギサキは、こうして二人の救助に間に合った。
人に肩透かしを食らわせる系主人公。