第二十話
エルトリィンの花が咲いてから十日。
トールとクロはアーリス砦の裏手、丹精込めて作り上げた花壇を前に座り込んでいた。エルトリィンの花が咲いてから二日ほどは同じように座り込み、美しい大輪の花を愛でていたというのに、今はそんな気楽な気持ちは吹き飛んでいた。
『トール、どうするの?』
目の前に広がる光景を困ったように眺めていたクロが静かに問いかけた。
「……どうしたものか」
力の無い呟きが花壇に消えていく。頭痛すら起きそうな事態を前に、トールも頭を抱えていた。どうしてこんな事になってしまったのか。そんな自問を繰り返したが、答えは未だに見つかっていない。
事の発端は九日前。エルトリィンの花が咲いた翌日、後を追うかのように残りのエルトリィンが花開いたのだ。先に咲いた花に影響されたのか、それともトールが撒いた血が広がったからなのか。理由は不明ながら、拍子抜けしてしまうほどあっさりとその姿を現した。
最初の一輪に比べると少しばかり小さかったが、エルトリィンの花は眩いばかりに咲き誇り、花壇は一夜にしてその姿を変えた。心なしか花壇とその周辺も濃密な生命力に溢れ、輝いて見えたほどだ。
この予想外の出来事を驚きながらもトールとクロは喜んだ。エルトリィンの花はおよそ三日間咲いた後、見慣れた白い種を三つか四つ残してひっそりと枯れていった。寂しく思いつつも、最後まで見届けることができたのは貴重な体験であり、同時に記録としても残せた。
また、当初の予定であったハーブティーも楽しめた。文献の記載に間違いはなかったようで、そのハーブティーは味も香りも素晴らしく、夢中になって飲んでしまった。クロも気に入ったのか、鍋にたっぷり入ったハーブティーを尻尾を振りながら飲む姿は記憶に新しい。
状況が変わったのは、残っていたエルトリィンの種を全て撒いてしまった時からだ。枯れてしまったエルトリィンの花からは複数の種が回収できたため、どうせなら古い種は撒いてしまおうと考えた。
一喜一憂を繰り返しながら過ごす十日間は嫌いではなかった。むしろ、期待と不安が良い意味で日々に刺激を与えてくれる。もしかしたら今回の開花は偶然であり、次はまた失敗してしまうかもしれない。目が離せない日々が再び始まるな、と胸を高鳴らせていたトールをあざ笑うように、それは起こった。
エルトリィンの花は五日を待たずに大輪を咲かせたのだ。それも、全ての種からである。しかもトールが気づかない内に種が飛んでいたのか、花壇から外れた場所にも白い花が咲き始めた。
それに呼応するかのように、エルトリィン以外の花々も姿を現した。これまで見たことのある花もあれば、初見の花もある。白一色だった花壇はあっという間に色とりどりの花が咲き乱れる花園になってしまった。
裏庭が花園に変わったところで、大変なのは管理ぐらいなものでさほど問題はない。最初は気楽に考えていたが、一日を過ぎた頃には既に頭を抱えていた。
異常だと直感したのは、あまりに濃密な自然の空気だった。普段ならば心地よく全身を包んでくれる森の風も、肌に纏わりつくような不快感を伴って吹き抜けていく。多くの花々の芳香が混ざり合っているのも一因なのだろうが、理解できない別の何かが渦巻いているように感じた。
変化は周囲の植物にも現れ始めている。花壇の近くに植わっていた小さな木が、一晩で見違えるほどに成長していた。よくよく見てみれば、エルトリィン以外の花々は朝に咲いて昼に散り夜に芽を出している。
花壇から離れた場所で育てていたサツマイモも急速に成長し、それなりに時間がかかると予想していたのに、蔓の状態から収穫は間近なのではないかと思えた。
異世界の植物なのだから地球の常識は通用しない、と言い切ることは簡単だ。だが、この成長速度はあまりに早すぎる。
