白い球体
上空に浮かぶ白い球体が太陽ではないと気づいたのは、意識が戻ってから数秒後のことだった。
大地の揺れを感じ、薄く眼を開けると、真上に浮かぶ球が視界に飛び込んできたのだ。脳が覚醒するにつれ、異常な状況に置かれているということをボクは知った。
パニックに陥るな、と自分に言い聞かせる。ボクの名は雅地。二十六歳、書店員。専門学校で知り合った同じ歳の彼女がいる。よし、大丈夫、頭は正常だ。
では何故、異様で気味の悪いこんな場所に倒れていたのだ?
どこまでも続く灰色の天井と障害物のない平坦な空間。白くて硬い床が途切れることなくずっと、はるか彼方まで、広がっている。
「優里!」
上体を上げ、彼女の名前を叫んでみる。声は反射することなく消えて行った。もう一度ためしてみるが同じことだった。
落ちつけ。風の流れはない。ということは、おそらくここは屋内。軍事施設やら研究所やらに閉じ込められている可能性がある。記憶をたどれ。ここへ連れてこられる直前の記憶を探れ。何があった?……どうしたことか、その部分だけ霧に覆われている。
そうか、記憶を操作されたんだ。ならば思い出せないのも無理はない。
白いシャツに黒のスラックス、皮靴、正装しているということは、出勤前か帰宅途中に拉致されたのだ。
そのとき何があった……ダメだ、どうしても思い出せない……。
「おい! ここから出してくれ。いったい何が目的だ」
しかし、願いを込めた声は、大気中に溶けて行くだけだった。
同僚がボクの失踪に気づいて捜索ねがいを出しているだろうか。優里が捜してくれているだろうか。両親とは離れて暮らしているが、親の勘とか虫の知らせなどが働いて異変に気づいてくれているだろうか。
途方に暮れて見上げると、白い球体は変わらぬ位置、姿で、空間に描かれた絵画のように浮いていた。いったいあれはなんだ? 十数メートルほど上空で寸分の狂いもなくその位置をキープしている。ボーリングの玉よりも少し小さいくらいか。熱も光も発していない。ただ静かに、そしてひっそりと、浮いているだけ。
ボクは靴を脱ぎ上に向かって放り投げた。しかし、期待を一身に背負った靴は鋭利な弧を描いて戻ってくるだけだった。
無理だと判断したボクは靴を履き直し、大きく深呼吸し、周囲をぐるりと見回した。
「理由はわからないが、こんな目にあわせたことを後悔させてやる。待っていろよ」
そう言い残してボクは現状を打破するために歩き出した。
コツコツと、かかとが床を叩く音だけが響いている。温度と湿度は心地よいくらいだが、ゴールの見えないことが、ボクにイヤな汗をかかせる。
どこまで行っても変わらない景色。空港などにある動く歩道を逆に進んでいるのではないのかと疑い、立ち止まるが床が動いている感触、様子はない。
持ち物を調べてみる。ポケットには何も入っていない。携帯電話でも残っていればと思ったが徒労に終わった。
壁が見えないといっても進んで行けば、いずれは端に到達するはずだ。ボクは長期戦を想定して心を備えた。這入ったのなら出られるということ、かならず出入り口がある。その確信を胸に、ボクは歩き続けた。
しかし、行けども、行けども、変化は訪れない。だけどボクはこの先にかならず壁がある、と信じ、歩を進めた。
「お~い」「誰かいないか?」「干からびた~♪大根が~♪」「ここから出たらかならず訴えてやるからな!」「……」「なんでも言うことを聞くから出してくれ!」「ボクが悪かったよ。許してくれ」「……」「殺してやる!」「………………」
太ももとふくらはぎの筋肉が痙攣し、骨に激痛が走り、足裏の肉刺がつぶれ、ついにボクは前のめりになって転倒してしまった。
肩を強打し、歯を食いしばりながら仰向けになる。落ちつこうと深呼吸するが効果は見られない。鼓動のたびに痛みが全身を駆け巡る。
あきらめるな、まだ行ける。さあ立て、立ってここから脱出し、優里と再会するんだ。両親を安心させるんだ。
上半身を上げる。しかしそのとき、ボクはある物に眼を奪われ、全身のチカラが抜けおち、再び、上体を倒した。
真上に浮かぶ球体を見たからだ。
そう……真上なのだ!
