第三話
自分の姿を見ても逃げる事のない生き物に出会ったのは、それからしばらく後の事であった。周囲が疎林となっていたからか、それなりの距離があるのにその生き物と視線が交錯したのを感じた。
その直後。
「大きな猪だなぁ……って、突っ込んでくるつもりか!?」
巨大な猪はこちらの存在を確認するなり、猛烈な勢いで突進を始めた。大きさこそ違うが、姿形は以前の世界で見た猪と変わらない。しかし、決定的に異なる点が一つだけあった。
下顎から伸びる二本の牙である。記憶にある猪の牙は後方に歪曲したものであったが、こちらに向かってくる大猪の牙は前方へと突き出ている。刺殺する為だけに進化したのが一目で分かった。あの突撃速度と鋭利な牙が合わされば大型の動物ですら致命傷になるだろう。
それは今の自分でも同じことだ。いかに異形な肉体といえど、あれを受け止めるのは危険過ぎる。猪突猛進という言葉を体現しているかのように真っ直ぐ突っ込んでくる様を見る限り、タイミングを合わせて横に避ける事は難しくないはずだ。わざわざ正面から立ち向かう必要はない。
しかし、理性では回避するべきだと判断しているのに、肉体に残る本能は別の行動を開始した。細い木々を薙ぎ倒しながら突き進んでくる大猪に対し、一歩たりとも退くことなく彼は真正面に立ちはだかった。
両脚をやや広げ、腰を落とす。全身に力が漲っていくのを感じる。特に体の前面、胸部から腹部にかけての筋肉が一段と盛り上がり、皮膚の色も薄蒼から黒が混じる紺へと変化していた。
「これは……そうか、あれの相手は慣れているという事か」
恐怖など微塵も感じない事にむしろ戸惑っていたが、それも一瞬。脳裏には数え切れない程あの猪を喰らった記憶が蘇ってきた。同時に、今まで無かった空腹感が湧き上がる。
「ああ、腹減ったなぁ」
そう呟いた瞬間、大猪が鼻息荒く突っ込んできた。流石に勢いは殺せず、足の裏が地面を滑っていく。鋭い牙は腹部へと突き立てられているが、肉を貫くどころか皮膚を抜く事すら出来ていない。
やがて猪の前進が止まった。あの突撃を受け止めきったのだ。必死に両脚を動かしている猪の姿を見下ろせば、どうしようかと考えるよりも先に体が自然と動き出していた。
左手で猪の牙を掴むと途端に頭を振って暴れ始めたが、強引に押し止め動きを完全に封じ込めた。自由な右腕をゆっくりと振り上げ、力強く拳を握り締める。
「オオオオォォォッ!」
大気を振るわせる咆哮を上げながら、猪の脳天目掛けて拳を叩き付けた。まるで巨大なハンマーを打ち下ろしたかのような衝撃と破裂音が響き渡る。外見からも分かっていたが、やはりこの肉体は恐るべき力が備わっているらしい。頭蓋を砕き、脳漿を潰す感触が伝わってくる。
この世界の動物も頭部を破壊されては生きていけないらしく、大猪はたった一撃で息絶えた。
力を失った巨体がぐらりと揺れ、痙攣しながら倒れこむ。動物を、それも素手で殺した経験などあるはずも無いが、不思議と恐怖も恍惚も感じなかった。それを上回る、強烈な飢餓だけが全身を支配していた。
その状態の上に、目の前には上等な獲物が転がっているのだ。我慢などできるわけがない。気付けば大口を開けて喰らいついていた。
この大猪の肉が格別なのか、それとも異形の肉体ゆえなのか、鮮血が滴る生肉は脳髄が震えるほど美味であった。
餓鬼の如く生肉を貪り続ける中、自分は本当に人間では無くなったのだなと頭の片隅でぼんやりと思っていた。




