溜息
ふぅ。
宰相様からこの世界の「旅人」のあり方や、王宮での滞在を歓迎する旨、私が自由にしてよいこと、困ったときに宰相様や宰相様の息子であり、ジョシュ王子の友人でもある近衛カイル様を頼って欲しいなどの説明を聞く間、結局王子の膝の上でお菓子や紅茶を給仕された私は、限りなく体力と羞恥心を奪われ、最終的に抗う気力も失って部屋へと戻ることになった。
宰相様が去り際に哀れむような眼で私を見つめていたことにも気づいていたが、そんな眼差しで見るくらいなら王子を連れ去ってください。本気で。
なんて儚い望みは宰相様の優雅な一礼であえなく絶たれた。
そしてその後も、侍女達にドレスの着替えを手伝ってもらう間、部屋の隅で私の着替えを紳士らしからぬことに見ると言い張る王子と再び攻防を繰り広げ、エスコートされて夕食を国王陛下夫妻や宰相様、王族に近しい貴族の方々と食べる間も、三度攻防を繰り広げ、その全てに敗れた私は、今やっと夜風に辺りながら、今日の目まぐるしい一日をひとりゆっくりと思い返す時間を取っていた。
自室に下がる際には、着替えを見ると言い張り、食事中も膝や腰に手を置いて来たり、口元に食事や飲み物を運んだり、私が食べようとしたものを横から食べたりとやりたい放題だった王子と、もう一悶着かならずあると四度目の攻防を覚悟したもの私だったが、何故か今回に限って王子は部屋の前まで私を見送ると手の甲に優しい口付けを一つ落として、
「また、明日朝」
と礼儀正しく挨拶をして去っていった。似非紳士からやっと開放され、私は侍女達に手伝ってもらって寝る準備を整えながら、一人の時間を堪能し、一息つきながら今一度、今日一日のことを思い返してみた。自分が異世界に来てしまったという事実に改めて向き合い、目の前に現実のものとして突きつけられると、とても寝る気分になれず、天蓋の付いたベッドの脇を通り涼やかな風が誘うテラスに足を運んだ。
美しいこの世界。
石造りのテラスから見える庭園の影と遠くに見える街の明かり。
頭上には澄んだ空気独特の降る様な星空。
遠く右手の先には優しく眼を細めて見つめているような三日月が白い光りで私に癒しを与えてくれていた。
少しまだ濡れたままの黒髪と、寝巻きとして供された白いワンピースドレス、テラスに続く大きな窓に掛かっているこちらも白いカーテンが吹き抜ける夜風にさや、さやと柔らかく揺らされる。
自分が一枚の絵に入り込んだような気分になってくる。
私がいた世界では、何年か前から起きていた戦争が段々と身近に足音を忍ばせてきていた。
以前は優しかった疲れた顔の父と、やはり厳しい顔に笑顔を貼り付ける年の離れた兄の様子から戦況が思わしくないことも察していた。それでも笑顔を絶やさず家を切り盛りし、男性の家人を戦場へ見送り、女性の家人は子供を持つものから東京よりも安全な地方の別邸や親族の家に疎開させていた気丈な母と姉のことを思い出す。
東京にもついに空襲警報が鳴り響き、数年前の華やかさなど忘れ去ったかのように息を潜める広い邸宅を出てきたのは今朝のこと。
最後まで母と姉と一緒にいたいと懇願したが、それでも貴方は長野の別荘へ家人達と行っていなさいと送り出された。
それから数時間で、自分がこんな状況になっているなんて。
星空から暗い庭園に眼を移す。
現実とは思えないこの異世界が自分達が理想としてた争いがない世界なのかもしれない。
王子の性格や態度は置いておいて、運命の女だと言い募る彼に素直に身を任せて、庇護されていれば、帰ることなど忘れてこの世界で生きていけば、安全で、安心で、いつか幸せになれるのかもしれない。
それでも、同じ庇護され、護られ、何もできない状況でも、奪われた世界のことが忘れられない。
父や兄は私がいなくなったことを知り、心配するだろうか。戦時下という状況では連絡がつかなくなったり、行方不明になる人がいることも仕方ないと、諦めるのだろうか。それでも、私を探して母と姉は嘆くだろうか。
私と一緒に汽車に乗ろうとしていた家人達は無事だったのだろうか。
それとも、この世界のどこかに私と同じように「旅人」として落とされているのだろうか。
振り回してくる王子がいない状況で、やっと私は冷静に色々なことを考えられるようになり、家人の心配すらしていなかった自分を恥じた。
王子のせいにしてはいけない。
あんな変態で最低で、私に触ってばかりで、口説いてばかりで、時々耳の傍で艶っぽい声で囁く王子とはいえ!
彼のせいで自分が至らないわけではないのだから。
ふぅ。
もう一つ出てしまう溜息を止める術を思いつかない。
とりあえずは、明日からはこの世界を知りつつ、家人が「旅人」として飛ばされていないか探し、帰る術を見つけなくては。
ああ、もちろん、王子以外の庇護者を探すというのも忘れてはいけませんわね。
城に着いた時に決意したことを改めて強く決心する。
「眠れないのかい?ファム・ファタル」
突然背後に聞こえてきた声に物思いに沈んでいた私はびくっと身を竦めると、慌てて腕二本分の距離を取り、窓の方へと身を寄せた。
「そのファム・ファタルというのは止めてください」
思いついた抗議をとにかく口に出す。
沈黙は金だというけれど、関わって数時間の私でもわかる。
ことこの王子に関しては沈黙していたら妊娠させられてしまう!!
押しの強さを笑顔で隠しているつもりだろうが、身近に父と兄という良い?手本がいた私にはお見通しだ。そういう人が一番!危ない!!
「運命の人をどうしてそう呼んではいけないんだい?」
「私は貴方の運命の人ではありません」
「僕の「占」の能力を疑うの?」
「そういうわけではありませんが、、、」
手近にあった天窓を閉めるためであろう鉄製の棒をそっと握り締める。
今回は幸い武器が近くにあった。いざとなれば。
「希望があれば添い寝をするけど、添い寝以上のこともするけど」
キラリと獰猛な瞳が光ったのはキノセイですよね。
「今晩のところは何もしないから、その手の危ない棒は離して欲しいな?」
女性達が黄色い声を上げそうなにこやかな笑顔がいっそ禍々しい。
「身を護るのは自己責任ですから。気にしないで下さい」
右手で棒を掴んだことを気づかれていたいたことを忌々しく思いながらも、隠す気はない。
今言ったように、自分で自分を護らなければいけないわけですからね!
「君は僕が護るよ?綾子」
始めて呼ばれた名前に甘い響きを感じて、鼻にしわを寄せる。
まだ、ファム・ファタルのがましかも知れない。
それでも、呼び方はともかく、名前を呼ぶだけで女性を甘く蕩けさせるような声を早急にやめさせなければ。
・・・鳥肌が立ってしまいそうです。