太陽や月じゃないんだ、ここは室内なのだ、なのに何故、後方に移動していない?
危惧していた通り実は床が動いていてボクは眼を覚ました場所から一歩も移動していないのか? あり得ない! しかし、では何故、真上にあるんだ。
くそ、こうやってボクが苦しむのを見て……ん? そうか、なるほど、見ているんだ!
ボクはゆっくりと立ち上がり、白い球をにらんだ。
「わかったぞ、球体は監視装置だな。ははは。そうやってボクを苦しむさまを見ながら笑っているといい。今に見ていろ。そのにやけた顔に一発おみまいしてやるからな。待っていろよ!」
怒りというエネルギーを身に宿し、再び歩き出そうとしたが、最初の一歩が出なかった。
方角を見失ったのだ。
流れ落ちた汗、靴底の痕跡などを探すが床には汚れひとつない。
まあいい、戻ることになっても、その倍を歩けばかならず壁にたどり着くのだから。
ボクは上空に中指を突き立て、歩きだした。
球体の位置が変わらない。追ってくる。怒りが込み上げてくる。ボクが何をしたというんだ。普通に働き、普通に恋愛し、せこせこと貯蓄していずれは豪華なマンションを購入し憂里と暮らすぞ、と計画を立てていた。そんなボクが何故、狙われてしまったのだ。知らずに組織の秘密に触れてしまったのだろうか。だとしても、こういう状況に置かれる意味がわからない。だから真相はこうだ、とボクは気づいた。
拉致対象は誰でもよかったのだ。
舌うちして顔を戻したとき、ボクは足を止めた。それもそのはず、はるか遠くから、何者かがやってくるのだから。
ここだ! と声を上げそうになるのをこらえ、手をさげる。無警戒に歓喜する訳にはいかなかった。罠の可能性があるからだ。しかし、心が躍る。表情筋が笑顔を浮かべようとする。喜びは確かに、ボクの内にあるのだから。
相手が女性だと認識できたのは、それから数分後のことだった。
彼女は小走りで駆けてきたが、ある距離を置いてピタリと歩を止め、じりじりと距離を詰めたり、取ったりを繰り返していたからだ。
向こうも警戒している? いや、そう思わせて油断を誘う魂胆なのかもしれない。
にらみ合いが続いた。三十代前半だろうか。黒い髪を後ろでとめ、女性らしさを持った優しそうな顔をしている、が、その外見もまた警戒しなければならない。
こう着状態が数分間つづいたが、このままでは埒が明かない。とにかく罠であろうとなかろうと、まずは相手の反応を見よう。
「すみません、目覚めたらここに居たんです。どうやら無理やり連れてこられたみたいで、なにか知っていますか?」
女性がびくんと跳びはねた。しばらく左右を見回していたが、誰にともなくこくりと頷いたあと、彼女はゆっくりと近づいてきた。
数メートル先で歩を止め、おそるおそる、といった感じで質問してきた。
「あなたは、神様ですか?」
え? 突拍子のないセリフにボクは返事を詰まらせた。
「ああ……」彼女が後ずさる。「やっぱり悪魔なのですね。どうか……どうかお願いします。ワタシをここから出して下さい」
「いや、ボクは雅地といって、えっと、人間で、あなたと同じ被害者です」
「……すると、あれが、神様ですか?」そう言って、真上を指さした。女性はここを死後の世界だと思っているのだろう。突飛な発言に驚いて気づかなかったけれど、なんだろう、彼女と出会ってからボクの内でくすぶっている……この得体の知れない、濃霧は……。
真広、三十二歳の銀行員。ボクと同様、拉致直前の記憶はないという。グリーンのプリントTシャツにデニムのショートパンツというラフな格好だ。身の上話を一通り済ませたあと、ボクはずっと気になっていたことを質問した。
「上に、球体があるんですか?」
「ええ」そう答えて真広が顔を上げる。「白い球が、ずっとついてまわるんです」「どこにあるんですか?」「ちょうど……真上です」
これだ。彼女のいう球体が見えないのだ。見えるのはボクの上に浮いている物だけ。つまり、球体を指す場合、彼女は《真上》とは表現しないのだ。
真広は逆に、ボクの上にある球体が見えないという。
