第二十九話
トールと出会う前、精霊の樹の周囲は剥き出しの土ばかりが広がる場所であった。一本の雄大な巨樹が聳え立つこの光景には相応しいのかもしれないが、どうしても寂しいという印象は拭えなかった。
生き残ることだけで精一杯だったシアに、それを解決する力は無かった。いつか色とりどりの花で満ちる景色にしたいと思いながらも無力さを噛み締めた日々は苦い記憶として残っている。
それも過去のことになった。今、ここは多くの花が咲き乱れる素晴らしい花園になっていた。かつての寂寥を想像できる者はいないだろう。
そんな美しい花々の上をシアは軽やかに舞っていた。彼女が上機嫌に歌を口ずさみながら飛び回れば、背中の翅が光の軌跡を描いていく。
一見すれば可憐な妖精が美しい自然を謳歌しているのだと思うだろう。それは決して間違っていないが、シアはただ心躍らせて歌っているわけではなかった。
この樹海には多くの精霊が活発に動いており、それが一か所に集中してしまうのは良いことではない。しかし、ここには精霊達を集めてしまう要因があった。
エルトリィンの花である。
純白の美しい大輪の花は精霊も惹きつける。数輪程度ならば大きな問題もなく自然に散っていくが、この場所には多くのエルトリィンの花が咲いている。何もしなければ精霊達は次々に集まり、溢れることになる。
精霊達が集まりすぎてしまうと、特異な現象を引き起こすことがある。アーリス砦で起こったという一件も、精霊の異常な密集が原因だ。
妖精の歌には精霊をある程度制御する効果があり、シアは歌によって精霊の過密を防いでいた。
*******
歌い終えたシアは、ゆっくりと旋回しながら周囲に視線を巡らせていく。エルトリィンの花を中心に多くいた精霊達には分散してもらうようお願いし、今は広い範囲に散っている。
また精霊が集まり始めたら移動してもらう必要があるが、最果ての森だとしても一日二日で集まるものではない。これでしばらくの間は問題ないだろう。
『シア、こんにちは!』
そんな時、ひょっこりと顔を出したのはクロだった。
初めて出会った頃から見違えるほどに成長したクロは、既に成獣の黒狼よりも大きくなっていた。強靭な四肢に逞しく発達した体躯。そして、いつの間にか精悍になった顔立ち。黒く艶のある美しい毛並みと相まって一種の風格すらあった。
「あら、こんにちは。今日はここでお昼寝?」
『うん。とてもいい天気だからね!』
それでもクロの内面はあまり変わっていない。魔獣とは思えない穏やかな性格もそのままで、これはきっとトールの存在も影響しているのだろう。
「良い風も吹いているし、確かにお昼寝日和ね」
嬉しそうに揺れるクロの尻尾にシアも笑みを浮かべた。
『あれ、アナが見当たらないね。どこかに行っているの?』
風の話で思い出したのか、クロはきょろきょろと周囲を見渡してから首を傾げた。
「ちょっと目を離した隙に、どっか行っちゃったのよ。たぶん、トールさんの所じゃないかしら」
シアは歌い始める前、精霊の樹を中心とした一帯の管理と手入れを終えたら勉強をしましょう、と伝えていた。アナは渋い顔をしながらも文句を言わなかったので、つい油断してしまった。
気付いた時には姿を消していたのだ。アーリス砦へ向かっている気配はしっかりと感じ取れたので、トールに会いに行ったのだろう。
『そっか。一緒にお昼寝しようと思ったんだけどね』
「お説教の後に、クロさんが寂しがってたと言っておくわね。それで、今日はどこにする?」
この場所は多くの花々が咲いているが、シアが手入れをしているのは花ばかりではない。花壇のように区切り、移動しやすいように道も作っていた。妖精は空を飛べるので、主にトールやクロが歩く道である。
それとは別に、木漏れ日が心地良い樹の根本や穏やかな風の通り道など、花が咲いていない場所が幾つか存在していた。
それらは主にクロの昼寝用に用意されたものだ。以前は花を潰さないよう空いている隙間で眠っていたのだが、クロの体が大きくなるにつれてそれも難しくなってしまった。
