壊れた平穏と、彼女の覚悟
少しグロイシーンがあるかもしれません。
これはダメなんじゃないかなと思ったら連絡ください
すぐに直します。
建物が軋んだ瞬間、ヘレナはモニカを抱きしめ、
キッサは、私を庇うように抱き込んでいた。
「ありがとう、キッサ、離してくれるかな」
そう言って僅かに力が抜けた腕を、くぐり抜けて扉に飛びつく。
信じたくなかった。けれど、私は、扉の向こうに何があるか、理解していた。
使い方すら知らない能力が、脳裏に訴えていた。
扉が開いた瞬間、匂いが鼻をついた。
どろりとした甘い匂い。
酔ってしまいそうなほど、濃密なそれ。
花が蕾を開いた時の、一番濃い匂いと、
熟れすぎて、腐った果実の、甘い腐敗臭。
闇のような黒と、血にも似た赤、どこか澱んで、病んだ色の
大輪の花が地面を埋め尽くすようにして、咲き誇っていた。
なんの前兆もなく数本が爛れ、ぐじゅぐじゅと音を立て、腐っていく
その下から、新しい蕾が蠢き、腐った花弁を突き破り
大きく花開く。
芽吹き、生長し、花開き、咲き誇って腐り落ちる。
異常なスピードで、何度も何度も繰り返しながら、
悍ましい花畑は、着実に広がっていた。
ふらり、と、長く美しく悍ましい金糸の髪が揺れ、靡いた。
花畑の中心にその女性は立っていた。
どこか喪服を思わせる、幾重にも重なったフレアスカートは
繊細なレースをあしらった、ゴシックロリータ調のドレスによく似ていた。
黒のヴェールが女性の顔を覆い隠している。
今ある語彙では、表現しづらいけれど、あえていうならば。
清楚で妖艶。婀娜めいて清廉。清浄なのに不浄。悍ましすぎて美しい。
露出なく身につけた服は、禁欲的で、けれどどこか退廃的で享楽的。
正反対の言葉がよく似合った。
唐突に細い二の腕のあたりの、服がぶくりと膨れ上がった。
服が膨れたのではなく、腕が腫れたのだということに気がついたのは、
漆黒の服が、膨張に耐え切れず引き裂け、肌を顕にした時だ。元は白かったと思われる肌は無残にも変色し、限界を迎えたとでも言うように、濃厚な腐臭とともに引き裂けた
中には虫のように瑞々しい緑色の、新芽が這いずっていた。
ぐじゅ、と水音を立てて、腐った肉が零れ落ちる。
艶やかなほどに、白く滑らかな骨が植物の間から覗いた。
けれど、それはすぐに復元され、服までも元通りになった。
余りにも悍ましいその光景は、女性の体のいたるところで起きていた。
衝撃に、思考が一瞬滞る。それは、思考演算のほとんどを委託していた祝福の能力が
稼働を停止したということにほかならない。
ふ、ともうひとつの能力が、何かを映し出した。
けれど、その正体を掴むより前に、呼ぶ声にかき消されてしまった。
「薬屋っ!」
どうにか精神を立て直して、思考演算を稼働させた。
危ないと連れ戻しにきた、キッサはまともに見てしまったのだろう
絶句し、息を飲んだ。
「な、なん、だ。ありゃ……」
「あれが、堕ちた神、穢神さ。本来はね、どんな悪神であろうと
あんなふうになる前に、討ってあげなくてはならないんだよ。
神自身のためにも。私たちの為にも、ね」
「薬、屋……?」
「狂気に堕ちていく恐怖と、苦痛は酷いものだと聞いているよ。
それは、どんな罪とも釣り合わないほどの罰なのだと。
それに、あのままでは未来永劫闇に囚われて、
代替わりすら、ままならないからね。
けれど、なぜ今更……」
「なに悠長に話してんだよ!逃げるぞっ!」
キッサがそう叫んだ瞬間。大きなヒビが入り、地面が揺れた。
あの植物の根が、杭を打ち込んだかのように地を割ったようだ。
「“穢神とは、世界を呪うもの。その全ては世界を壊すためにある”
本来、植物の根は、地を安定させるものなのだけれど。
真逆の効果を内包してるみたいだね。
どうやら、そう簡単に逃がしてくれる気はないみたいだよ」
「だからなんでそんな冷静に、ってか。
あいつら、全然使えねえ」
逃げ惑う神殿の騎士たちにキッサは悪態をついた。
初めに穢神に遭遇したのは、騎士たちだったのだろう。
敵わないどころか、手が出ないのを悟って、逃げ出した。
そうしてここまで連れてきてしまったか。けれど騎士はこの場所を知らないはずだ。
ならば、穢神が、ここに用があったか。
「基本的に、聖女の安全が第一だからね。
位が上の騎士は聖女の守護についているはずさ。神殿を空にするわけにも行かないし
おそらくは見回りや、娼館への使者は下っ端か新人か、といったところだろうね。
流石にそんな相手に期待を向けるのは、酷じゃないかな」
話しながらも、ふと頭をよぎった疑問があった。
娼館への使者は、下っ端か新人。なら彼は?
