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第九話


 早朝から始めた散策も気付けば太陽が真上で輝く時間となっていた。体力的にはまだまだ余裕が残っているが、ちょうど良い場所に湧水を見つけた。先を急がねばならない理由もなく、ここで小休止することにした。


 肩に引っ掛けていた歪な形の篭を地面に置き、近くに転がっていた倒木に腰掛けた。太く頑丈な蔓を利用して作った篭はさほど大きなものではないが、愛用している石焼用の石板と大きな葉に包まれたブロック肉が入るほどにはある。


「ええっと、今日はこの道をずっと進んできたから……」


 澄んだ水で喉を潤しつつ、彼は手元の木板に視線を落とした。倒木から切り出して加工したものだが、今は簡易の地図として活躍していた。手製ながら精度は悪くないはず、と自分では思っている。


 目印になりそうな奇樹や奇岩がある地点などを記し、自分が辿った道を歪な線で繋いでいる。単独で作成したことを鑑みればよく出来ているが、実際のところは自身の記憶や経験などを加味してやっと機能する程度の代物だ。


 それでも、今ではこの地図を作成するというのも樹海探索の楽しみの一つになっていた。実際に歩いた場所を記していけば、自分だけの地図が出来上がっていく。それはまさに未知なる土地を冒険しているようで、さらなる先へ進もうと気力が湧き上がってくる。


「この泉も目印になるな。よし、こんなものだろう」


 歩いた道筋を一通り確認し、地図に新たな場所を刻み付ける。今いる場所は、最初に目覚めた洞窟やお気に入りの泉があった所から随分と離れている。それなりの距離を進んできたなぁ、とまた一つ増えた印を満足そうに眺めてから顔を上げた。


 この木板には二箇所の穴が開いており、そこを通っている紐も蔓を利用したものだ。両端をしっかりと結びつけ、首から掛けている。凶悪な顔と巨躯を持つ怪物が木板を首からぶら下げ、更には手作りの歪な篭を肩から引っ掛けている姿は何とも不格好だが、どうせ誰に見せるわけでもない。



「そういえば、あの狼は元気にしているだろうか」


 降り注ぐ陽光を全身に浴び、目を細めながら倒木に寝そべった。そんな時、ふと思い出したのは狼の事だった。


 既にあれから十日が経過している。肉を分けてから今日に至るまで、あの狼が姿を見せる事は無かった。本気で探せば見つけ出せたかもしれないが、それよりも樹海の散策を優先させた。


 また、今は狼と出会った場所から離れた所を歩き回っていた。何があるか分からないが、しばらくはこのまま進んでみようと思っている。もしかしたらこの深い森を抜ける事が出来るかもしれない。そうなれば再び会う事は無いだろう。


「その方がいいのかもしれないな。さて、そろそろ行くとするか」


 緩慢な動作で立ち上がり、大きく伸びをする。再び篭を肩に引っ掛けてから歩き出したその後姿は、どうにも人間臭いものであった。


******


 先へ、さらに先へ。巨躯を揺らして歩き進んでいると、樹海に変化が現れ始めた。相変わらず見渡す限り木々ばかりだが、どこからか甘い香りが漂ってきたのだ。それは果物が発するものだと瞬時に理解できたのは記憶にあったからだ。しかし――


「この匂い……はて、何だったかな」


 かつて嗅いだ事のある匂いだというのは確かなのに、はっきりと思い出す事が出来なかった。けれど、首を傾げながらも彼の足が止まることは無かった。


「匂いを辿ってみるのも面白そうだな。よし、行ってみよう」


 この辺りは初めて訪れる場所であり、何があるのか分からない。何処から見て回ろうかと思っていたが、ちょうどよい目的となってくれた。



 進んだ先は疎林となっていき、木々も深部と比べれば細いものが目立つようになった。とはいうものの、それは深部に屹立している巨樹と比べたからであって、普通の人間であれば充分に圧倒される大きさを誇っている。


 果物のような匂いを辿る散策は、意外と早くに終わりを迎えた。一本の木の前で立ち止まった彼は、眩い陽光に目を細めながら天を仰いだ。


「ああ、そうだった。これはリンゴの匂いだったか」


 人間であった頃でもリンゴの匂いを嗅ぐ機会は少なく、異世界で目覚めてからは初めてだった。おかけで思い出すまで時間が掛かってしまった。それも目の前の光景が無ければ更に遅れていたことだろう。


 彼の前には、周囲の木々よりも二回りほど幹が太い巨木が堂々と屹立していた。幹高は巨躯である自分の背丈より三倍以上はある。樹冠もまた立派なものだが、無数に生っている赤い果実に目を奪われていた。


