第八話
月日はゆったりと、しかし確実に過ぎていく。この世界で目覚めてから早くも二月が経過していた。樹海は相変わらず生命に満ち溢れ、豊かな自然に圧倒されるばかりだ。
たった一人の散策にもすっかり慣れ、活動範囲も徐々に広がっている。けれど、新たな植物は複数見つけているが、動物に関してはこれといった発見はない。狼達に関しても同様だ。幾つかの群れを目撃している程度で、依然として意思疎通は取れていない。
まぁ焦ることも無いさ、と彼は気楽に考えていた。一人で気ままに探索するというのも悪くはない。その内、何かしらのきっかけでも生まれるだろう。
「さて、今日は何処へ足を向けてみようか」
眩い太陽の光に目を細めながら、気の向くまま歩き出した。
この時の彼は知る由も無いことだが、それから四日後の夜。予期せぬ形で『きっかけ』となる出来事と遭遇することになる。
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今日も今日とて樹海を歩いていた怪物は、夕食と決めた鹿を慣れた手つき解体していた。
伸縮性があり、強度も申し分ない太い蔓を左右の後脚に結びつける。緩みがないか確認し、近くの木の枝に引っ掛けた。力を込めて引き上げ、両脚を開いた状態で逆さ吊りに固定する。
既に血抜きは済んでいるので、次に内臓を取り出す作業に取り掛かった。鹿の喉元から後脚の付け根辺りまでを、浅く一直線に切り裂いた。切り開かれた腹部から、胃や腸などを傷つけないよう慎重に内臓を取り出していく。
大猪に比べれば小型ではあるが、この鹿とて決して小さくはない。そのため心臓や肝臓なども食べ応え十分であり、新鮮なために味も非常に良い。
独学ながら血抜きや内臓を取り出す手際もなかなかではないか、と心の中で自画自賛しながら後脚の皮に切り込みを入れた。
刃物状に変形させた右手の人差し指を滑らせながら、左手で皮をゆっくり引っ張っていく。後脚から腰の辺りまで剥いだところで、左手に力を込めた。人間とは比べ物にならない膂力を持ってすれば、ある程度は力任せに引き剥がせる。
さながら果実の皮を剥いでいるかのように、容易く鹿の皮が裏返った。残す部位は頭のみ、となったところで首を落とす。全身の皮と一緒に鹿の頭が地面に転がった。
「これも何か利用できればいいんだが……」
今まで食してきた動物達も頭と皮については悩んできた。この異形の肉体ならば頭部も毛皮も食べようと思えば食べられる。とはいえ、美味い肉がたくさんあるのだ。そこまで食料に困っているわけでもなく、進んで口にしようとは思わなかった。
特に、皮に関しては別の利用法が幾つも浮かんでいる。何せ多種多様な品物が溢れる世界に生きていたのだ。便利だった革製品を思い出すのは難しいことではない。しかし、肝心の皮をなめす方法が分からなかった。
昔、動物の脳を使う皮なめしの方法があると本で読んだ事がある。それさえ知っていれば頭部も皮も有効活用できるのだが、その本には具体的な手順は載っておらず、仮にあったとしてもじっくりと読むことはなかっただろう。その他の皮をなめす方法も知らず、それに加工するにしても道具が一切ない。
もったいないと思いながらも、結局はいつも通り地面に穴を掘って廃棄した。
その後、鹿を六つに切り分けた。包みとして重宝しているキリに似た大きな葉に移し、早速とばかりに食事の準備を始めた。
石組みの即席竈を作り、骨付きモモ肉は豪快に直火焼きにする。背肉は串に刺し、焚き火の周りでじっくりと焼き上げた。
「うん、美味い。猪とはまた違った旨味があるな……ん?」
肉汁が滴る鹿のモモ肉に齧り付き、引き締まった美味さを堪能していた時だった。焚き火を通り越した、やや離れた場所にある茂みが僅かに揺れた。
この世界の動物達も火を恐れているらしく、焚き火をしている時などは大猪ですら近づくことはなかった。だからこそ、視線の先で狼が顔を覗かせたのに驚いた。
「珍しい事もあるものだ。少しは慣れてきたのか?」
しかし、接触を図るつもりは無かった。大方、肉が焼ける匂いや音が気になった狼の群れが様子見でもしにきたのだろう。これほど近づき、なおかつ姿を見せた事は無かったが、狼の気配がした事は何度かあった。
こちらから近づけばすぐに逃げるだろうし、あの狼もこれ以上距離を詰めることはないだろう。半ば無視するように意識を外し、食事を続けることとした。
『いい匂いがする。美味しそう』
その時、久しぶりとも思える狼の声が流れ込んできた。骨に残っていた肉を削ぎ落としていた彼の腕が僅かに揺れる。
再び狼を見やってみれば、その視線は自身ではなく焼けた肉に注がれていた。
『食べたい。でも怖い――』
そこまで聞こえた時、不意に狼と目が合った。狼は驚いたように毛を逆立ててから、夜の森へと消えていった。
「さて、群れとはぐれたのかな?」
この森に棲息する狼は地球のそれと比べるとかなり大きい。あの狼は成獣と比べると一回りほど小さく見えたから、まだ若い個体なのかもしれない。
「……まぁ、いいか」
気にならないと言えば嘘になる。しかし、食事を中断してまで追いかける気にもならなかった。機会があればまた会うこともあるさ、と気楽に考え直して食事を再開させた。