どうして、あんなところにいたのだろう。
そもそも、娼館の説教なんか、いくら仕事でもするような人だったろうか。
唐突な悲鳴に思考がとまった。
何かを探すように蠢き始めた枝のような蔦から、逃げ惑っている少女がいた。
近所に住んでいる元農奴の夫婦の娘で、とても快活な可愛らしい子。
どちらかといえば、聖女に憧れるより外で遊んでいる方が楽しい気性だろう。
両親が演劇を見ている間に、退屈になったあの子は、外に出てしまったに違いない。
ちいさな足に絡みついた蔦に、バランスを崩し少女は転んでしまう。
蔦は足から広がり、艷めいた花を咲かせた。
じゅう、と音を立てて真っ白な足に爛れのような黒ずみが広がり、
少女は穢れが与える苦痛に悲鳴を上げた。
後ろから少女の両親の叫び声が聞こえた。
もう、一刻の猶予もない。
駆け出そうとした足は、地面に張り付けられるように動かなかった。
小さく震えて、力が入らない。
力を持つなら、誰かを助けたいと思うなら、
それにはそれ相応の義務が発生する。
そのために与えられた能力ならば、尚の事。
自分や身近な人が危ないからといって
今まですべてを放棄してきた私が能力を使い、今更誰かを助けたいというのは
あまりに身勝手だ。
そもそも、こんなにも穢れたこの手で、誰かを救う権利などあるだろうか。
人の命は重たいよ、昔の自分の声が聞こえた。
そう、重たい、重たくて一人じゃとても立っていられない。
恐ろしい、怖くてたまらない。
もしも今動いたなら、もしも万が一にでも救うことができたなら
今まで力がないからと理由をつけて、すべてを見捨ててきた私は一体なんだ。
理由がなくなったなら、残るのは見捨ててきたという事実だけ。
自らの罪と、直面するのは、あまりに恐ろしいことだった。
けれど、もしも、ともにいてくれる誰かがいたなら。
私は、もう一度変われるだろうか。
いいや、“だれか”じゃない。ずっとそうだった。何も変わらない。
たった一人、望むのは、
だけど、彼は、
もうきっと、私の手を取ることなど、ないのだから。
だからこそ、私は、もう救われない。もう変われない。
とん、と後じさりをした足が地面をうった。
すれ違うように、飛び出していく姿が視界の端をよぎった。
何のためらいもなく、走る黒い後ろ姿。
「き、っさ……」
うもれかけた少女を引きずり出し、爪で蔦を引き裂いた。
そのまま、戻ろうとするが、蔦はキッサにも絡んでくる。
引き裂き、踏みつけながら進むが、それも次第に追いつかなくなってしまう。
今まで動けなかった男たちは、キッサに感化されたように、
手に武器になるものを掴み、加勢に走った。
ふ、と苦笑が漏れた。
ああ、馬鹿馬鹿しい。いつまで保身に走るつもりだ。私はどこまで醜態を晒す気か。
なにが救う権利だ。なにが恐ろしいだ。
そんな卑屈で脆弱な自分なんか、見限ってしまえ。
足掻いて、罪を晒され、苦しんで死ぬのと。
目の前で殺されて、後悔して死ぬのと。
どうせどちらを選んでも、生きていけないほど苦しいなら。
足掻けるだけ足掻いて、苦しめばいい。
救う権利があるかどうかじゃない。
あのこどもが、見捨てられていい理由などあるはずがないのだから。
瞳を閉じて、能力の稼働率を出来うる限り最大限に引き上げる。
ぐらり、と眩暈が起きて、意識が現実から乖離していくのを感じた。
瞼を押し上げると、陽炎のように世界が揺らいだ。
一層激しく歪んだと思うと、ひっくり返すように、白く入れ替わっていく。
柔い膜をさくようにして、躰が沈んでいく感覚にふらついた。
蹈鞴を踏んだ足が地に着いた時には、もう『小部屋』にいた。
懐かしさを覚える空間は、元の世界で住んでいた私の部屋と何一つ変わらない。
けれど、もちろん、移動したわけではない。
これは意識の中に作り出しているだけで、現実には存在しない。
