彼女の空白のときについて
食事を済ませ、部屋に戻ったイヴの部屋が叩かれた。
小さい体は、まだ少し慣れない。
ぎこちなくドアノブを開いて、外にいる人を見た。
「アカネ?」
訪ねてきた茜は、小さく首を傾げた。
「話があるんだけど、いいかな?」
「あ、ああ、構わんが」
「ふうん、逢坂美月、高遠茜、朝比奈時雨……。
やっぱり全員、日本人なんだね」
聖女候補に挙げられた名前を聞いて、茜は首を傾げた。
「にほんじん……?」
「そう、ある国に住む人種の名前なのだけれど、
……なにか引っかかるね、歴代の聖女の名はほとんどといっていいほどに、
日本人の名前が連なっているよ。無作為というにはあまりに異様なことさ。
日本なんて、ちっぽけな島国だからね。
なにか理由が……、いや……
もしかしたら空間を開けられる場所が決まっているのかな……
今回の召喚の候補はそれだけかい?」
「ああ、候補はその三人だといっておったの、
それぞれ問題はあるものの、優秀な聖女らが揃った回だとも」
「そう、あの子が、ね」
少しだけ皮肉げに苦笑いした茜は、第一候補として選ばれたはずの
幼稚な少女を思った。
元々は、相応しかったはずの称号はあまりに似つかわしくない。
けれど、会いたくもない顔に会うだけの収穫はあった。と茜は安堵していた。
醜悪とまで言われていた“逢坂美月“は思っていたよりは、ずっとマシだった。
一蹴されるであろう忠告をしてやるくらいには、希望が持てた。
確かに、発想は幼稚で甘ったるいし。
元の世界と同じ対応が見合うほどに、この世界は成熟していないことすら
理解できないようだが
それでも、もともとの性根のまっすぐさが垣間見えた。
あの純粋さは、悪いものでは決してない。
少しの、けれど決定的なズレをただしてやることができれば、
彼女を、そのまま聖女として継続させることもできるかも知れない。
それが一番簡単で、最善の結末だろう。とも
それはきっとリストにとっても、最善だ。
ぎちりと胸がつぶれるような痛みを覚えたことに
茜は呆れ、自嘲する。そんな資格もないだろうに、と
「……アカネ?」
「あ、ううん、イヴ、なんでも……、いや、
……あのね、ママの……、
あちらにいる両親のことを思い出してしまってね」
思い出したのは今ではなく、先ほどのことだけど、
「できるだけ、思い出さないようにと思っていたのだけれど
思い出してしまってはダメだね。
少し、聞いてくれるかな」
私の家はね、とても平凡だったよ
ああ、あちらの世界の平凡だったから、随分恵まれていた自覚はあるけれどね。
両親は健在で、弟がいてね。仲は決して悪くなかったよ。
平穏な日々は当然のことで、なくなるなんて思ってもいなかった。
でも辛かったけれど、帰ることができるという希望があっただけ、
今から考えると私は、マシなほうだったのかもしれないね。
私は、精神だけで連れてこられたから
躯の方は空っぽのまま、脳死に近い植物状態だったらしいよ。
病院で目を覚まして、そのときは母が付き添ってくれていて
原因不明の睡眠障害で、どうやら回復は絶望的だと言われていたみたいでね。
奇跡が起こったと、異常なくらいの大騒ぎさ
私は私で、念願かなって還れたはずなのに
リストのことの喪失感に、泣きじゃくっていて
よくは覚えていないのだけれど、
でも、覚えている言葉があるんだ。
ありがとうございます、と、叫んでたよ。
私をきつくきつく抱きしめて、叫んでいた。
ありがとうございます。
神様、娘をかえしてくださって、
ありがとうございます、と
なんどもなんども、ね、あれほどに取り乱す母を見たのは初めてだったよ。
多分、彼と引き離されて、それでも立ち直れたのは家族がいたからだろうね
リハビリは辛かったけれど、それも含めてどうにかなった。
「まあ、それも二年だけだったのだけれど」
「可哀想にね、やっと帰ってきたと思ったら、
またすぐ居なくなったんだ
縁が薄いのだと思わないとやっていられないだろうね」
親不孝だと、罵られても仕方ないと思う。
けれど、茜は決めてしまったのだ。
もう、あの世界には還れない。還らない。
だから、できるだけ考えないようにしていた。
だって、そんなのは辛くなるだけだ。
もう戻らないものなのだから。
でも、どちらが酷だろう。と茜は問うた。
生死すらわからない状態と、還ってきたとして。
口すらきけない壊れ切った娘を直視するのは。
「眠り続けたのは別れの練習だったのだと。
どうかどうか、二度目は諦めて、いっそ忘れていてくれることを、希うよ」
――どうか、泣かないで、悲しまないで、傷つかないで、
還れなくて、ごめんなさい。
イヴは泣いていた。
声すらこぼさずに、泣くことすら罪悪だと責めるように唇を固く噛み締めて。
「泣かないで、こんな話を聞かせてごめんね」
ぶんぶんと頭を横に振る。
「ありがとう、聞いてくれて。
これが私の、“痛い”話
じゃあ、今度はイヴの番だよ」
「なに、を?」
「ほんとうは、私といるのは辛いんだろう?
彼のことを、想い出してしまうから。
だって、私の口調は、彼から影響を受けたもののはず。
話したことはないけれど、似ているはずだよ」
「そんな、こと、は」
「話してよ、彼のことを。
きっと、溜め込んでいるよりは楽になれると思う」
「じゃが、やつは、
もし、やつが、我を助けねば、アカネはもう少し楽じゃった
もし、ここにいるのが我でなければ
アカネは……っ」
「イヴが無事で良かった。生きていてくれて嬉しい。
クラウンが、もういないのはかなしいけれど
おまえたちを恨もうとは思わない。
私は私の勝手で。イヴをそばに居させてる。
だから、イヴが苦しいなら私が解決しなくちゃいけないと思う」
「それにね、私がイヴにとっても“痛い”話をしたんだから
イヴも、私にとって“痛い”話をしてもいいんだよ」
金色の、大きな瞳がこぼれ落ちそうなくらいに開かれる。
その後、泣き出しそうに歪められた。
茜が、なぜ、唐突に話し始めたのか、理由を悟ったからだ。
そのためだけに、アカネは傷をみせたのか
「人にとっては、この空白はあまりに長いよ
だから、話そう。穴を埋めるように
できるだけ昔みたいに戻れるように……」
「あやつは、我をかばったのじゃ、
そんなこと、して欲しくなどなかった」
「イヴは、彼が好きだったものね」
「ああ、そうじゃ、好きだった。すきな、のに
もう、この世界にクラウンはいない、のに」
「あいたい、のに」
もう、会えない