逃げ出した先の平穏
ばし、と目の前の机を叩かれて、浸っていた回想から、意識が浮上した。
立っていたのは、妙齢のやけに艷めいた女だ。綺麗な金髪が光を反射して輝いた
ぼんやりとしながらも、薬品をいじっていたことに気づいた
「ねえ、あたしの話、聞いてないわよね?アカネ」
「ああ、いや、すまないね。
ぼうっとしていた。だが、聞いてはいたさ
きちんと薬が効いたようで何よりだよ」
む、と口をすぼめて、どこか不満そうに
聞いているならいいんだけど、というようなことを呟いた
「本当に悪かったよ。ここに来るまでのことをふと思い出してしまって」
申し訳なさから、言い訳めいたことで、彼女の意識を逸らせようとしてみた
ほんとうのことではあるのだけれど、
それを聞いた彼女は不満げな顔を一転して、心配そうにした。
しかし、彼女がその反応をすることを、私は知っていた。
思い通りになったことで僅かな罪悪感も感じはしたが、やはり彼女はいい人だと思う。
こんなにも、余裕がなかったにもかかわらず、死にかけた私を拾ってくれたのだから。
「ああ、そっか……、
ええと、あの、ごめんね……?」
彼女には何一つ話していない。けれども、傷だらけの躰を見れば何らかの事情があったことくらいは明白だろう。
「謝る必要などないよ、ヘレナ。死にかけていた私を助けてくれただけで、
何もかも十分だよ、むしろ事情を話せない私のほうが、心苦しいくらいさ。
こんなことで、返せるとも思わないけどね……」
あそこから私は、傷だらけの躰を引きずるようにして、逃げ出した
犯した罪から逃げ出したかっただけで、助かりたいとは思えなかった。
何の目的もなく夜通し歩き続けて、たった二日でぶっ倒れた。
そこを彼女、ヘレナに拾われたのだ。
ヘレナは娼婦だった。自らが生活をすることすら苦しい彼女は、なんのためらいもなく
私を家に住まわせた。返せる宛があるようにも見えなかったはずなのに
ぎこちない動きで手当をする彼女に、私は泣いてしまった。
その恩を返そうと、持っている知識を使って薬を作って、彼女を通して売った。
施しは嫌だという彼女に、家賃と食費の半分を払うことにした。
「何言ってんの、ここには事情なんか話せないやつばっかだよ。
それにね、あんたがいるおかげで私たちがどれだけ助かっているか
モニカも助けてもらったし、
こんなところでやってくれる薬屋なんていないからね」
ここは、娼婦や、獣人や、
そういった差別されるひとたちが身を寄せて暮らしている街だった。
利益になりづらい場所で、開業するひとは少ない。
現に私が薬師としてつけたのも、ここではそういった存在がいなかったからだ。
手頃な価格でよく効く、と評判になり、今では店を持つまでになった。
モニカ、というのは彼女の妹だ。ひどく体が弱く、病気がちだった。
モニカは、もともとある栄養素を作りづらい体だった。
それを薬で補完するかたちで、彼女の体を健康にまで持ち上げた。
「そう言ってくれると嬉しいね。
モニカは今日、聖女の役をやるんだったかな?
あの子はとても愛らしいから、よく似合うと思うよ」
今回は健康になった妹が祭りに出るのだが、ヘレナには、抜けられない仕事があった。
見に行ってあげたかった。と漏らしたヘレナに、私が仕事を代わる、と申し出た。
娼婦としてではなく、娼館の受付だけなのでかわりになるのかは、疑問ではあるが。
ただ、受付と合わせて、薬品調合、娼婦の診察もしているというと、
娼館からはひどく喜ばれたので、構わないだろう。
「ふふ、そうよ!あの子が聖女様の役をやれるなんて思わなかったわ、
モニカもまいあがっちゃって!可愛いったら!
でも、代わってもらって悪かったね、あんたもここに来て初めての祭りなのに、
モニカもあんたに来て欲しがってたよ」
「構わないよ、モニカには悪いが行けたとしても、行く気はなかったんだ。
……あまり、聖女は、好きではないから」
「……そ、っか。ならしょうがないね、
でも、聞いてよ!!もう神殿のやつらさあっ!
この間の悪い時期にあの女と来るみたいでさ!一時なんか中止になりかけたんだよ!?
結局神殿の奴らから隠れてやることになったけど!」
前々から要請はしてたけど!遅れに遅れてまさかこの時期になるなんて!!
そう叫んだヘレナは、肩で息をしていた。
知らず関せずを突き通している間に、いろいろ起きたらしい。
というか
「そもそも、なんで隠れてやるのかな?
聖女を崇める祭りなら、どこでやろうと推奨こそすれ、文句など言わないだろうさ」
奴らは今代の聖女が大好きだからね、喜んで支援してくれるのではないかな?
私が皮肉げにそう呟くと、ヘレナは盛大に顔をしかめた。
「はあ?何言ってんのよ、アカネ、もしかして知らないの?
あたしたちみたいなのが、聖女様っていったら、先代の、タカトオ様のことよ?」
ごほっ、と思わずむせた。大丈夫?そう声がかけられるが返事をしている場合ではない。
「はぁ?た、タカト……、先代の……?なんだってそんな」
「あら、ほんとに知らなかったの?こんだけ住んでりゃ普通気づくでしょうよ。
ていうかやめてよ、なんで今代なんか崇めなきゃならないの
とうとう娼婦を廃止にするとか言い出したわよ、あの女、頭お花畑なんじゃない?