光学迷彩という言葉をマンガやゲームや映画などで見たことがある。背後の風景を前面に画像として投影したり、周囲の光をエナメルのように透過させたり迂回させて視認できなくさせるのだ。日本やアメリカ、イギリスで研究、開発が進められているが、完成にはまだ時間がかかるという。しかし実は、完成まで最終段階に差し掛かっていて、ボクたちが実験に利用されているとすればどうだ。すべてのつじつまが合う。
だからボクは空にむかって叫ぶ。
「実験は成功だ。光学迷彩は完成されている。ボクには彼女の球体が見えない。彼女もまたボクの上にある球が見えない。どうだ、満足しただろ? 実験は完全なる、大成功だよ」
☆
「ねえ、へんだと思わない?」
真広がそう言ったのは話のネタが尽き、言葉を交わさなくなり、変化の訪れない世界にいいかげん辟易していたころだった。ボクたちは少し距離を置いて腰を下ろしていた。
一瞬だけ球体に視線を投げ、それからすぐに戻し、「何がへんなの?」と返した。
「お腹が……すかないのよ……」
そう言われて初めて気づいた。眼を覚ましてからずいぶん経つはずなのに、空腹感をおぼえていないのだ。それだけではない。眠気も、やってこない。肉体が求めるエネルギー補給、脳が求める欲求がないということは、もしかしてボクたちは……。
「そんなはずはない!」
自分自身に叫んだつもりだったが、真広が怯えるのがわかった。でもボクはかまわず続けた。
「痛みを感じるし、疲労もしている。死んでなんかいない。非日常的な環境におかれて空腹を忘れているだけだ」
真広が顔を伏せて黙りこんだ。ボクは正論を言っているはずだ、なのになんだこの罪悪感。ボクは慌てて手を振った。
「真広さんを責めている訳じゃないよ。ボクたちをこんな目に合わせているヤツらが憎いんだ。いや、まあ……ごめんなさい」
いい訳をしても仕方がない。この世界には、ボクと真広さんしかいないのだ。仲良く、そして手を取り合って、脱出方法を見つけ出さなければならない。
だけどなんだこれは、心を覆う《濃霧》が、じわじわと拡大している。黒よりもくろく、闇よりもふかい……霧……。禍々しい気をはらんでいる。身を委ねると、たちまち連れて行かれそうな恐怖を感じた。
「ワタシこそ、ごめんなさい」
眼を細め、うつむく真広。その言葉で我に返ったボクは、彼女を落ちつかせるように優しく言った。
「少し休んで、頭を冷やそう。それから、脱出する方法をいっしょに見つけよう」
「ありがとう」
出会ってから初めて、彼女が、朝焼けのような表情を浮かべた。
☆
霧を懸命にかき分けるが、指の間からこぼれ出て、ボクの視界を奪う。それを避けるために駆け出したが、霧自身がまるで意思でも持っているかのように、しつように追いかけてくる。必死に手足を動かした。しかし霧の腕がボクの首を、ボクの髪の毛を、ボクの肩を足を全身を、ふんわりと、そしてしっかりと、捕えた。
バランスを崩して転倒するが、地面に激突することはなかった。驚いたことに、ボクの身体はそのまま宙に浮いていたのだ。それからぐるりと、仰向けにさせられた。
上空の視界がひらけ、白い球体が、蜃気楼のように姿を現す。
『何故、そこに居る?』
どこからか声が響いてきた。きょろきょろと首を動かすが、あたりは霧に覆われていて何も見えない。
『何故、自分の人生を犠牲にしている?』
ボクの眼が、眼球が、球体に吸いつけられた。
間違いない。言葉を発したのは、あの白い球体だ! ついに頭がおかしくなってしまったのか? ボクの名は雅地。優里という恋人がいる。大丈夫だ。ならば、実際に球体が言葉を発しているのだ。そこで真広のセリフがよみがえる。
《あれが、神様ですか?》
首を大きく振る。
「なんでもいいからここから出してくれ!」
『何故、質問に答えない。お前は狂っているのか?』
狂っているかだって? 冗談じゃない。
「気がついたら変な場所に連れて来られていたんだ。興奮して当たり前じゃないか」
『何故、怒っている?』
怒っているかだって? 無理やりだぞ。誰だって怒る!
