見守っているよ
怒号。雄叫び。歓声。
どう表現したらいいかわからないような騒音の中、私は目を覚ました。
煌煌と焚かれた照明が私の視界を奪う。眩しい。目を細めて光を防ぎ、同時に辺りの様子を伺う。ここはどこだ。私は何をしているのだ。
光に慣れた私の目に、最初に飛び込んできたのは、おびただしいほどの「人」だった。女もいるが、大半は男だ。皆、何かに取り憑かれたように叫び、拳を振り上げている。喧嘩かなにかかと思ったがどうやら違うらしい。人々は皆、何かに向かって言葉を発しているようだった。いけ、とか、頑張れ、という声が聞こえることから、おそらく誰かを応援しているのだろう。
もしかして、ここは野球場だろうか。私は観客席にいて、野球の試合を見ているのだろうか。
しかし、すぐにそうではないと悟った。野球についてはよく知らないが、ああいったものは普通、屋外、または天井が開け放たれたような場所で行われるのが一般的なのではないか。だがここは屋内だ。天井もあるし、人々が発する熱気も篭っている。それに、私はこの空間の中心部分にあるものを、はっきりと認識した。
それはリングだった。赤と青のコーナーにレフリー、にらみ合う二人の若者。そんな彼らを取り囲み、熱い声援を送る人々。
ボクシングだ。私は、ボクシングの試合会場にいるのだ。
なぜだ、なぜ私はこんなところにいるんだ。こんなところに来た覚えなどない。それなのに、どうして私は……私は……。
私は、誰だ?
思い出せない。なんだ。どういうことだ。私は誰だ。何者だ。なぜ思い出せない。なぜ忘れている。一体どうしたというのだ。何が起きている、何が……。
とりあえずここを出よう。外に出れば、今何が起きているのか、少しは分かるかもしれない。そう思って、私は出口へ向かおうとした。ところが……。
体が動かない。足も、手も、微動だにしない。どんなに力を入れても、見えない力で縛り付けられているかの様に、全く身動きができない。なんとか首だけは動くが、他の部分は、私の意思に対してまったく反応してくれなかった。誰か、助けてくれ。そう叫ぼうとしたが、なんと声も出ない。別に、猿轡をされている様子はない。ただ、声そのものを失ってしまったかのように、喉からは掠れ声一つ、漏れ出ることはなかった。
おかしい。私はどうしてしまったというのだ。なぜこんな場所で、記憶を失い、体を動かせない状況の中、ボクシングなんか観戦している。一体私の身に、何が起きているのだ。
いや、考えていても仕方がない。とりあえず首は動かせるのだから、辺りの状況を確認しよう。何か、今の状況を打破するものが見つかるかもしれない。
私はどうやら、観客席のかなり外側にいるらしい。中央にリング、それを取り囲むようにして、観客席が段々畑のように外側へと広がっているから、ここはかなり高い位置にある。リングを見下ろす形なので、試合の様子がはっきり分かる。
リングに立っているのは、二人の若い男だ。赤いパンツと青いパンツなので見分けやすい。赤いパンツのほうは外国人のようだった。身長も体格も、両者共にかなりデカい。特に赤いほうは、見ている者にさえ強烈な威圧感を与えるような筋肉の付け方をしている。
一方、青いパンツの男はどうやら日本人のようだった。ある程度筋肉はついているようだが、それでも赤いパンツと比べるとやや華奢に見える。もちろん階級は同じなのだから大きな差はないだろうし、体格だけですべてが決まるわけでもないだろうが、少し頼りなさそうだ。
いけーーーー!島田ーーーーーーーー!
隣の男が叫ぶ。どうやら、青いパンツは島田という選手らしい。なぜか、どこかで聞いたことがあるような気がした。
その時、場内にゴングの音が鳴り響いた。歓声は一際大きくなり、二人の選手は、相手を威嚇しながら互いに近づいていく。緊迫した空気が流れ始める。
最初に攻撃を繰り出したのは、島田と呼ばれた選手だった。不意をつこうとしたのか、かなり突拍子のないジャブだ。だがさすがはプロだ。正確に、そして勢い良く、相手の顔面を捉えた、ように見えた。
しかし相手の男は、それをやすやすとかわし、そのままくるりと体制を変え、島田の背後をとろうとする。巨体に似合わない、実に俊敏な身のこなしだった。島田のほうも体を反転させ、改めて相手と向き合う形となる。しばらくステップを踏みながら、相手の出方を窺い合っていた。
行動に移したのは、今度は相手の男だった。無駄のない動きで、島田に左フックを放つ。一方島田は、それを防ごうとブロッキングの構えに入る。
罠だ。私は瞬時にそう判断した。左フックはフェイントだ。右からボディーブローが飛んでくるぞ!