そこでトールは妖精たちの力を借りて、クロが好む場所を寝床に変えた。咲いていた花を移植し、眠る時に快適なように地面を柔らかな草地で整備した。こうして出来上がった複数の寝床にクロは、この場所がもっと好きになったと飛び上がるほど喜んだ。
『そうだなぁ……今日は樹の根本にするよ』
少し悩んだ後、クロはゆっくりと精霊の樹に向かっていった。その根元で体を丸めたクロの体に木漏れ日が差し込んでいる。
『ね、シア。また歌を聴かせてよ』
「もちろん、構わないわ」
シアが歌うのは自然の調和を保つためだけではない。歌うこと自体、とても好きだった。以前はアナしか聴く者はいなかったが、今ではトールやクロが楽しみにしてくれている。
特にクロは昼寝をするときに歌ってもらうのが一番好きだという。とても気持ちよく眠れるんだと言ってくれるので、シアも嬉しく思っている。
そして今日もリクエストされてしまえば、歌わないわけにはいかない。ふわりと舞いながら、シアは歌い始めた。静かな森の中に妖精の美しい歌声が響いていく。
目を閉じたクロは時折、耳をピクピクと動かしていたがやがて寝息以外聞こえなくなった。
「ふふ、とても気持ちよさそう」
歌い終えたシアは穏やかに眠るクロを見ていたら、欠伸が出てしまった。シアは襲い掛かってきた睡魔に抗おうともせず、クロの体に飛び込んだ。狼の体温と木漏れ日の温かさに包まれて、ゆっくりと眠りに落ちていった。
*******
心地よい眠りは、突然終わりを迎えた。クロの長い体毛にくるまっていたシアは目を開けると同時に体を起こし、樹海の中に意識を集中させた。
これまで感じたことがない気配が二つ、こちらに向かっていた。移動速度はさほど早くはないが、精霊の樹を目指して迷うことなく進んでいる。
最果ての森には多くの魔獣や動物が生息している。しかし、この場所に姿を現すことは稀だ。広い範囲を群れで行動する黒狼は規格外の怪物であるオーガを避けているらしく、アーリス砦を含めて近寄ろうとはしない。それは大鹿や森兎なども同様だ。
また、生息数が多い大猪も花の匂いが濃厚な場所を好まないため、こちらも積極的に近づくことはない。もっとも、それ以外の場所では相手が黒狼だろうがオーガだろうが構わずに突っ込んでくるが。
なんにせよ、精霊の樹を目指して移動する気配の正体は分からない。ただ、漠然と推測はできていた。
「……まさか、人間?」
思わず独り言が零れてしまった。近づいてくる二つの気配は、かつて知り合った人間達のものとよく似ている。それらに比べると生命力が小さく、とても頼りないものではあるが間違えてはいないと思う。
しかし、同時に奇妙な点もあった。向かってくる方角がおかしいのだ。最果ての森を抜けた先には人間が暮らしている村はあるが、方角はまるで違っている。人間だとしても、いったいどこから現れたというのか。
「さて、どうしようかしら」
のんきに寝息を立てているクロに微笑んでから、シアは形の良い眉を僅かに顰めた。こちらに向かう気配はもうじき精霊の樹に辿り着くだろう。だというのに、シアに焦燥感は無かった。
精霊が豊富な場所で妖精が本気で魔法を駆使すれば、オーガであるトールすら無力化することが可能だ。今のシアならば人間の一人や二人容易く拘束できる。警戒を緩めるつもりはないが、まずは様子を見ることにした。
クロの体毛に紛れて待つこと少々。二つの人影が森を抜けてきた。深い森の中に突如として現れる巨大な一本樹と、それを囲むような美しい花園に息を吞んでいることが見て取れた。
奇妙な気配は、シアの予想通り人間であった。森を歩くためなのか、体を覆い隠すように外套を羽織っており、顔はフードによって隠れてしまっている。それでも分かることは、二人が体の小さな子供たちであるということだ。
どうにも頼りない気配だったのも頷ける。まさか子供が二人で最果ての森を抜けてくるとは思ってもいなかった。
二人は驚きもそこそこに、辺りを見回し始めた。何かを探しているのか、しきりに顔を動かし──巨樹の根本で眠る黒狼に気付いて体を硬直させた。小柄な二人のうち、さらに小さい方が「ひっ」と声を漏らしたのをシアは聞き逃さなかった。
