第七話
火を手に入れてから日々は過ぎ、その間に食生活は大きく様変わりしていた。今までは生のまま口にしていた食べ物も、火を通すとまた違ってくる。
彼が火を求めた理由は、そもそもが食事に変化を欲したからであった。豊富に存在している素材はどれも美味ばかりだが、生のまま食べ続けるというのももったいない話だ。焼いたり煮たり出来ればもっと美味しくなるのに、と思ったのが発端である。
それからというもの、彼は狩った動物の肉や採った茸を焼いて食べるようになった。しかし茸や山菜はともかく、肉は色々と大変だった。火を手に入れたことをきっかけに、血抜き処理や内臓を傷つけないように取り出す解体作業に挑戦をしてみたのだ。
今まで猪や鹿を解体したことなど無かったため、正しいかすら分からないうろ覚えな知識を頼りに試行錯誤を繰り返した。何度も失敗してしまったが、今ではそれなりに出来るようになったと胸を張れる。
火を手に入れた事によって食事の方法も変わってきている。けれど、そう大それた料理が出来るわけではない。主に、細く頑丈な木の枝や獣の骨を削って作った串に肉や茸を刺してから焼く、所謂『串焼き』のような食べ方が多かった。
これはこれで手軽に出来るし、じっくりと炙った肉の旨みは格別だ。悪くはない。悪くはないのだが、やはり思ってしまうことがある。
「せめて鉄網か鉄板があればなぁ……」
分厚い肉を焼き上げていく時の匂いや音。表面にじわりと浮かぶ肉汁。頃合を見て肉を返せば、舞い上がる香ばしさに空腹が刺激される。
それらは串焼きで再現するのは難しい。肉を置いて焼ける鉄網や鉄板が必要となってくるだろう。
人間であった頃は大型店に行かずとも簡単に入手できたのに、今ではどうやっても手に入れる事が出来ない。何か代案は無いものか、と考えながら小さく溜息を吐いた。
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それから数日が過ぎた、ある日の夕方。彼は大きな体を小さく丸めて作業に没頭していた。
手頃な石を並べて即席の竈を作り、枯葉や小枝を敷き詰めてから火を起こした。錐揉み式の発火法もすっかり手慣れ、発火技術は中々のものであると密かに自負していたりする。
「こんなものかな。後は……」
最初は小さな火だが、やがて炎へと変わっていく。これだけの火力があれば充分だろうと満足げに頷いてから、このために用意した平たい石を掴み上げた。
森を散策している時にこの石を発見できたのは僥倖だった。薄く平らな石を見た瞬間、石焼用のプレートにしようと思いついたのだ。近くの泉で汚れを落とした石板は全体的に乳白色で意外なほど綺麗になった。
竈を崩さないよう慎重に置けば、後は熱で温まるのを待つだけだ。その間に今日の料理の主役を用意することにした。
キリに似た巨大な葉で作った包みを開くと、ブロック状に切り分けた肉が姿を現した。狩った猪を解体して用意したもので、形はかなり歪だが、ここから更にステーキ肉のように分厚く切っていくのだから問題はないだろう。
この世界の大猪は肉食に近い雑食だが、肉や脂に臭みは殆ど無い。肉質も柔らかく、程よい脂も美味である。調理器具や調味料が揃っていれば、シチューなどの煮込み料理にも合うはずだ。
そんな大猪の肉の中で最も美味だったのが、モモ肉であった。赤身と脂身の濃厚な旨みは生のままでも美味いというのに、今回はそれを豪快に切り分けて焼き上げようというのだ。想像するだけで腹が減ってくる。
元が大猪なのでモモ肉のブロックもそれなりに大きい。すっかり慣れた肉体操作で人差し指の爪を刃物状に変化させ、一枚一枚を分厚く切り分けていく。
「温まったかな? 頼むから、割れたりしないでくれよ」
石焼用のプレートとして作られているわけではないので、熱に耐え切れずに割れてしまう可能性も充分に考えられる。事前に石板の耐久性を試せば良かったのだが、ついつい気が逸ってしまった。ここまで来てしまえば、後はぶっつけ本番である。
箸に見立てた細長い木の棒を使い、小さな背脂の塊を石板に滑らせる。脂はふわりと良い香りを漂わせながら溶けていく。石板は充分に熱せられているようだが、今のところひび割れ等は見られない。この結果に満足しつつ、いよいよ主役に手を伸ばした。
「よし。では早速……」
先ほどから騒ぎ立てている腹の虫を抑えつつ、肉を一枚掴み上げた。石板はそれなりの大きさだが猪肉もまた大きいため、置けるのは一枚が限度だ。とはいえ、人間ならば一枚も食べきれば充分な程にはある。焦らず一枚一枚ゆっくりと食べていけばいい。
分厚い肉を石板に置いた、その瞬間。肉を焼く音が大きく響き渡った。続いて舞い上がるのは食欲を刺激する匂いだ。焚き火で炙る時とはまた違う、肉を豪快に焼く匂いが鼻腔を通り抜けていく。
しばしの間、片面を焼き続ける。ある程度火が通ったところで肉をひっくり返した。肉を焼いていく香ばしさが更に空腹を刺激する。
「……そろそろいいかな」
両面とも色が変わっているが、断面から見るとまだ完全には焼けていないように見えた。何せ、人間であった頃に食べたステーキ肉とは大きさも厚さも違うのだ。どれぐらい焼けばいいのか分からない。
本来であれば、猪の肉は豚同様にしっかりと火を通すべきなのだろう。しかし、今まで散々生で食してきたのだ。
多少、生焼けでも問題は無いはずだ。そう自分に言い聞かせてみたが、結局のところは我慢できなかっただけである。
「いただきます!」
大口を開け、豪快にかぶりついた。焼いても柔らかいままの肉は容易く噛み切れ、深い旨みが口内に広がっていく。咀嚼すれば肉汁が溢れ出し、滑るように喉の奥へ飲み込まれていった。
あまりの美味しさに三口ほどで一枚を平らげてしまっていた。その余韻に浸りながらも、手は次の肉を焼き始めていた。まだまだ肉はある。付け合せとして用意しておいた茸や山菜もある。
日も落ち、すっかり薄暗くなった森の中。異形の怪物が始めた贅沢な夕食は用意した食材を全て食べ尽くすまで続けられた。
食事を終えて寝転んだ怪物は達成感と満足感を織り交ぜたような表情を浮かべ、星空の下で静かに眠りについた。




