第四話
どれぐらいの時間が経過したのか。無数の骨と潰れた頭部、それに本能的に食べる事を避けた内臓の一部が転がる中、彼は大の字に寝転んでいた。辺り一面に飛び散った猪の血が体に付着したが、構うものかと手足を伸ばした。
あれだけの大きさを誇った猪を一頭丸々と平らげ、腹が膨れたことによる満足感をこれ以上ないほど味わっていた。このまま眠ってしまおうか、とも思ったが大事なことを思い出した。
太陽はかなり傾いてしまったが、沈むまでにはまだ時間が残されているはずだ。もう少し散策しておくべきだろう。新たな発見があるかもしれないし、何よりもっと多くを知りたいのだ。
緩慢な動きで体を起こし、のっそりと立ち上がる。そこでふと大猪の巨体を支えていた太い骨と大きな牙が視界に入った。じっくりと見回してみれば、食べこぼした小さな肉片が幾つも散らばっている。その光景を前に、彼は静かに両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
異形の怪物が手を合わせて食後の挨拶をしている様は、何とも奇妙なものであった。
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再び森を歩き始めてから二時間ほど経った頃だろうか。周囲が茜色に染まっていく光景すら楽しみながら道なき道を進んでいると、ひっそりと隠れるように存在している小さな泉を発見した。鹿に似た動物が二頭、水を飲んでいたが自分の姿を見るなりあっという間に逃げ去っていった。
「湧き水か。ちょうどいいな、喉も渇いていたところだ。それに、この姿ではな」
体のあちらこちらに猪の血が付着している事を思い出した。誰に見せるわけでもないが、仮に人間と出会いでもしたら大変だ。血で汚れた異形を見て友好的に接しようと思う者はいないだろう。
泉は小さく、湧出量もあまり多くはなさそうだった。しかし、湧き水は目を見張るほどに澄んでいる。手で水を掬ってみようと水面を覗き込んだ時、そこに映った自分の顔を初めて見る事が出来た。
猪以外の動物が自分を見るなり逃げていく理由がよく分かる。というより、逃げるどころか迷うことなく向かってきた猪の方がおかしいのだ。それほどまでに凶悪な顔つきだった。
けれど、人間であった頃ならば確実に腰を抜かしているであろう凶相に恐怖も嫌悪感も無かった。これが今の自分の顔なのだなぁ、と思うだけであり、むしろ愛着すら湧いてくるから不思議なものだ。
湧き水は冷たく澄んでいて、そして驚くほど美味しかった。手で掬いながら飲んでいたが、あまりのもどかしさに顔を突っ込んでしまった。満足するまで水を飲み、一通り体の汚れを落とした頃、既に辺りは夜闇に支配されていた。
今日はここで夜を明かす事に決めた。何が潜んでいるのか分からない深い森の中で、火すら無い状態で夜を過ごす。人間ならば自殺行為もいいところだが、異形となった今では不安など僅かばかりもない。食物連鎖のピラミッドで考えれば、恐らく自分は上位に属するのだろう。
もちろん、天敵がいないとも限らないので油断はしないよう自分に言い聞かせた。世界が違えば常識も異なるはずだ。それらはこれから先、ゆっくりと学んでいこう。
そんなことを考えながら、彼は泉からやや離れた場所で大の字に寝転がった。この巨体でも寝返りができるほどに開けた場所で、寝床にはちょうどいいと軽い気持ちで体を投げ出した。
明日は何が見つかるだろうか、などと考えようとした瞬間、視界に飛び込んできた星空に圧倒された。
「これは……凄いな。なんて綺麗なんだろう」
以前、まだ人間であった時に暮らしていた場所では星など殆ど見えなかった。見るとしたら人工の光が少ない地方へ行くか、あるいはプラネタリウムで代替するぐらいなものだった。
それが今。視界全てに、美しい星空が広がっていた。赤く輝く星があれば、青白い光を放つ星がある。とても数え切れない煌きの中を時折、流星が走っていく。この時ばかりは、周囲が疎林である事に感謝した。目覚めた場所では殆ど空など見えなかっただろう。
そして、その中でも彼が目を奪われたのは――
「月がこんなに近い……」
やや赤みが掛かった巨大な満月であった。地球で見る事ができた月も非常に美しいものだったが、この世界の月もまた勝るとも劣らない素晴らしいものだった。
これほど月が光を放っていれば、星々の輝きは隠れてしまいそうなものだが、互いが互いを引き立たせているかのように存在を主張しあっている。
此処は一体どのような世界なのか。今いる場所はなんという名前なのか。そもそも、死んだはずの自分が異形の怪物として存在しているのは何故なのか。
知りたい事は無数にあるが、こんな素晴らしい世界を見て回れるのだ。答えはゆっくりと探していけばいい。
光り輝く星々の下、彼はそんな事を思いながら静かに眠りについた。