精神を保護するために無意識化に作り上げた、境界線。それが、具象化されたもの。
自分の記憶から引っぱってきているのだから当然だが、
あまりにリアルで、勘違いしてしまいそうになる。
戻ってきたのではないかと、ドアを開ければ家族がいるのではないかと、
けれど、決して、ドアを開けようとは思わない。
この部屋の外にあるものの正体をただしく理解しているから。
例えば部屋を出た瞬間、容易く確実に『わたし』は崩壊する。
圧倒的に膨大な容量は脆弱な『わたし』をたたきつぶすだろう
ちいさなモーター音が、静寂を引き裂いた。
白い筺体の、PCのディスプレイが言葉を映し出す
“能力の余剰範囲を拡大、確保を完了しました”
“最大稼働可能率54,6%”
“『シミュレーター』を起動しますか?”
⇒YES
NO
本来、私が授かった能力は、思考、知能系上昇ではなかった。
いや、正確に言うならば、本来の性能はそんなものではなかった。というべきか。
私に能力をさずけた神の名は、
“全知を司る、予知の力を持つ神、クラウン”
クラウンの予知の正体は、シミュレーションによる予測。それを予知と呼ばれるまでに精度を高めたもの、だ。
この世界にある、その全ての行動パターンを知り、
人の行動も、考えも、動植物の動きも、天候も、その全てをシミュレーションし
完全な予測を打ち立てることができるなら、それはもはや、“予知”だ。
当時の私は無意識下に、あくまで前準備として、思考、知能系の上昇をしているに過ぎなかった。とはいえ、自らの能力を知っていたとしても予知などできなかったが。
人間のスペックで、神と同じことができるわけがない。
世界最高峰のスーパーコンピュータと、家庭用の旧型PCと例えられるほどに、人と神のスペックには大きな隔たりがある。
聖女は稼働率を下げ、数ランク落とした性能でしか、能力を使いこなすことができない。
今代であってもそう、彼女の魅了は持ち主の神が扱えば隷属になる。
召喚なら、世界を超えることのできない、この世界だけの限定的なものになる。
例外を除き、稼働率は最初から変わらない。
例外である私の場合でも、崩壊した記憶や人格を補正するため、能力が稼働範囲を拡大した副作用によって、能力の稼働率が上昇してしまったに過ぎない。
今でも、上昇したとは言え、到底予知と呼べるものではない。
クラウンが、百年後でも正確な一つの未来を見つけられるのに引き換え
私は、瞬時に数百通りの未来を試算することで、数パターンにまで絞込み
それぞれにあらゆる対処法を用意、それをまたシミュレーターにかけ、最善を導き出す。
数パターンの短期的な予測に幾度も補正と訂正を加えつづけることで、
漸く使い物になる程度の能力でしかない。
これでは、予知ではなく、シミュレーターと称するのが正しいだろう。
さらに、クラウンとは違い、全知ではない。
私は私が知っていることしか、シミュレーターにかけられないため、
人の影響を受けない単一の事象や、
停滞し、隔離された箱庭のような場所などの例外を除き、
通常の状態では、まともな的中率を維持するのは6時間前後といった短い未来だ。
稼働率を最大まで上げても、24時間が限度、
それ以上を過ぎると、知ることができない事象が影響を強め、
予測どころか、予想に近いものになってしまう。
稼働率を最大まで上げるためには、普段人格や記憶、行動の補正に回している
能力を停めて、シミュレーターに回さなくてはならない。
観測と、終了した際に能力の再構築をするだけの最低限の能力値を残し、
それ以上の侵食を受けないように、境界線を引く。
それが、あの『小部屋』だ。
シミュレーターを見るために開けられた窓が、PCになる。
私のシミュレーターへの無意識下のイメージらしい。
ぴ、と機械音が響く。
“稼働率52,8%『シミュレーター』を起動します”
“分岐ルート No,1”
ぷつん、と画面が明るくなった。