4.終わること
大人になりたかった。
自分はあまりにも、子供だったのに。
ふと、律の足元に猫がやって来ました。少女の膝にいた、真っ黒な猫です。猫は、律の脚に顔を摺り寄せます。それがくすぐったくて、でも気持ち良くて、律は思わず笑ってしまいます。しゃがんで頭を撫でると、気持ち良さそうな顔をします。
「ねえ、律ちゃん」
少女が猫の様子を優しく眺めながら、律に話しかけます。
「尚人君は、怒ってなんかいないよ。公園にいたのも、君を待っているのも、尚人君の勝手。彼のお母さんもそれを分かっているから」
「違う。勝手は……」
続きが言えません。
言え。言え。――ちゃんと言え!
「もう、良いんだよ。――もう、自分を許して良いんだよ。だから、我儘になったって良いんだ」
降り注ぐ、少女の声が、律の中に沁みわたっていきます。
「良いんだよ、律ちゃん」
その言葉が皮切りとなったようでした。俯いたままの律から、涙が零れました。泣きながら、呟くように言いました。今まで口に出すことも出来なくて、誤魔化し続けてきたことを。
「違う。勝手は、俺なんだ。あいつの隣に居たくなくて、逃げたのに……」
片手を頭の上に置かれたまま、真っ黒な猫が律を見上げます。律は、猫の顔を見ると、涙を零しながら、猫に、というよりは、まるで独り言を言うかのように呟きました。
「逢いたい……」
堰が切れました。
「逢いたい。尚に、逢いたい……! 本当は隣に居たかった。来いって言ってくれて、嬉しかった……。だから、逢いに行きたかった。でも……!」
あの日の女の子たち。彼女達が言ったこと。鵜呑みには、律もしませんでしたが、否定も出来なかったのです。
――自分が尚の負担になっているかも知れない。
ある時、ふと思った、その不安は消えることなく、律の心の中に残り続けました。
そんなことはないと、見ないようにしてきたのに。それなのに、あの日、突き付けられた。自分の知らない可愛い女の子と歩く尚。本当は、尚はああいう子と一緒にいた方が良いのではないか。自分みたいに苦労かけてばっかりの奴なんかより、よっぽど。
――いや、そうじゃない。本当は。
「羨ましかったんだ。可愛い女の子と歩いてる尚が。何だか随分、先を一人で歩いていってるみたいでさ。俺独り、置いてかれてるようで。……だから、追いつきたかった。いつか、隣に立っても釣り合うように。今、隣にいたら、あの子と比べられるんじゃないかって……。――馬鹿みたいだろう?」
子供じみた悔しさ。それを何と呼ぶのか、律は未だ知りません。
首を振って続けます。「いや、実際馬鹿だったんだ。どうしようもなくな。意地を張って……会わないって。それで迷って、迷って。その結果……!」
律は泣き崩れました。猫の頭にあった手がもう片方の手とともに、その顔を覆います。
「遅すぎた。遅すぎたんだ……事故に遭ったのは、そのせい。だから、俺は決めたんだ。背伸びするのは止めるって。それで何も起こらないのなら……」
「そうだね。止めるべきだね」
少女が、突然口を挟みました。律はびっくりして、顔を上げます。
「背伸びなんかしなくて良い。律ちゃんは律ちゃんで良いんだよ。他の子みたいになるよりも、よっぽどそっちの方が大事なんだ」
てっきり、責められると思っていた律は、呆気に取られた顔をしていました。少女は、そんな律を見て、微笑み、はっきりとした口調で、告げます。
「尚人君が、それを一番思ってる。だから、あの日、律ちゃんに「これ」をあげようとした」
少女が、握りしめていた右の手の中にあったものは――。
「キーホルダー……?」
あの日。尚人が着けていた、律がねだったあのキーホルダー。
でも、同じものではありません。
「え……? 虹の色……?」石の色、数が違うのです。尚人のは五つ。目の前にあるのは。
「そう。これがどういう意味か。――律ちゃんなら解るよね?」
――尚人。
一旦は止まっていた涙が、再び、律の両目から溢れ出します。
――律は律のままで。
――尚人。尚人、ごめん。今解った。お前のこと。
泣きながら、律は理解します。今、すべきことを。
「家に帰る」
涙で視界が滲みながらも、少女が微笑み、はっきりと頷いたのが、律には見えた気がしました。
そして、律は走りました。今度は迷いもありません。ただ、真っ直ぐに前を見て走りました。
少女の声が、その背中に聞こえた気がしました。
「頑張って」
少女とはそれっきりでした。
――今、行くよ。尚人。
律は、扉の前で呼吸を整えていました。ちょっと、大変な勇気が必要でした。
でも、もう律は、逃げるのを止めました。
「自分」から、逃げることを。
「彼女」の名前、出そうと思っていたのに、出せず仕舞いになってしまった。
主人公の名前さえろくに出してないから、まあいいか。
やっと、次回で尚人が出て来るし。