第二話
見渡す限りの巨樹と相応の大きさを誇る林冠によって、その森は薄暗かった。けれど、それを陰湿と感じることはなかった。空を覆い隠さんばかりに広がる枝葉の隙間から零れた陽光が幾筋も差し込んでいる光景は幻想的であり、同時に神秘的であった。
森全体が生命力に満ち溢れ、あちらこちらで多くの生命が力強く息づいているのを感じる。濃密な自然に包まれる心地よさを感じながら、彼は巨樹へと歩み寄った。
「これは……凄いな。この大きさに成長するにはどれだけの年月が必要なのだろう」
この異形の肉体は人間であった頃よりも遥かに大柄だ。この世界の測量単位がどうなっているのか知る術は無いが、以前の世界で測れば三メートルは超えているだろう。あくまでも主観であり、正確なところは分からない。しかし、一般的な人間よりも巨躯であることは確実だ。
そんな自分がちっぽけに思える程、屹立する巨樹の幹は大きかった。そのまま見上げてみれば、生い茂る枝葉と僅かな青空が覗いている。未知なる世界とはいえ、空の色は変わらないのだな、と小さく笑った。
しばしの間、彼は巨樹の前で佇んでた。その後、ゆったりと辺りを見渡してから歪な獣道を歩き出した。圧巻される木々を眺めるのも悪くは無いが、この世界をもっと知りたくなったのだ。
見渡す限りに樹海が広がっているというのに、どうしてかこの道を進めとばかりに足が動いていく。恐らくは、この肉体に残る記憶なのだろう。元より右も左も分からない場所だ。そういったものに従うのも悪くはない。
そこでふと思う。異形とはいえ、この肉体には本来の持ち主が存在していたはずだ。その者は何処へ行ったのだろう。自分が目覚めた時には既に死んでいたのか、それとも自分の存在によって消滅してしまったのか。
「それでも、私は……」
足を止め、彼は呟いた。不治の病によって長い生は望めなかった。健康であった体も徐々に衰え、入院してからは一人で歩くことすら困難になってしまった。
それが今。人間の姿ではなくなってしまったが、かつての体のように自由に動き回ることができる。この生命力に溢れる自然を全身で感じることができる。未知なる世界をこの目で見ることができる。
その事が本当に嬉しかった。本来の持ち主から肉体を、もしかしたら魂すらも奪い取ってしまったかもしれない事を押し流してしまうほど、嬉しかったのだ。
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それからどれくらい歩いたのだろうか。体感としては三時間は歩き続けているはずだ。なのに、疲労は一切感じない。当然というべきなのか、この肉体は人間とは比較にならない程の持久力を持っているらしい。
同行者がいないこともあり、彼は足早に獣道を歩いていた。景色は変わることなく樹海が広がっているが、圧倒されんばかりの巨樹は徐々に少なくなり、幾分も小さい木々が多くなってきた。とはいえ、人間であった身であればそれらも充分に大木と呼ばれるものであったが。
そして気がつけば、足元が濃い緑によって埋まっていた。鬱蒼と生い茂る草花によって歪だった獣道は完全に見えなくなっている。それでも彼に焦りや不安は無かった。
巨樹が姿を消し、空を隠していた枝葉もなくなった。未だに多くの木々はあるが、先ほどとは比べ物にならない程に空が良く見えた。時折吹く風は穏やかでありながら濃厚な自然の香りを運んでくれる。なんとも贅沢な森林浴だな、と笑う余裕すらあった。
「太陽がやや傾いている、ように見えるな。なら今は昼過ぎなのだろうか……」
眩い太陽を見上げながら呟いた。直視しないように翳した大きな腕にも既に慣れてしまった。
あの洞窟を出たのは恐らく、昼よりも朝に近い時間だったのだろう。以前の世界と全く同じだと信じているわけではないが、判断材料がこれぐらいしか無いのだから仕方ない。
「それにしても広い森だ。けど、人間の気配は全く無いか」
近くに転がっていた岩に腰掛け、辺りを見回した。どこを見ても無数の木々と生い茂る草花ばかりだ。どうやら相当に深い森にいるらしい。
ここまで来る途中、植物だけでなく動物の姿も幾つか見かけた。この肉体の拳大はあるだろうネズミに、中型犬と同じぐらい大きなウサギ。それに立派な角が生えた鹿に似た動物もいた。もっとも、それらは自身の姿を見ると全力で逃げ出してしまったけれど。
他にも獣の物と思われる黒い毛や、幾つかの木の幹には印のような爪痕があった。今も何処からか狼かあるいは犬の遠吠えが聞こえてくる。多くの動植物が生きる樹海だが、人間らしき痕跡は一切見ることは無かった。
「……もしかしたら、人類はいないのかもしれないな」
意図せず零れた言葉は、寂寥感が多分に混じっていた。異世界の住人達はどのように生きているのか、それを見てみたかった。過酷な世界を逞しく生きているのか、それとも驚くほど豊かな生活をしているのか。
予想以上に科学が発達してる可能性もあるし、小説や漫画などに出てくる魔法のような力が存在している可能性だってある。興味が尽きない異世界だが、一人ぼっちはやはり寂しい。
「いや、そうと決めるのは性急だな。この森すら出ていないというのに」
消沈しかけた心を奮い立たせるよう言い聞かせ、彼は力強く立ち上がった。広大な樹海だけしか知らず、まして半日も経っていないのだ。それでこの世界を知った気でいるなどあまりに愚かだ。
元より自然の多い場所は好きだった。森林浴をしながらのんびりと散策するというのも悪くはない。
「さて、と。先に進んでみるとしようか」
再び湧き上がってきた好奇心の向くまま、彼は歩き出した。




