慈愛の女神は語る
彼女に向けた殺意が、敵意が、耐え難い後悔に変わって私を襲った。
なにもかも吐き戻してしまいたくなるほどの、自らへの嫌悪に
立ち上がることさえできなかった。
軽い舌打ちをしたリストが、剣を構えた。
「なにやってんだ!
あんたが決めたんだろ!
守りたいんじゃなかったのか!
諦めるな!!」
いくら彼女が強くなったといえ、相討ちならば持っていけるだろう。
そう決めた彼は、死すら覚悟しているはずで。
ならば、本体を叩かず、蔦に応戦する意味は
私を待ってくれるということ、で
彼の激励に、唇を噛んで、立ち上がった。
今は、彼がいる、独りじゃない。
後悔ならば、全部終わってから一人でやればいい。
ふたりを救う方法は
彼女の穢神化を止めるしかない。
けれど私は、穢神を浄化する方法を知らない。
聞く前に、連れてきた神たちが負けてしまったから
聞く術も、調べるすべもなかった。
なんの役にも立たないこの能力を、仕舞ってきた。
神の能力とは、なんの根拠も、関連もない、万能なものではない。
全てに理屈が付くことが多い。もちろん私たちの世界とも、人間たちとも
違う律で縛られたものなため、
人にとっては荒唐無稽なものとしか映らないが、
ある程度なら情報から推理することができるかも知れない。
情報は、“浄化”に対応する能力である“穢神化”の理屈だけだ。
そもそも穢神化の能力とは、
名前を奪い、強い情によって能力の暴走を起こさせることによって
穢神へ堕とされる。
自らを定義づける名を失った神は、暴走を止められず
穢れを増幅させる。
ならば、名前を与えられれば、少なくとも
彼女の自我だけは、
取り戻せるのでは――。
「っ、慈愛を司る、創造の能力を持つ、女神……っ」
優しくて、涙脆くて、私が知る誰よりも綺麗な神様。
私の、友達
「目を、さましてよっ、“イヴ”」
「い、ヴ……。
われ、の、なまえ……?」
蔦は動きを止めた。
黒のヴェールが落ちて、彼女の瞳があらわになる。
その瞳には、今までの狂気は写ってはいなかった。
よろよろと、彼女の視線が、リストを捉える。
「ここ、は……、
ああ、われ、は……
りす、と……?
たかと、は」
「この世界の、どこにもいない。
もう見えてるだろ、その子どもは違う」
「く、ラウン、は?」
「そんなの、もう自分でもわかってるはずだ
だから、黒い服を着て、白い花を咲かせたんだろ」
忘れたこと自体を責めるように、彼は吐き捨てた。
黒い服は、やはり喪服で、彼女の住処にしか咲かない白い花は
彼を、悼むために、
ならば、彼は……、クラウンは殺されてしまったのか
「ああ、そう、
そうじゃったな」
その事実を噛み締めるように、彼女は呟き
「もう、忘れぬよ、二度と忘れたりするものか
この人の子には、可哀想なことをしたのう
穢れが残ってしまうかもしれんが、怪我はないようじゃ
リスト、親元へ連れ帰ってはくれんかの」
視線が、ゆらりと逸れ、私と目があった。
瞳の奥には今までの狂気など微塵もなく、湖面のような穏やかさだけがあった。
「主も、悪いことをしたの、怪我は大丈夫かの
主が、我の名を呼んでくれたお陰で
名前を、思い出せたのじゃ、感謝する。
これでようやく逝けるよ」
いやだ、と叫びそうになった。
私をおいていかないで、と
名乗ることすら、できないくせに
一つだって昔と同じではないくせに
けれど、イヴは言葉を続けた。
「じゃが、その前に、伝えねばならんことがあるのじゃ
謝らねばならぬ」
「ミツキに?
今更、許しを請おうとでも」
「そうではない、
我が伝えたかったのは、主とタカトオじゃ」
リストの嘲笑じみた言葉に、
そう告げた瞬間、ゆらりと陽炎のように世界は揺らめいた。
舞い散っていた花弁が一箇所に固まった。
蠢く花弁は二人の人形を造り始めた。
リストの顔色が変わった
「なに、を」
彼は、僅かに後じさりした、
彼の手が震えている。
「やめろ」
掠れた声が震えている。
おびえている?
それが恐怖からくるものであることを、理解するのに時間がかかった。
だって、彼は、恐怖という感情が欠落していた。
花弁は色すら変えて粘土のように、陽炎のように、向かい合う二人を映し出した。
本物と見間違うほどの精緻な姿。
金色の髪と蒼い瞳の少女と、銀色の髪と獣人の少年。
そこにいたのは、過去の私たちだった。
人形劇のように、再現するように、なめらかに動き出した。
「やめろっ」