彼が彼女に救われた、過去の日のこと
今も、眩しいほど鮮やかに、覚えている。
あんたの、声も、言葉も
体温も、笑みも、涙も
その全てを。
泣きたくなるほど、満たされていた優しくて甘い瞬間を
忘れられない。
その全てを失ってしまっても。
その全てが嘘だったとしても。
だって、あの瞬間。
たしかに、俺はあんたに救われていたのだから。
壊れた俺を、彼女は
余りにもあっけなく、ひとつ残らず、攫うように救っていった。
そうして、俺の全てを持ったまま、彼女はいなくなってしまったから
だから、この世界に救いなどありえない。
初めて引き合わされた時に、彼女に抱いたのは、苛立ちだった。
純白の聖女衣装に身を包んだ、金髪蒼眼の幼ささえ目立つ少女。
彼女は****様だ。聖女なのだと、嘲笑とともに奴隷商が言った。
おどおどと、怯えるように、彼女は立っていた。
「あ、あの、よろしく、おねがい、します」
“名乗る”気すら、ないのか。
綺麗な服を着て、食うものにも困らず、絶望すら知らずのうのうと生きているのだろう
甘くて綺麗な少女の全てに、どうしようもないほど、苛立った。
心を壊したときから、楽しいとか、悲しいとか、そんな情も忘れて
餓えも、屈辱も、痛みさえも、どうだって良くて
希望も絶望も、自由も、
だって、全ての欲求など、とうになくして
けれど、ただ、苛立ちだけがあった。
醜いものが嫌いだった。
綺麗なものが嫌いだった
温かいものが嫌いだった
人が嫌いだった
神が嫌いだった
自らが嫌いだった
嫌悪の目が、嘲笑の笑い声が、希望も、絶望も
その、世界の、すべてが
苛立って、たまらなかった。
その全てを、ぶつけるように、彼女の小さな体に喚き散らした。
少女は、驚いて、悲しんで、それでも、耳を塞ごうとはしなかった。
反吐が出るような罵倒を、彼女は理解しようとした。
聖女は、当然の様に世話を焼いた。
時が経つにつれ、最初に感じた印象が間違っていたことに気づく
ゆるやかに、真綿で締め付けるように、彼女は追い詰められていた。
通された彼女の部屋には、およそ人間らしさがなかった。
年頃の装飾も、嗜好品も何もない。置かれているのはベットと机。
それから、部屋中を侵食するように、本や書類が埋め尽くされていた。
使えない聖女になら、どんな扱いをしてもいいと、奴らは思っているらしい。
なにもできないんだから、このくらい、というような言葉を
慇懃な敬語で、彼女に言いつづけた。
彼女は、泣き出しそうな顔をして、
それでも俺の顔を見ると、赤が滲んだ目をしながらも笑った。
彼女は、あの世界で、本当にひとりきりだった。
人は、彼女に落胆の目を隠さなかったし
神は、軽蔑を隠すこともなかった。
中には、彼女を憐れみ力になろうとした神も、存在したけれど
彼女は、この世界に自分を連れてきた神全てに、ひどく怖がっていて
なにを言われようと、会おうとさえしなかった。
聖女であるはずの彼女は、けれど。
世界に押しつぶされて、怯えて一人で蹲り、殻に閉じこもっている
ただの、怖がりで、非力な、脆く幼い少女でしかなかった。
彼女は、くじかれて、潰されて、それでも
歪むことなく、綺麗なままだった。
それがひどく、苛立たしくて、さらに喧嘩をした。
綺麗事ばかりを言う彼女を否定した。
――おまえ、が......、ぽつりと彼女は何度もつぶやいた。
続けようとして泣き出しそうに、口をつぐんだ。
聞き出そうとしても、首を振ってなんでもないと頑なに話そうとしなかった。
そんな日常が変わったのは、ある出来事がきっかけだった。
ぎぃ、と隣の扉が軋んだのを、獣人特有の鋭い聴力が聞き取った。
それと共に、部屋に数人の人が入ってく気配を感じた。
隣は、彼女の部屋だった
どうしようか、と珍しく逡巡した。
使えない聖女を、疎む連中だろうと予想が簡単についた。
このまま放っておけば、非力な彼女は殺される。
今までも、リストは、そうしてきた、
自分にまで襲いかかってくる場合でない限り
戦うつもりなど、なかった。
いつもと同じこと。
だから構うものか。なんの関係もない。
あの女が死のうが、リストは何一つ変わらない。
奴隷館に戻り、またほかの客に売られるだけだ
だから。
それに
それ、に、もしも、
隣の部屋に、戦いに行ったとして。
血にまみれて人を殺した俺の姿を彼女は、
どんな、目で、みるだろう。
怖がりで、怯えてばかりの彼女は
綺麗で、綺麗事ばかり言う彼女は、やっぱり
怯えるだろうか
嫌悪するだろうか
泣く、だろうか
当然のように差し伸べられた、あの白い手は
安心しきったように微笑むあの笑みは
すくなくとも、向けられなくなるのだろうな、と思った。
ああ、でも、そうか
彼女が死ねば、向けられなくなるどころか――。
ひっ、とかすれた悲鳴が上がった。
彼女が目覚めたことを理解した。
狼の形をした耳には、一枚の壁はあまりに薄い。
隣の部屋で起きたことを、克明に伝えてくる。
動くつもりはない。
だって、彼女だけ対応を変えてしまえば、もう戻れなくなる。
彼女を、特別と認めてしまえば、
彼女が、居なくなったとき、おれ、は、
「や、だっ、助けっ……――っ」
彼女は、泣き出しそうに絶句した。
呼ぶ名前が見つからない、というように
「ぁ……りす、と……」
震えて、今にも掻き消えてしまいそうなほど、小さな声で
彼女は囁いた。助けを求めるというより、どこか祈るように
たったひとつ、そのなまえを
聞こえた瞬間、体は勝手に動いていた。
扉を蹴り倒して、一番近くにいた男の喉を掻き切った。
男が持っていた剣を奪って、切り殺した。
剣を捨てて、殴り殺して、噛みちぎった。
気がつけば、周りは血の海だった。
ぜえぜえと自分の喘鳴がひどくうっとおしい。
こちらの負傷は打撲を切り傷、肋が何本かいった程度。
武器を持った大人相手にしてはうまくやったほうだろう。
視界を部屋の隅に向ける。
彼女が、怯えてうずくまっていた
彼女の瞳に、怯えを見つけて、自嘲した。
この期に及んで、なにか期待でもしていたのだろうか
踵を返して、自分の部屋へ歩き始める。
その時くん、と手を引かれ、立ち止まった。
「あっ、けが、怪我はっ、痛いところ、は」
彼女の問いに、これくらいなんでもない、と答えた声が、少しだけ震えていて、
震えながら傷口に触れる彼女の、指、に
なんだか、無性に泣きたくなった
「ごめん、なさっ、わ、わたし、のせい……でっ!」
よろよろと、視界を死体に向け、彼女は唇を噛んだ。
「なんで、人を、殺しちゃっ……だめ、かって、聞いたよね?