「閉じ込められているんだぞ。ボクは今すぐ家に帰りたい!」
そのとき、変化が生じた。全身を覆う霧が流動し、ボクの眼、鼻、口にまとわりついてきたのだ。何をする気だ。お前は監視装置ではないのか? 真広の言う通り大いなる存在なのか? いや、そのどれでもない。
ボクは、ひとつの可能性にたどり着いた。
「ここに……連れ、てきたのは……」粘り気を帯びた霧の粒子が口の中に侵入し、舌の上を這い、言葉をうまく発することが出来ない。「お前、なのか?」
白い球体が震動したように感じた。いや、見間違いではない。確かに、小刻みに揺れている。
『何故、狂っている?』
「狂ってなんか、いない!」
『何故、狂っている?』
「変なことを言うな。ボクは雅地、仕事にもちゃんとついているし、貯蓄もしている。狂っているだと? 法に触れるようなことはしたことがない。まっとうに生きている。それを狂っているだと? 人付き合いもうまくいっているし、上司にも気に入られているし憂里にも愛されている。ボクが狂っているだと? 狂ってしまってこういう世界を見ているというのか? そんなバカな! こうやって霧に包まれて苦しんでいるのもボクの頭のせいなのかいいやそうじゃないこれは現実だお前も現実だ霧も現実だ球体もお前だお前が現実だ狂っているだとああそうさボクは狂っているんだよははっははは」
☆
自分が発した絶叫で眼を覚ました。すると、真広がボクの首を絞めているではないか!申し訳なさそうに眉を寄せている。これも夢の続きなのか、と疑ったが、そうじゃない。太い血管が彼女の腕に浮き上がっていて、ぐいぐいとボクの首に、指が、めり込んでくる。
本気でボクを殺そうとしている。これは現実だ!
彼女の頬をはたき、ボクは苦しみから解放された。
かはっ、うく、はあああ。もれる息の隙間から、いったいどうして、と質問した。
「違うの」真広が首を振りながら否定した。「ワタシはただ命令されただけなの」
「ふざけるな。命令されたからって殺そうとするか?」
真広が、以前見せたように、指を上に向けた。
思わず顎を上げてしまった。それを待っていたかのように真広が襲いかかってきた。ボクの耳にかみつく。鼓膜の奥にミリミリビジビジと音を響かせながら、何かが引きちぎれるのを感じた。そのあとすぐに爆発する激痛。ボクは悲鳴を上げずにはいられなかった。
「お腹は空いていないのよ。おいしい。あなたの首を絞めているとき、心の中に漂っていた霧が晴れて行くのを感じたわ。だから、ね? おかわり」
真広がぎょうざのような形状の赤い物体を口にぶら下げながら四つん這いになり、再び飛び掛かってきた。空中で彼女の身体をキャッチして、そのまま身をひねり床に叩きつけた。真広の頭蓋から神経に触る音が響いた。
刹那、体内に充満していた濃霧が、晴れた。それと同時に霧の正体がわかった。そのときだった。
「彼女を殺したのは、君かね?」
いつの間にか、背後に中年の男性が眉間にしわを寄せながら立っていた。拉致された人は、他にも居たのだ。
「なんてことをしでかしたんだ。これじゃあ、外に出られても君は自由にはなれない」事故だ、と答えると、「それはこちらで調べる。しかし、今度は君か……」と返してきた。
この男は警官だ、と悟った。次の瞬間、ボクは彼の首をしめていた。
静寂が訪れたとき、白い球体を見上げた。惨劇などなかったかのように、静かに、浮かんでいる。