クロもこの状況が異常だと分かっているようで、このままじゃ良くない事が起こるかもしれないと言っていた。自分よりもずっと鼻が利くので花々の香りがきついのか、とも思ったがそちらは我慢できる程度らしい。
芳香以外の何かがこの場所には充満している、と思い至るに時間はそう掛からなかった。
「原因はエルトリィンの花……かなぁ」
心当たりはそれしかない。トールは確かめるようにその名前を口にした。目の前には今も無数の白い花が輝くように咲き誇っている。数多の花々に囲まれていても、その美しさは際立って見えた。
この異常がエルトリィンの花にあるならば、解決方法は実に単純だ。全て引っこ抜いてしまえばいい。元通りになるかは分からないが、少なくとも事態は好転するだろう。
とはいえ、苦労を重ねてようやく咲かせた花だ。今までを振り返れば、すぐには行動に移せそうにない。そもそもエルトリィンの花を咲かそうとしたのは自分だ。突き詰めれば原因は自分にあり、花に罪などない。
「どうしたものか……」
ついさっきと同じ言葉を呟いてから、トールは空を見上げた。ちょうど吹いた風が、湿ったようなべたつきを残して肌を撫でていく。
どうせなら裏庭をもっと広くしておけばよかった。そうすれば風の通りも良くなったかもしれない。花壇も広く使えるし、複数に分散させることも可能だったはずだ。そうすればエルトリィンの花だって伸び伸びと咲くことが出来ただろう。
「……あ」
そんな考えが頭を過ぎった瞬間、トールは一つの閃きに言葉を漏らした。
『どうしたの?』
「クロ! いいこと思いついたぞ!」
瞬間、どうしてこんな簡単な事が思いつかなかったのだろうと笑ってしまった。トールは、こうしてはいられないとばかりに早速行動を開始した。
慌ててアーリス砦へと戻っていくトールを、クロは首を傾げながら追いかけた。
******
翌日、トールは先導するクロに遅れないように速足で樹海を突き進んでいた。両手で大きな桶を抱えながらも、危なげない足取りで歩いていく。
その桶には土と一緒にエルトリィンの花が入っていた。全部で八輪の花は窮屈そうに、しかし、力強く花開いている。
『トール、大丈夫?』
「ああ。この程度、軽い軽い」
先を行くクロが心配そうに振り返れば、トールは安心させるように笑いかけた。人間なら大人が数人掛かりで運ぶであろう大きな桶を抱えている。しかも中には大量の土が入っているのだ。かなりの重量だが、トールにとってはさして苦にならない。むしろ桶はかなり頑丈に作られているので、どうせならもっと土を入れておけば良かったと余裕さえあった。
トールの返事に嘘が無いと分かってくれたのか、クロは再び前を向いて歩きだした。
それから体感で二時間ほど歩き続けた頃、ようやく目的地へと到着した。
目の前に現れたのは、精霊の樹と呼ばれる巨樹が聳え立つ場所であった。相変わらずの威容に圧倒されんばかりだが、今日はゆっくりと眺めている時間は無い。
巨大な幹の根本まで近寄ったトールは、その大きな桶をそっと地面に置いた。日が昇ると同時にアーリス砦を出て、今はちょうど太陽が真上に来ていた。それだけ時間が経過してもエルトリィンの花に異常は見られない。
「花は大丈夫そうだな。さて、どこに植えようか」
『トール、この辺りはどう? 土ばっかりでちょっと寂しいんだ』
この場所は精霊の樹を中心として、ぽっかりと開けた空間が広がっている。そこには小さな木すら生えていないが、同時に土がむき出しの地面も多かった。所々に草花はあるが、巨樹の周囲には少しばかりの緑もない。
クロが前脚で叩いたのも、そんな場所であった。ここでのんびりと過ごす事の多いクロも、緑が無いのを寂しいと感じていたようだ。
「確かに土ばかりだな。よし、ここにしようか」
よく昼寝をしているという巨樹の根本。トールはそこにエルトリィンの花を植え替えることにした。