そんなことするくらいだったら、盗賊どもをどうにかしなさいっての」
相当不満が溜まっていたようで、なかなかヘレナの言葉は止まらなかった。
そういえば、モニカの髪はヘレナとお揃いの綺麗な金髪だ。
今代の聖女は黒髪だったので、かつらでもかぶるのかと思っていた。
私に昔与えられた器の髪は金髪だった、モニカと年格好も若干似ている気もする。
「そんな疑問におもうことではないと思うけどな、
まあ、まだちょっとは迫害されるし、最近すこし悪くなってきたけど、
あたしたちとか、獣人の奴らがここまで普通に生きていけるようになったのは、
全部、タカトオ様のお陰だもの、感謝くらいするわよ」
微笑んで囁いた彼女を見て、私は胸が痛んだのを感じた。
だって、そんなことを言ってもらえる資格などない。
私は逃げ続けることを選んだ。罪からも、使命からも、
力がないと、理由をつけて、結局は彼女たちを見捨てているのと変わらない。
どこまで、卑怯なのかと、自らを詰りながらも、
私は――、
けれど、私は、それを知られるのも怖いのだ。
軽蔑され、見放されることが恐ろしくてたまらない。
すがった手を振り払われる恐怖を、私は忘れられない。
震えた指に力を入れる、動揺を押し隠すように、話をそらす、
「そういうものかな?ところで彼らが来るのは、穢神の退治のためだったよね?
よく彼ら、こんなところまできたね」
「あー、なんかね、慈悲深い聖女様がほうっておけないって仰ったおかげだって、
一番初めに穢神にした神たちの生き残りってのもあるみたいだけど、
神殿の奴ら、すごい押し付けがましい言い方してさ、腹たつったら。
そもそも倒せないなら、穢神になんかしなきゃいい話なのに!!」
いかにも同情しやすい相手を、彼女は好きだろう。
自分が、いい人に見えるから、慈悲深いのは、自分に余裕があるからだ。
自分より下だと思うからだ。
それが、悪いことだとは、言わない、でも
自覚くらいは、すべきだと、おもう。自覚ある偽善はそう悪いものでもないから
「そういえば、今回は勇者様も来てるらし……」
かしゃ、と硬質な割れた音が、鼓膜を打った。
それが、小瓶が割れた音だというのを、私は中身が溢れて足元が濡れてから気がついた。
つんと鼻をさす、眩暈がするような濃くてどこか甘い匂いがした。
お酒だ。しかもアルコール濃度のかなり高いそれ。
しまった、と思いながらも、私の脳裏を占めたのは、彼のことだった。
勇者の名が指すのは、たったひとり。
かつて、私の牙だったはずの彼。
リストが、ここに?
こみ上げる恐怖が、背筋をなぞって指を震わせた
いやだ、見られたく、ない。
「アカネっ!大丈夫?」
思考を遮るように、ヘレナが声をかけてきた。
不審げな声色はない。
思考に沈んでいたのは、たった一瞬だったようだと、胸をなでおろした。
「ああ、すまない、手元が狂ったようだ、
大丈夫だ、怪我はないよ、続けて?」
あたしも手伝うわよ、と言いながら、彼女もしゃがみ、二人でガラス片を集める。
聞きたくない。けれど、彼がここにいるのならば、聞かなくてはならない。
会わないためにも。
「勇者様も勇者様よね、タカトオ様についてた時はすばらしい人だと思ったのに。
今じゃ、あんな女にべったりで、ミツキ、なんて親密そうにして
結婚するかもしれないとか、そういう噂だってあるのよ?」
“ミツキ”、――美月は、今代の聖女の名前だ。
ああ、結局は、そういうことか。
彼は、私のことを、一度だって名前で呼んでくれたことはなかった。
聖女、と、だから彼にとって私は、聖女でしかなかったのだ。
流石に打ちのめされた。目の奥が熱くなる。
最後くらいは、名前を呼んで欲しいんだけどな、と囁いた言葉を思い出す。
前日の夜、そう頼んでも、彼は
彼、は……?
あれ?
“彼はなんて、答えたんだったかな?”
じわりと染み出した靄が記憶をぼやかしていく。
どうして、思い出せない。前までは断られたと分かっていたのに、
違う。そうだ、一度も、文言は思い出せたことがない。
なら、なのにどうして、“分かって”いたのか
そもそも、私は、彼に伝えられたのだろうか?
それすら危うくなって、足元がくずれていく感覚に、私は息を詰めた。
そうだ。きんいろの、めが、こちらを みていて、あれ、は
そう、なんだったのかな?
ああ、私は、それをたしかに知っているはず、で
「アカネ……?どうかした?」
ふ、と思考から切り離されて、意識がもどる。
それとともに掴みかけていたそれは、遠く離れていく。
自らの記憶に抱いた不信感が、波のように引いていった。
「ほんとに、大丈夫?
ごめん、ホントは聞きたくなかったのよね?」
「大丈夫だよ、すこし聞きたいんだけど。
彼ら、今はどこにいるのかな?」
ぱち、と瞬いて、彼女は苦笑いした。
「なるほど、アカネはそれが聞きたかったわけね?
問題ないわ、ここの街ではマシな向こうのほうよ
まあ、娼館へ説教には来るかもしれないけれど、でも
勇者様はそんなことまでしないだろうし、今代も来やしないわ」
「そう、それは幸いだね。
でも、もうこんな時間だよ、行ったほうがいいのではないのかな?」
あっ、と声を上げて、彼女は立ち上がった。
「ご、ごめん、あたしもう行くね?」
代わってくれてホントありがと!
そう口早に言って、彼女は、パタンとドアを閉めた。