私の考え通り、相手の男は左フックの勢いを止め、かわりに右から、空いたボディに向かって殴り掛かってきた。しかし島田もそれは予期していたのか、後方へ跳ね、それをかわす。小さい分、やはり小回りが利くようだ。その辺りを駆使して望めば、島田にも勝利が掴めるのではないか。そう思った。
ふと、試合に夢中になっている自分に気づき、動揺した。
何をしているのだ。呑気にボクシングの観戦などしている場合ではないだろう。私がなぜここにいるのか、そして何者なのか。それを解明出来るような手がかりを……いや、私は、もしかしたらボクシングファンなのか。試合に熱中しながら、頭の中では冷静に試合を分析していたとなると、かなりボクシングに詳しいのではないか。もしかしたら、トレーナーのような仕事に就いていたのかもしれない。
島田が動いた。小さなジャブと右ストレートを畳み掛けるように放っていく。ジャブ、ワン、ツーとリズミカルな攻撃に対し、相手の男はブロッキングをしながら、島田の隙を窺っているように見えた。
気をつけろよ。絶対に、隙を見せるな。だが……。
一瞬、島田の右ストレートがほんの少しだけ外側にぶれた。そのせいで、拳の到達が遅れる。相手の男は、その隙を見逃さなかった。
相手の男の上半身が沈む。放たれた右ストレートは相手の男の頭上を通り過ぎて行き場をなくし、島田の右サイドはがら空になる。相手の男の丸太のような腕が、島田の腹めがけて飛んでいく。先ほどとは逆の左ボディーブローだ。しかし今度は、島田はそれを避けられる状況ではない。伸びきった右腕を戻そうとするが、時既に遅し。
強烈な一撃が、島田の腹に直撃する。ドスッ、という鈍い音が、ここまで聞こえてくるようだった。
あまりの衝撃に、島田数歩後退する。相手から距離をとるためだ。しかし、相手の男はそれを許さない。今がチャンスとばかりに、すさまじいパンチを島田に浴びせかける。ダメージが残っているのか、ずいぶんとおざなりなディフェンスだ。なんとか顔を守っているという状況で、その足取りさえ、若干おぼつかないものになっていた。ボディーへのダメージはじわじわと効いてくる。もう、長期戦は臨めないかもしれない。
そこへ、ゴングが鳴った。第一ラウンド終了だ。鬼の形相でパンチを繰り出していた相手の男もその手を止め、自分のコーナーへ戻っていく。なんとか助かった。島田の顔にはそんな感情が浮かび上がっていた。
島田はマウスピースを外し、ペットボトルの水を浴びた。リングの外から声をかけてくるコーチに返答しながら、その右手は腹部を庇っているように見えた。やはり、相当なダメージだったのだろう。腹部へのダメージはフットワークを重くする。俊敏さが武器だと思っていたが、果たしてどう出るのか……。
しかし、相手の男の出方を予想したり、ボディーブローやフェイントの判断が瞬時に出来ると言うことは、やはり私はボクシング好きだったのだろう。未だに、自分のことはまったく思い出せないが。
「島田、いけそうかな」
後方から、試合の行方を心配する声が上がった。若い男の声だった。
「いやぁ、正直厳しいだろうな。かなり押されてる」
別の声が聞こえる。どうやら友人と話しているようだ。
「やっぱ、引きずってんのかな」
「だろうな。でも、勝ってほしいよ。何せ、勝ったら世界チャンピオンだもんな」
……なに?
今、世界チャンピオンと言ったか? だとしたら、これはまさか……。
世界王者のベルトを賭けた、タイトルマッチということか!?