アーリス砦の裏庭で起こった異変の解決策が、これであった。次々に咲いたエルトリィンの花を別の場所に植え替えるという、何とも簡単な事だった。
トールとしてもこの場所は少しばかり殺風景だと思っていたので、エルトリィンの花を植えたことで緑が増えてくれれば嬉しい限りだ。もしかしたら二、三日後には様々な花が咲き乱れているかもしれない。
慣れない手つきながらも慎重にエルトリィンの花を移していく。幾つか枯れてしまうかもしれない、と思っていたが、別の大地に移ったエルトリィンの花は何事もなかったかのように咲き続けていた。
「クロが近道を見つけてくれて助かったよ」
運んだ八輪の花も全て植え終わり、トールは巨樹の根本に腰を下ろしていた。幹に背中を預けたトールが近くに寝そべっているクロに笑いかけたのは、そんな時だった。
トールが悪戦苦闘の日々を過ごしている中、クロはアーリス砦の周辺をよく探索していた。その結果、偶然にも精霊の樹までの近道を発見した。今まではアーリス砦から精霊の樹まで、丸一日は掛かっていた。それが今日はおよそ半日で辿り着けている。
今回の植え替え作戦も、その近道を知ったからこそ実行しようと思えたのだ。それが無ければ、どこか適当な場所に花を移すか、さもなくば引っこ抜いていたかもしれない。
『役に立ってよかった。また一緒に遊びにこようね』
「ああ。次は食べ物も持ってきて、ゆっくりしよう」
静かで穏やかなこの場所をトールも気に入っていた。手を伸ばしてクロの頭を撫でると大きな尻尾がぱたぱたと揺れた。最近はエルトリィンの花ばかりだったので、これが落ち着いたらまたクロと一緒に遊びまわるとしよう。
しばしの休憩の後、トールとクロはゆっくりと立ち上がった。大きな桶を手に取り、エルトリィンを一瞥してから歩き出した。
その背中を見つめる視線には、最後まで気づくことはなかった。
******
七日後。
エルトリィンの花から始まった異変は無事解決した。花壇には数輪のエルトリィンと小さな花々が咲いている。アーリス砦の裏庭に満ちていた異常な空気はすっかり薄れ、時折吹く森の風は花の甘い香りを乗せて爽やかに舞い上がっていく。
何事もほどほどが一番だ、と思い返しながらトールは裏庭の拡張作業を行っていた。地下室に転がっていた斧を使って木を切り倒し、雑草を引き抜いていく。
クロは今日、精霊の樹まで遊びに行っている。昨日は一日中、あちこちで一緒に遊びまわったというのに相変わらず元気一杯だ。
エルトリィンの花を植えた日から何度か精霊の樹まで足を運んでいるが、あの場所は予想通りに姿を変えている。依然として木々は伸びていないが、草花はあっという間に増え、エルトリィンの花も最初から咲き乱れていたかのように数を増やしている。
驚くほどの速さで草花が増えたことで、裏庭と同じような異変が起こってしまうかと心配もした。しかし、今のところ異常は見られない。場所がよいのか、それとも別の何かが影響しているのか。エルトリィンの花も精霊の樹も、見事なまでに調和している。
『トール、ただいま……』
どこか戸惑ったような声が聞こえたのは、ちょうど休憩しているときだった。普段よりもずっと早い帰りに首を傾げていると、クロの足音が近づいてきた。
「おかえり、クロ。今日は早かったじゃない、か……」
出迎えたトールの言葉は、最後まで聞き取ることができないほど細くなっていった。
姿を見せたクロの前に、小さな人影が浮かんでいたのだ。甘い香りがふわりと舞ったかと思えば、次の瞬間にはトールの目の前にいた。
「あの……初めまして」
可愛らしい声色だが、多分に緊張を含んでいるように聞こえた。ぺこりと頭を下げた時、背中の美しい翅から淡い燐光が舞うのが見えた。
予想外の出会いに目を丸くしていたトールは、無意識のうちに呟いていた。
――妖精だ、と。