その様を見て、シアはふわりと飛び上がった。小さな子供が恐怖に震えている姿を見て楽しむ趣味は持ち合わせていない。妖精は人間やエルフ問わず、子供が好きなのだ。
あの二人からは危険視するほどの脅威は感じられない。仮に悪意を隠していたとしても、精霊が活発に動く場所ならば対処法は幾らでもある。黒狼を見つけて震えあがっている様子を見る限り、杞憂だろうけれど。
「こんにちは、見知らぬ人間さん」
「えっ」
いきなり現れた妖精に、今度は大きい方の人間が声をこぼした。フードで顔は分からないが、驚愕は伝わってきた。
「何か探しているようだけれど、見つかりそうかしら?」
シアが安心させるように微笑みかけても、二人は戸惑ったように二、三歩後ずさった。それでも何とか落ち着いてきたのか二人同時にフードをとり、その素顔が露わになった。
大きい方は少年であった。年齢は十代の前半といったところ。小麦色の髪は短く、整った顔立ちながら幼さがまだ残っている。良く言えば優し気で、悪く言えば頼りないように思えてしまうのは、やや垂れ気味の目元が印象的だからか。
一方、小さな方はより幼い少女だ。こちらは十の年齢に届くか届かないか。ゆるやかな三つ編みが右肩に掛かっている。こちらも少年と同じく小麦色をしている。少しばかり垂れ気味の目元も少年とよく似ているが、美しく成長するのではと思わせる可愛らしさがあった。
シアが二人の人間を観察していると、少年が先に動き出した。驚きと喜び、それに期待と不安が入り混じった表情を顔に張り付けて口を開いた。
「えっと、あなたは妖精……様ですか?」
「ええ、その通りよ。私はシア。それと、様なんていらないわ」
シアがそう告げると、二人は目を輝かせた。
「ああ、よかった! 僕はフィルといいます。こっちは妹の……」
「あの……その、アルマです」
よく似ているのは兄妹だったからか。自分の名前を名乗った二人は深々と頭を下げた。
「フィルさんとアルマさんね。それで、二人はどうしてこの場所に? というより、どうやって来たのかしら?」
二人が現れた方向には人間が住む場所はないはずだ、と言葉を重ねるとフィルが答えてくれた。
「僕たちは“ノームの抜け道”を通ってきたんです」
「なるほど、そういうことね」
ノームの抜け道とは、大地の精霊が作る地下道のことだ。精霊を操る魔具か、あるいは妖精が使う魔法のように精霊の力を借りることによって形成される。稀に精霊が気まぐれで作ることもあるとも聞く。
不思議なことに、大地の精霊が作り出した地下道は手入れをしなくとも長期間崩れることがない。また、しっかりと整備をすればより頑強なトンネルになる。そのため、非常時の脱出路や隠し通路として利用されている。
彼らが暮らす村には、最果ての森にある洞窟と繋がる抜け道があるらしい。村を出て森に足を踏み入れるより安全で、何より精霊の樹への近道でもあった。その洞窟から出た後は、獣除けを兼ねた破邪の香水を振り撒きながら移動していたという。
「どうやって辿り着けたのかは分かったわ。そうまでして来た理由は……私ね」
シアは二人が森の中に突然現れた理由に得心がいった。そして、彼らが自分を求めていることも薄々感づいている。ノームの抜け道と破邪の香水があるとはいえ、子供二人には危険な旅路だ。
「はい。いきなり押しかけた無礼をどうかお許しください」
「気にしないで。何か理由があるのでしょう? 用件次第だけれど、まずは話を聞きましょうか」
「ありがとうございます!」
フィルは感極まった様子でまた頭を下げた。その横ではアルマが嬉しそうに声を上げていたが、頭を下げている兄の姿を見て慌てた様子で追従した。
「私が解決できるとは限らないことは知っておいてね。それで、二人は何をお求めかしら?」
シアの言葉を聞いて、フィルがここまで足を運んだ理由を話し始めた。