若者の話から推測すれば、島田のほうが挑戦者で、相手の外人のほうが現世界チャンピオンなのだろう。階級は分からないが、体格から言ってスーパーフェザーか、もしくはライト級。両階級の現チャンピオンの名前はなんといったか……思い出せない。
今まで、同じ日本人だからと言う理由でなんとなく島田のほうを応援していたが、チャンピオンベルトが懸っているとなれば、もっと真剣に応援しなければ。といっても、体は動かないし声も出ない。本当に、私は一体何をしているのだろうか。
自分の名前も、何者なのかも、なぜここにいるのかも分からない。本当ならもっと危機感に苛まれてもいいはずだが、不思議と、あまり悲観的な気分にならなかった。自分の正体がわからないことからくる不安が、この試合に熱中することでかき消されているのだ。自分でもどうしてこの試合にのめり込んでいるのか分からない。しかし、目を離すことが出来ない。この試合の行方をしっかりと見届けたい。そう思った。
再びゴングが鳴る。第二ラウンドだ。
序盤は相手の動きを慎重に見ていたチャンピオンは、ゴングと同時に島田に猛攻を仕掛けてきた。守りを捨てたような攻撃だったが、先ほどのダメージが効いているのか、島田はなかなか反撃出来ずにいた。丸太のような腕が繰り返し襲ってくるのだ。防御するだけで精一杯なのだろう。
だが、島田もさすがのフットワークを見せていた。ものすごいスピードのパンチを、無駄のない動きでかわしていく。それに、ブロッキングの技術もかなり高い。下手なブロッキングだと、防いだとしてもパンチの威力でKOされてしまうこともある。だが、島田は確実に相手のパンチを止めている。この分だと、もしかしたら相手の男のほうが先にバテるかもしれない。そうなれば、まだ島田にも勝機がある。
相手もそう思ったのか、攻撃の手を一旦緩め、島田と距離をとるために後方へ下がった。島田もそれを追いかけるようなことはしなかった。無駄に飛びかかってカウンターを受けてしまうことを考えたら、懸命な判断だったかもしれない。俺もそう思った。しかし、次の瞬間……。
チャンピオンが、いきなり島田との距離を詰めた。大きな一歩で相手の懐に飛び込むような、大胆な接近だった。慌てた島田は後方へ飛ぶも、あまりの早さに上手く反応出来なかったのか、相手にいとも容易く追跡されてしまう。チャンピオンはそのまま、右腕を引いて、左足を踏み出してきた。右ストレートが飛んでくると判断した島田は、咄嗟に両腕をあげて顔を庇う。だがチャンピオンは、右腕を伸ばすことなく、そのまま膝を曲げ、右腕のフォームを修正し、上体をかがめる。顔を覆うようにして防御してしまった島田は、その一連の動作に上手く対応出来なかった。視界が悪くなったからだ。異変に気づいた時にはもう遅い。相手の男の右腕が、下方から一気に突き上げられる。
ガッ。
島田の顔面が天を仰いだ。グローブが顎にめり込んでいる。
突き上げられた右腕は、島田の顎に直撃した。見事な右アッパーだった。強烈な一撃であったことはこの場にいる誰もが理解した。終わった。そう思った人間も、少なくなかったはずだ。
島田は仰向けに倒れ込んだ。無理もない。骨まで砕くようなアッパーだった。あんなものが顎に直撃したのだ。倒れないほうがどうかしている。
チャンピオン戦で緊張もあったのだろう。きっといつもの調子も出ていなかったのだろう。なに、これが最後ではない。また次、頑張ればいい。よくやった。本当に、よくやった。島田は立派だ。凄い選手だ。いつか、いつかチャンピオンを倒してくれる。だから、今日はもういい。
この場にいるほとんどの人間が、そう考えたのではないか。会場全体に、まるで「敗者」を讃えるような空気が流れ始めた。この一瞬で。島田が倒れた瞬間、誰もが、ファンでさえも、諦めた。
ふざけんな。
まだ試合は終わっちゃいない。レフリーが十数えるまで、試合は終わらない。立て。ダウンしたっていい。もう一度立ち上がれ。立って、相手の男に一発かましてやれ。男だろ、ボクサーだろ、チャンピオンになるんだろ。負けたくないだろう! 勝ちたいだろう! そのために、今まで頑張ってきたんだろ!
立て! 島田!
声がでないことがもどかしい。この声が届かないことがもどかしい。諦めた観客の態度がもどかしい。もどかしい、もどかしい。立ってくれ、島田。まだやれる。お前なら、お前なら、まだ、やれる。
レフリーが四つを数えたそのときだった。
ふらふらとした足取りで、島田が立ち上がった。頼りないが、確かにその二本の足で、立ち上がった。そしてその目は、相手の男を捉えていた。まさに執念。眼力だけで相手を怯ますような、そんな目だった。
歓声は起きなかった。全ての観客が、息を呑んだ。
いけ、島田。
レフリーの合図の後、突如、島田は相手の男に飛びかかった。最後の力を振り絞るように、大きく右腕を引き、ストレートの構えに入る。しかし、ストレートを打つ前に相手に反応され、体制を変えられてしまう。あまりのスピードに、相手の男もカウンターを打とうとは思わなかったらしい。島田にとっては幸運だった。
両者は再びにらみ合う。チャンピオンの目にも、すでに獲物を狩る肉食獣の魂が宿っている。果たして、起死回生なるか、それとも……。
チャンピオンが動いた。ジャブとストレートを織り交ぜながら、島田に襲いかかる。またもや防戦となった島田だが、さきほどとは目の色が違う。相手の隙を窺っている目だ。ブロッキングとバックステップ。それらを上手く使い、相手の攻撃を避け続ける。しかしそれでは先ほどと変わらない。何か、相手を惑わす技が必要だ。何か、何か……。
突如、チャンピオンの左ストレートが横に逸れた。一瞬、何が起こったのか分からなかった。見えない壁のようなものが、島田を守った。そんな風に見えた。
その正体は、なんてことはない、ただのパアリングだった。相手のパンチを内側に反らす技だ。ディフェンスの基本中の基本。だが、これまでブロッキングとバックステップのみで防御していた島田のパアリングは、上手い具合に相手の意表をついた。
パアリングが決まれば、反撃の隙も生まれる。ここを逃すわけにはいかない。島田の左手が動く。左フックだ。お前の拳を、チャンピオンの顔面に叩き込め!