「あれはリンゴ……だよな?」


 姿形は慣れ親しんだリンゴと全く同じだった。これを見たからこそ、リンゴの匂いだと思い出せたのだ。それはいい。彼が気になっているのは、その大きさであった。


 これほど大きなリンゴの木というのも驚くべき事だが、果実の生育も比例していくのか。視線の先に実るリンゴは、大玉のスイカと同じぐらいの大きさだった。


「しかし、あれだな。なんとも美味しそうなリンゴだ」


 異世界の自然を改めて思い知り、一頻り驚いてから呟いたのが、それだった。これまで毒々しい色彩の果実は何度か食しているが、あれは甘さよりも爽やかな酸味が口に広がる果物だった。


 考えてみれば、甘いものなど殆ど口にしていない。あのリンゴが甘いとは断言は出来ないが、これほど素晴らしい匂いを発するのだから蜜もたっぷりと含まれている気がする。


 ただ、そう簡単に食べることは出来ないようだ。こうして見上げているだけでも、リンゴの数は少なくない。


 問題は、どうやってリンゴを取るか、である。殆どが高い位置に生っていて、手に入れるには木を登るしかない。それが何よりの問題であった。


 リンゴの木自体は樹幹から無数の枝が伸びていて、それぞれも充分な太さを持っている。樹皮も滑りにくく、足場に困ることもない。身軽で慣れた者ならば上端へ辿り着くのはそう難しくはないだろう。ただし、人間であれば、という注釈がつくが。


 異形の怪物となった今では体重も大幅に増加している。また、体は頑丈だが決して身軽というわけでもない。恐らく、というよりも間違いなく木登りは出来ない。



 他の手段といえば、リンゴの木を揺らして強引に実を落とすぐらいか。しかし、この高さから落ちれば、例え受け止めたとしても衝撃で潰れてしまう気がする。そもそもこの巨木を揺らすとなると全力で、それも何度も殴りつける必要がある。リンゴを食する為だけに木を傷つけることは憚られた。


「仕方ない。諦めるか……」


 考えを巡らせた結果、大人しく引き下がる事にした。いつか口に運ぶ機会が来るだろうさ、と肩を落としながら地図に印をつけた。



 ――その直後だった。


「ん……? うわっ!」


 背後から突然、黒い影が飛び出してきたのだ。驚いて後ずさった彼の目の前を黒い影が通り過ぎていく。


 それは、最近はあまり見る事もなくなっていた黒い毛並みの狼であった。狼はリンゴの木の前で大きく跳躍、爪を樹皮に引っ掛けて瞬く間に中程にある太い枝まで登っていった。


 さらに枝から枝へと驚異的な跳躍力によって飛び移り、リンゴの木を登っていく。遂には大きく実ったリンゴに大口を開けて噛り付いた。首を振ってリンゴを強引に切り離した狼は、先ほどと変わらぬ軽やかな動作で上端から降ってきた。


 ある程度の高さから一気に飛び降りた狼は、全身の四肢をしなやかに使って見事に着地を決めた。リンゴを口に銜えたまま、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


「お前……あの時の狼か?」


 一連の出来事を呆けたように見続けていたが、真正面から向き合ってやっと気付いた。今の動きを見れば体力も回復したのだろう。体つきも十日前と比べれば幾分かふっくらとしている。


 彼の問い掛けに、狼はこくりと首を縦に振った。そして、銜えていたリンゴを差し出すように顔を上げた。


「これを、私に?」


 思わず受け取ってしまったリンゴはやはり大きく、ずっしりと重かった。それを軽々と運んだという事は、狼は想像よりもかなり力があるようだ。


『お肉、美味しかった』


 再度の問い掛けに答えたのは首肯と言葉であった。


「どうやって取ろうかと悩んでいたんだ。ありがとう、頂くよ」


 まさかこのような形で恩返しされるとは思っていなかったが、存外に嬉しいものだった。それに、今までは自分の姿を見るなり逃げてしまう狼と簡単な意思疎通が出来ている事も大きい。


 ただ、それも長くは続かないようだ。自分がリンゴをしっかりと受け取った事を確認した狼は、くるりと体を反転させた。


「あ、待ってくれ」


 尻尾を揺らしながら歩いてく狼の後姿に、気付けば声を掛けていた。それは半ば無意識のもので、言葉を発した自分に驚いていた。


 無視されるだろうと思っていたが、狼は足を止めて振り向いた。呼び止められた理由が分からないらしく、僅かに首を傾げている。自分でも驚いているのだから、それも当然だと思う。


「……その、なんだ。よければ、一緒に食べないか? あまり多くはないが肉もある」

『いいの?』

「ああ。一人で食べるより、きっと美味しいはずだ」


 けれど、狼を呼び止めた理由は何となく分かっていた。なんだかんだ言っても一人ぼっちはやはり寂しかったのだ。共に語らいあう仲間が欲しかったのだ。引き返してくる狼に心が躍っているのが良い証拠だろう。


 後に、この日は彼にとって記憶に残る日となる。何故なら、異世界で初めて友達が出来た日となったのだから。

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