彼らが暮らすのは最果ての森を抜けた先にある小さな村であった。麦などの穀物はあまり育たないが、その代わりに薬草や香草、ハーブの類が良く育つという。品質の高さは街でも評判らしく、特に薬草は高値で取引される。それらは村の貴重な収入源であった。
しかし、数年ほど前から徐々に生育が悪くなっていた。採取量も減少していて、そうなれば収入が減るのも当然である。それでもどうにか生活できていたが、一年ほど前から更に状況は悪化した。
品質も収穫量も目を覆わんばかりの惨状となり、ついに村を捨てて移住するべきだという声も上がった。村を捨てるという最後の決断を下す前に、村人たちは一つの望みに縋ることとなった。
「妖精ならば、衰えた大地に活力を戻すことが出来ると聞きました。どうか、お願いします! 僕たちに力を貸してください!」
「お願いします!」
子供たちの必死な嘆願に、シアは即答しなかった。それはフィルの願いを叶えることが不可能だからではない。
話を聞く限り、彼らの村に起きた異変の原因は精霊の減少だろうと推測した。大地の精霊達が離れてしまったために、土地が衰えてしまったのだと考えられる。数年前から兆候があったとはいえ、決定打は約一年前。恐らく、エルトリィンの花に森を抜けた先にある村の精霊たちまでもが誘われてしまったのだと思う。
精霊の移動自体はさほど珍しいことではなく、その土地に大きな変化がなければ大抵は自然に元に戻る。ただ、今回はかなり多くの精霊達が移動してしまったのだろう。ある程度の精霊は戻っているはずだが、以前と同じ環境に戻るには足りておらず、また完全に元通りになる保証はない。
妖精ならば衰えてしまった土地に活力を戻すことが出来る。地に属する妖精ならば一夜で豊かな土地に変えることも可能だ。シアは花や草木と関係が深い妖精だが、それでも手段は幾らでもある。
「あの……やはり難しいのでしょうか?」
考え込んだまま黙ってしまったシアに、フィルは恐る恐る訊ねた。その表情は硬く、声は震えていた。
「ああ、ごめんなさい。そうね、私なら何とか出来ると思う」
「本当ですか!?」
「ええ。でも、その為には色々準備が必要なの……心配しなくても、それほど時間はかからないわ」
付け加えた言葉に二人とも安堵したように力を抜いた。彼らにしてみれば一刻を争う状況なのは理解している。
「──それに場所を変える必要もある。急だけれど、これから一緒に行ってもらうわね」
この時、シアは一つ嘘をついた。それは、場所を変える必要などないということだ。少しばかり時間がかかるというのは本当だが、ここで準備を整えることは可能だった。
シアは、この一件にトールを巻き込むことにした。彼が人間との出会いを望みながらも、自身の外見や種族の差から諦めていることは知っている。こちらから人間の領域に足を踏み入れてしまえば、間違いなく大きな混乱を与えるだろう。血が流れる可能性だってある。
そのことを理解しているトールは自分から動くことはしなかった。しかし、今回は人間から接触してきた。この差は大きい。シアはこの予期せぬ出会いを利用し、トールの夢を叶えてあげたかった。
「それと、あなた達はその場所である人に会うことになる」
「それは構いませんが……ある人?」
「きっと驚くでしょう。怖いと思ってしまうかもしれない。でも、心配はいらないわ。あなた達に危害は決して加えないし、私が二人の傍にいるから」
これから二人が会うのはオーガである。今ではすっかり慣れている凶相も、初見の衝撃は計り知れない。もしかしたら腰を抜かすほどの恐怖を感じるかもしれない。だからこそ、シアは二人の傍にいると伝えた。
顔を見合わせて首を傾げていた二人は、疑問を抱きつつも頷いてくれた。
「ありがとう。さて、それじゃ──ああ、忘れてた」
礼を述べてから行動に移そうとした瞬間、二人の表情が凍り付いた。アルマはフィルの背中に隠れ、ぶるぶると震えているのが分かった。
シアが振り返れば、今まで眠っていたクロが起きていた。凝った体をぐぐっと伸ばしながら、大きな欠伸をしている。やがて視線をこちらに向けると、その目が驚きと好奇で輝いた。