……ちょっと待て。この状況、さっきも。
そうだ、立場は逆だった。チャンピオンが、島田に一度、左フックをお見舞い、しようとした。しかしそれはフェイクで、ボディーブローを決めるための布石だった。まさか、島田……。
島田の右腕が僅かに動く。やはりそうだ。やつは左フックと見せかけて、右ボディーブロー、または右アッパーを繰り出そうとしている。しかしダメだ。それは相手も読んでいる。二人の頭には、先ほどの状況が頭に描き出されているはずだ。きっとチャンピオンは、左フックがフェイクだと読み切る。その証拠に、チャンピオンの視線が、一瞬だけ島田の右手に注がれた。
下手な小細工をするな。そのまま左フックを打つんだ。相手はもう、右ボディーブローをかわした後の反撃にまで考えを巡らせているはずだ。そのまま、そのままだ! そのまま打つんだ! 左フックだ! 思い切り、相手の顔面をぶん殴るんだ!
「そのまま打てぇ! 良輔ぇ!!」
声が、出た。ような気がした。いや、俺の声かもしれないし、近くの誰かが叫んだ声だったかもしれない。良輔? 良輔とは、誰だ。島田の下の名前か? いや、そんなことはどうでもいい。今の叫び、島田に届いただろうか……。
島田の左フックが、チャンピオンの右頬に直撃した。はいった、はいった! 島田はボディーを狙わずに、そのまま左フックを放った。チャンピオンの体が大きくぐらつく。だが、倒れ込むほどではない。ここしかない。もう一発だ。もう一発、打ち込め!
私の思いに呼応するように、島田は右腕を引き、ストレートの構えに入る。対して、チャンピオンも体勢を崩しながらもガードに入る。右腕が伸びる。いけ、はいれ、当たれ!
「いけえぇぇぇ! 良輔ぇぇぇ!」
ガッ!
チャンピオンの顔面が歪む。左頬にめり込んだ拳。そしてその勢いのまま、チャンピオンの体が、後方に吹っ飛んだ。まるでスローモーションの映像を見ているかのように、その光景は、はっきりと、私の目に飛び込んで、そして焼き付けた。響くカウント。レフリーが十を数えたそのとき、会場に、割れんばかりの歓声が響き渡った。
勝った。勝った! 勝った!!
チャンピオンベルトを掲げ、肩車される島田。満面の笑みだ。その笑顔を見て、私は本当に嬉しく思った。良かった。本当に良かった。
なのに、なぜだが心が苦しい。何かが心臓を締め付けるような、そんな息苦しさを感じた。
「島田選手! おめでとうございます! 今のお気持ちを聞かせてください!」
興奮したような声が、マイクを通して会場に響き渡った。テレビかなにかのインタビュアーだろう。
「本当にうれしいです……本当に……」
「いい試合だったと思います。今回のタイトルマッチ、島田選手は棄権するかとも言われていましたが、あのような辛い出来事の直後、リングに立とうと思ったのは、どのような心境だったのですか?」
「……父は、いや、俺の親父は、ボクシング命でした。きっと天国で、今日の試合を楽しみにしてくれている。そう考えたら、リングに立たないわけにはいきませんでした」
頭の中がスパークした。今まで忘れていたことが、洪水のように脳内に溢れた。そうか……俺は……。
「皆さんもご存知の通り、親父は三日前、心臓発作でこの世を去りました。親父は、ずっとこの試合を楽しみにしていました。思い切りやって来いと、背中を押してくれました。今日も、実は試合中、親父の声が聞こえたんです。良輔、いけ、そのまま打て、って。今日勝つことができたのは、親父のおかげです。このチャンピオンベルトは、親父からの、最後のプレゼントなんだと思います」
そうだ、はっきりと思い出した。良輔は、良輔は私の……私の……。
そのとき、私の頭に、冷たくて暖かい何かが落ちてきた。
それは、私の遺影を抱えた妻の、目からこぼれた涙だった。