あ、あのね、私はっ、
人を、殺しちゃ、ったら、もう、取り返しがつかない、からだと、思うの
その人の、思いも、時間も未来も、絆、も
なにもかも、ぜんぶ、全部奪ってしまって
もう、返してあげられないの、何一つもとどおりにならないの
どんなに、悪い人でも、いつか更生して、幸せになるかもしれなかった
いつかの未来になるかもしれなかった、その可能性も、
その人に向けられた思いも、全部。
誰かを殺したら、全部背負わなくちゃ、いけないの
本人が、気づかなくっても、後悔しなくっても
それは、恐ろしくて、重たくて、いたくて、苦しくて、辛いよ
どんなに下ろしたくっても、許されたくっても
だって、もう、なかったことにはできないんだから
返してあげることは、できないんだから
贖罪なんて、気休めでしか、ないんだから
それ、は、それはすごくすごく、怖いことだよ
人は、そんな重さに、耐え切れないよ
少しずつ、心を蝕んで、いつかは重みに押しつぶされちゃうの
気づかなくっても、後悔してないと思っても、
どんな形であろうとも、いつか、きっと
だから、だから、人を殺しちゃ、ダメなの」
それを聞いて、ようやく背負っていた重みに気がついた。
今までずっと、心を殺し続けてきたもの。その正体。
だけど、そんなのは
「いまさら、どうしろっていうんだ、
あんたは殺さないで、死ねば良かったっていうのか――」
「違う!ちがう、ちがうの
そうじゃ、なくて、
私は、人の命が平等なんて、思わない。だって、そんなこと痛いくらい知ってる。
私は、この人たちの命より、自分のが大事、で
自分が苦しいから、リストが、苦しそうにしてるからで
だから、人を殺しちゃだめ、なんて、私が言っても綺麗事でしかなくて
ダメだなんて言いながら、私は
おまえが、生きてここにいてくれることに、感謝してる、
どれだけ、その過程に人を殺してたとしても。
きっとこれからも、おまえに、誰を殺しても、生きていて欲しいって
おまえの苦しみも、重さも理解せず、自分勝手にそう願っているの
だか、ら、
おまえが、私のものだっていうなら
その重みも、私のものでもあるから
だから、おまえの罪と罰の半分を、私も背負いたい
それで、赦されるわけじゃないけど
なんの足しにもならないかもしれないけど
でも、ひとりじゃないなら
きっと、生きていけるから
きっと歩いていけるから
だか、ら
ねえ、私と
一緒にいてほしい」
――おまえが、一緒にいてくれたらいいのに
何度も何度も、希うように繰り返して
彼女がいつも飲み込み続けた言葉を、理解した。
つたない言葉で紡がれる声が
血に塗れた、穢れたリストの手を包む、震えた指が
彼女から伝わる体温が
血を洗い流していく、透明な雫が
こみ上げる苛烈な感情に、眩暈がする。
息が詰まって、喉が焼けるように熱を持った。気がつけば泣いていた。
縋るように、彼女の手を取った。
「おれが……、俺が、あんたを、守る。
人から、神から、世界から、全てから
あんたが傷つかないように
泣かないで、いられるように
歩いていける、ように
あんたを、一人にはしない。
俺の光」
――だから、
だから、と続きがなんなのか、
その感情の名前も、理解しないまま
彼女の手を、望んだ。
彼女と逢うために、生きてきたというなら
痛みも、苦痛も、屈辱も、飢えも、全てが報われた。
彼女のちいさな手に、震える言葉に、こぼれる涙に
余りに呆気なく、ひとつ残らず、攫うように救われた。
そのときは、気付けなかったけれど、
気づいたのは、彼女を失ったあとだったけれど
俺は、初めから彼女に惹かれていた。
綺麗なものが、暖かいものが、希望が嫌いなのは、苛立つのは
俺には、手に入らないから、だ。手がとどかないから。
全てを、諦めていると思っていた俺は、その実、
きっと、何も諦めきれてなどいなかった。
その時は、なにも理解していなかった。
もしも、わかっていれば、何かが変わったのだろうか