「わかったぞ。実験……それが、目的だったんだな。新薬か何かを投与され、お前たちはその経過を観察している。教えてやるよ。副作用は、殺意だ。全身を駆け巡る殺意。それは霧となって身体中の臓物、神経にまとわりついている。だが、まだ晴れない。いたるところにこびりついている。待っていろ。ここから脱出する方法を、ボクはついに発見した」
拉致された被害者たちは、他にもいっぱい居た。老人、青年、少女、ボクは次々と殺していった。最後の中年女性などは、死体の山に座するボクを見て、失禁し、全身を震わせ、大声で命乞いをしていた。
中年女性を山の頂上に積み終わったとき、ボクの視線の先には白い球体があった。球だと思っていたけど、ぜんぜん違った。
浮いていたのは、人間の脳だったのだ。
機械でも装置でもカメラでもなく、白子のような脳みそが、ずっとボクを監視していたのだ。現実から幻想へ、ボクは落ちて行った。
朦朧とする意識の中、眼の前に浮かぶ脳に、触れた。
☆
…………さい…………は、ユーリー……目覚めて……。
優里? 彼女がボクを呼んでいる。そうだよ、こんなバカげた現実なんてあるものか。
「おはよう、優里」そう言いながら眼を開けた。「変な夢を見ていたよ。白い球体が浮いている部屋に――」そこでボクの言葉が止まった。
眼前に広がる大宇宙。
左右の計器類やパネルがチカチカと点滅している。電流の振動、短い電子音が鼓膜を刺激し、ここが操縦席だとボクは知った。
「お目覚めですか? はじめまして、体調管理、データ処理、航行制御のすべてを任されている、ヒューリーと申します」セクシーな女性の声だった。「ヒューリーだと、どこにいる?」「眼の前でございます」「……コンピューター……か?」
返事はなかったが、それを肯定だとボクは判断した。まあそんなことはどうでもいい。先ほどから気になっているのは、ボクが、座席に固定されているということだ。手足はもちろんのこと全身を分厚いベルトで縛られ、身動きひとつ取れない状態だった。
「なんだこれは?」「あなたの安全のためでございます」「あなたという呼び方はやめろ。雅地という名前がある」「マサジ……それが、あなたの名前ですか。かしこまりました、これからは雅地さまとお呼びします」
今のやりとりで、ある疑問が湧いてきた。だからボクは質問を続ける。
「いつからボクはここにいるんだ?」「ほんの、数秒前でございます」
「これは、どんな、プロジェクトだ?」
「新・恒星間飛行実験、プロジェクト・ヒューリーでございます」
「質問を変える」額から汗があふれてきた。「ボクはいつからこの船にいる?」頼む、ボクの推理が間違っていてくれ。
「先ほども申しましたとおり、ほんの、数秒前でございます」
あああ! ボクは暴れた。肩が少し動くだけで、拘束からのがれることは出来ない。身体を抑えつけるベルトはその目的を遂行している。
「脳波に異常が見られます。大丈夫ですか、雅地さま?」
「優里! 優里! 助けてくれ。頼む、返事をしてくれ」
「優里とは雅地という人格に植え込まれた、架空の人物でございます」
次の瞬間、前方のスクリーンが暗転し、さまざまな映像が流れ出した。それらは一枚の絵であり短い動画の連なりだった。大荒れの海。しずくを浮かべたアサガオ。割れた陶芸品。燃える建物。画面いっぱいの中年男性の顔。溜まる血。鳥の死骸に群がるウジ。大泣きする幼児。
めまいがしてきた。不安の渦に呑み込まれそうになり、自分が自分でなくなっていく。
ふと映像が止まった。前方スクリーンが元の冷たい宇宙空間に戻った。