その姿にトールを連想してしまうあたり、犬は飼い主に似るという話は本当なのだろうと思った。犬ではなく狼であるクロにはちょっと失礼が過ぎたか。
『シア、もしかして人間さん?』
クロは軽やかに駆けよると、小さな人間を興味深そうに観察し始めた。
「ええ。こちらはフィルさんとアルマさん。正真正銘の人間さんよ」
『やっぱり! 初めまして、人間さん。僕はクロ。よろしくね!』
敵意など欠片も見せず、クロは大きな体を揺らして歓迎の声を上げた。だが、残念ながら魔獣の言葉は人間には理解できない。彼らにしてみれば近づいてきた巨大な黒狼が奇妙な唸り声を出しているようにしか聞こえないだろう。
「フィルさん、アルマさん。こちらはクロさんというの。よろしくね、と言っているわ」
魔獣の言葉を通訳してあげると、二人は信じられないものを見たかのように目を見開いた。それでも、クロが友好的な雰囲気を纏っているのは分かったらしい。嬉しそうに尻尾を大きく揺らしているのを見れば、それも当然か。
「えっと、クロさん……? 僕はフィルです。その、よろしく?」
「アルマです。あの、シアさん。クロちゃ──さんに触ってもいいですか?」
おずおずと自己紹介が始まるなか、積極的に動き出したのはアルマであった。先ほどまで震えていたというのに触りたいと言い出したのはシアも驚いたが、その言葉を聞いたクロが先に反応した。
『いいよ!』
「いいよ、って伝えるまでも無かったわね」
クロはアルマに頬擦りするように顔を寄せた。クロの大きさならばアルマの上半身は軽々と飲み込めてしまう。それほどの差があるためか、僅かに体を強張らせたアルマだがすぐに「わぁっ」と歓声を上げた。
トールがブラッシングを定期的に行っているために、クロの体毛は美しく柔らかい。また普段からハーブティーなどを好んで飲んでいることが影響しているのか、獣特有の臭いはほとんどしない。それもあって、シアとアナはクロの体毛に包まれるのを好んでいた。
「凄いふわふわ! お兄ちゃんも触ってみたら?」
「えっと、それじゃ……」
楽しそうに笑う妹の姿に、フィルも恐る恐る手を伸ばした。クロの左前肢の付け根に触れ、ゆっくりと撫でてから手を離した。
「さて、そろそろ移動しましょうか。クロさん、二人を乗せてもらえる?」
「えっ?」
「いいの!?」
瞠目するフィルと目を輝かせるアルマの姿に笑いかけ、シアはクロを見やった。
『構わないけど、アーリス砦に行くの?』
「ええ。詳しくは着いたら説明するわね。トールさんも一緒に」
『分かったよ。さ、二人とも乗って』
深くは追求せず、クロは頷いてから体を伏せた。今のクロは子供二人どころか、大人が二人だとしても背に乗せてなお余裕がある。普通の狼とは膂力も体力も比較にならないほど優れている魔獣なればこそ、大した問題でもなかった。
『乗る時は気を付けてね。毛を引っ張っても大丈夫だよ』
「乗る時に毛を掴んでもいいって言っているわ」
「わ、分かりました……」
シアが訳してくれた言葉を聞き、最初にフィルがクロの背中に乗った。黒く美しい毛並みからは想像もできないほど、黒狼の体毛は強靭だ。掴んだままよじ登られてもクロは少しばかりの疼痛すら感じていない。
続けてアルマが背に乗った。しきりにクロの背中を撫でまわしては楽しそうに笑っている。
二人がしっかりとクロの背中に乗り込んだのを確認し、シアは魔法を発現させた。これにより空気抵抗を抑えることができる。かつて箒で空を飛んでいた魔女たちが必修していた魔法である。魔女はそれに加え、周囲を快適な温度に変えるという魔法を複合させていたが、地を移動するだけならば不要だろう。
「これで振り落とされる心配は無くなったわ。では、クロさん。出発しましょう」
『分かったよ!』
クロが駆け出すと同時にフィルが悲鳴染みた声を上げ、アルマは大きな歓声を上げた。追従していたシアは、その騒がしさに思わず笑ってしまった。
そして小さく祈った。これが、トールにとって良き出会いになりますように、と。