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機会があれば、などと思っていた若い狼との再会は二日後だった。その時も食事中に顔を覗かせ、じっとこちらを窺っていた。伝わってくる思考の殆どが『美味しそう』であり、視線も肉を持つ手元や焚き火の辺りが多い。
それでも警戒心が強いのか、火が怖いのか、はたまた怪物である自分を恐れているのか。一定の距離を保ち、それ以上を踏み込むことは決してなかった。そして、こちらが気付いた事を知ると、すぐさま逃げてしまう。
食事中に姿を見せ、結局は何もせずに逃げていく。それを幾度も繰り返すのだ。あまり気にしないようにしよう、というのも無理な話である。そこで彼は森を散策しながら狼の姿を探し始めた。
別に追い詰めようというわけではない。ただ気になるのだ。あの若い狼が普段はどのように行動しているのか。他に仲間はいないのか。どうして自分のような怪物の前にまで姿を見せるのか。何か理由があるのなら、それを知りたい。それだけであった。
それから一週間。狼の行動範囲はそれほど広くなく、姿を追うのは簡単だった。まだ若い固体というのも間違いではないようで、高確率で自分の方が先に発見することが出来た。
これまで多くの狼たちと接触を図ってきたが、こちらの存在を先に察知されて逃げられてしまったことも少なくない。それを思えば、あの狼は周囲への警戒が甘いように感じた。
気付かれないように狼の行動を観察した結果、あの狼は単独で行動している事が分かった。群れとはぐれたのか、それとも追放されたのか。それを知る由は無いが、他の狼と連携するどころか会うことすらなかった。
その為、狩りも単独で行わなければならない。しかし、未だ体躯も成長途中であり経験とて不足している。獲物を狩るのは容易いことではないらしく、観察を始めてからあの狼が食事をしている姿は一度として見ていない。無論、一日中張り付いてるわけではないのでそれが全てではないだろう。ただ、やはり充分な食事は行えていないはずだ。
空腹のまま森を彷徨っている時、肉の匂いに引き寄せられて自分の前に姿を見せたのだろう。ただ、それを喰らっていた巨体の怪物から肉を奪い取るような無謀さは持ち合わせていなかった、といったところか。それでも何度も姿を現しているのは隙あらば肉を狙っているのか、それとも食い残しを期待しているのか。
最近では動きも緩慢になりつつある。栄養状態が良くないことは分かっていたが、もはや自由に駆ける力も残されていないのかもしれない。
「……どうするべきかな」
血抜きしている最中の猪を見つめながら、しばしの間考え込んでいた。何度も繰り返してきた自問が口から零れても俯いたままであった。
やがて血抜きも一通り終わり、猪の巨体を持ち上げた時に至って漸く一つの決心をした。
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それから数日後の夜。今日も肉を焼いて食べていると、少し離れた場所に狼が顔を覗かせた。相変わらず近づくこともなく、じっと見つめている。
「……」
当然ながら彼も狼には気付いている。ただ、今日はなるべく無関心を装って食事を続けていた。猪の肉をたらふく食ったというのに、その脇には骨がついたままのモモ肉が二つ置かれている。脂もよくのった肉は極上であり、彼の好物でもあった。
目の前の焚き火に、用意しておいた枯れ木を薪として投げ込んだ。瞬く間に火の勢いが強くなり、周囲を赤々と照らしながら燃え盛る。
両の手でモモ肉を掴み、躊躇う事無く炎へ突っ込んだ。この肉体は火への耐性も高いらしく、これぐらいでは火傷にすらならない。焼け始めた肉から脂が滴り、食欲を刺激する香ばしさを撒き散らす。
ちらりと狼を窺ってみれば、やはりと言うべきか、視線は肉に釘付けだった。涎も垂れているところを見れば今日も随分と空腹らしい。
「うん、よく焼けているな」
こんがりと焼きあがったモモ肉からは肉汁が溢れ、充分に腹が膨れているというのに大口を開けて喰らい付きたくなる。だが、それが彼の口に運ばれることは無かった。
火の通りを確認してから、彼は二つのモモ肉を狼に向かって放り投げた。しっかりと狙ったわけではなかったが、それらは見事に狼の前に転がった。
自分のコントロールに満足げに頷く怪物とは対照的に、狼は飛び上がらんばかり驚いていた。いきなり肉が目の前に飛んでくればそうもなるだろうな、と他人事のように思いながら勢いを弱めた焚き火に水分を多く含む葉を被せた。
『どうしよう。食べていいのかな』
狼から困惑した言葉が流れてきた。食べたいけれど、本当に食べていいのか分からない。何かの罠かもしれない、でも空腹には耐え切れない。
大きく揺れる狼の思考が伝わってきたが、彼は何も言わずに片付けを続けた。葉を被せた事によって火はほぼ消え、煙ばかりが上がる燠火になったところで土をかける。火が完全に消えた事を確認し、狼に背を向けて歩き出した。
この世界にも弱肉強食の掟は存在している。それを考えれば、自分の行いは決して褒められたものではない。けれど、せめて自由に動き回れるだけの体力を回復させる事ぐらいはいいだろう。
肉に喰らいつき、咀嚼するような音が背後から聞こえてきた。怪物は振り返って確認する事もなく、樹海の深部へと消えていった。