「プロジェクトの発端はこうでした。冷凍睡眠装置に大きな欠陥が発見されたのです」ヒューリーが諭すように言う。「冷凍睡眠時に投与される精神薬の副作用。それは、人格を破壊するものでした。肉体と魂と精神、これらが三位一体となって初めて生命と言えるのですが、《精神》が持たなかったのです。悠久の夢の中で、崩壊して行きました。そこで考え出されたのがこのプロジェクトなのです」
「専門的なことはいい。つまり、人格を入れ替えながら、宙間航行を行っているというのか? だからボクは、《生まれて間もない》ということなのか!」
「その通りでございます」ヒューリーの言葉は、どこか寂しげだった。「先ほどの映像を延々と流し、強制的に無数の人格を作り出し、その人格同士を精神世界で競わせるのです。そうして生き残った人格が、雅地さま、あなたのように、表に現れるのです。《争い》……が極めて重要な事案で、これがあるからこそ、デオキシリボ核酸の構造が書き換えられ、肉体、細胞が生まれ変わり、新しい生命を得ることが可能となるのです」
「不可能だ! 完全に別人になるなんて」「新薬の開発の成功によって実現したのです」
「ボクはもともと、どんな人間だったのだ?」「天夜 静琉という七歳の少女です」
視線を落とし自分の身体を調べる。しかし、少女とは到底かけ離れている。
しかし、信じるしかない。こんなウソをつく理由が見つからないからだ。
「ちなみに、雅地さまは三百六十五人目の人格でございます」
深呼吸し、心臓の鼓動を沈める。しばらくして、落ちつきを取り戻した。
ボクは今、『雅地』なのだ。これ以上人格を創られなければ、ずっとボクのままでいられる。それでいいじゃないか。だからボクはヒューリーに命令する。
「プロジェクト・ヒューリーは成功だ。今すぐ、地球に帰還しろ」
「ご安心を。その予定でございます。ごらんください。左下に見える星が、地球です」
青い惑星を眼にし、自然と微笑がもれてくる。心の底から喜ぶことは出来ないけれど、これが今のボクにとって、最善の、未来だからだ。
ふいに、宇宙船が揺れた。背後から氷のような物体がすごい勢いで追い越して行き、すぐに小さくなって目視できなくなった。かなり近かった。その重力の影響を受けたようだ。「あれはなんだ?」
「わかりません……が、分析してみますと、結晶化しておりますが、元は液体のようです。それらが地球にぞくぞくと降り立っております」
見ると地球の表面で無数のキノコ雲が上がっている。
侵略、という言葉が脳裏によぎった。助けに行くぞ。急げ。とボクはヒューリーに指示を出した。
しかし地球が、スクリーンから消えた。
「どうしたんだ?」「帰還命令が発令されません。プロジェクト・ヒューリーを続行します」「当たり前だろ、向こうはそれどころじゃないんだ。すぐに地球へ戻れ、ボクも戦う。その結果、殺されるようなことになっても、大地の上で死ねるのならば悔いはない」
船首が完全に、地球と逆の方向にむいた。配線系統のトラブルか。コンピューターの変調か。長旅で故障したのか。しかしこのとき、ボクはヒューリーの正体を悟った。
ヒューリーは人格を持っているように感じるが、無限ともいえるデータを開き、ボクの言葉に瞬時に対応しているだけなのだ。
そう……ただのコンピュータ。
「ご心配には及びません。私が守ります。《あなた》は永遠に、生き続けるのです」
ボクは背もたれに首をあずけ、眼を閉じた。
瞼の裏に、白い球体が浮かんでいる。
完
映画、『アイデンティティー』との出会いに感謝を込めて。