第十九話
言葉を失って立ち尽くしていたトールだが、頭を軽く振ってから改めてエルトリィンの花に視線を向けた。光り輝くような、あの美しい花を間近で見ようと足を踏み出した時だった。
『トール、起きたんだね』
「ん? クロか?」
その声に辺りを見回してみれば、花壇からやや離れた場所にある木の幹から顔だけ覗かせたクロの姿があった。
「何をしているんだ、そんなところで」
『うん……ちょっと』
どうにも歯切れの悪い様子に、トールはエルトリィンの花ではなくクロの方へと歩みを進めた。近くに寄ってみれば、どうにも元気が無いように見える。
怪我などはしていないようだが、まさか病気にでもなってしまったのかと顔色を変えて右往左往し始めたトールにクロは慌てて今の状況を教えてくれた。
今日の朝、クロは何処からか漂う不思議な香りで目を覚ました。今まで嗅いだことのない甘い香りに、エルトリィンの花が咲いたのだと直感したという。
横で眠るトールに何度か声をかけたが、熟睡しているのか一向に目覚める気配がない。実のところエルトリィンの花がどのような姿なのか気になっていたクロは、申し訳なく思いつつも一足先に見に行くことにした。
花壇では予想通り、エルトリィンの花が美しく咲き誇っていた。早朝の澄んだ空気に濃密な香りが混ざり、風が吹けば全身を心地よく包み込んでくれる。
陽光を浴びて輝く白い花をもっと近くで見てみようと近づいた、その時――
「食べたくなった?」
『うん。普段は花なんか食べたくならないのに……』
クロを襲った衝動はかなり強烈なものだったらしい。それでも何とか抑え込めたのは、この花を咲かせるために一生懸命だったトールの姿を思い浮かべたから、だったという。ここで自分が食べてしまえばトールはきっと悲しむ。そう思えたからこそ、自身の衝動を跳ね除けることができた。
自制したことで欲求は去ったのか、花を食べたいとは思わなくなった。しかし、いつまた同じような事が起こるか分からない。自制できている内にこの場を離れるのが正解なのだろうが、ようやく咲いたエルトリィンの花はまだ見ていたい。
そのため少し離れた所から隠れるようにエルトリィンの花を見ていたらトールがやってきた、という事だった。
「そんな事があったのか……」
クロが食いしん坊だと知っているが、花を食べるほどではない。むしろ様々な花の香りを楽しむことの方が多かった。
何とも不思議な出来事だと思うが、それよりもクロが自分を思って頑張ってくれたのが嬉しかった。
『僕はここにいるから、トールはもっと近くで見てきなよ』
寂しそうな表情を浮かべ、悲しいことを言うクロにトールは笑いかけた。
「……何を言っているんだ、クロ。一人で見たってつまらないじゃないか」
クロの目の前まで歩み寄ったトールは、元気のないその頭をぐいっと少し強めに撫でた。
例えクロがエルトリィンの花を食べてしまったとしても構わない。エルトリィンの花を咲かせる方法が分かったのだ。種はまだ残っているし、また咲かせればいいだけの話だ。
それに、自分のためだけに苦労を重ねたわけではない。これまでクロと一緒に過ごしてきたのだ。試行錯誤の結果として無事に咲いたエルトリィンの花だってクロと一緒に楽しみたい。
そんなトールの気持ちが伝わったのか、力無く垂れていたクロの尻尾が大きく揺れだした。
「さ、行こう」
『……うん!』
顔を見合わせてから、二人は足取り軽く花壇へと足を進めて行った。
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美しく咲き誇るエルトリィンの花の前にトールとクロは座り込んだ。近づけば一層濃くなる甘い香りは、しかし、爽やかに鼻を通り抜けていく。ただ甘ったるいだけではなく清々しさすら残るとは、流石は幻の花であった。
「クロ、大丈夫か?」
『うん、平気。さっきのは何だったんだろうね?』
心配そうに歩いていたクロだが、こうして目の前まで来ても特に変わった様子は見られなかった。あの衝動は一過性のものだったのか、それともトールが一緒にいるからなのか。どちらにせよ、落ち着いて観賞できるなら問題はない。
「それにしても綺麗な花だなぁ」
『本当にね。こんな花、初めて見たよ!』
純白の大きな花びらが太陽の光を受け止めるように開いている。弧を描くように広がる花びらはヤマユリにやや似ているが、一枚一枚がより大きく数も多い。また、エルトリィンの花は驚くほどに白一色であった。
『どれぐらい咲いてるのかな?』
「本には二、三日の間は咲き続けると書いてあったな」
アーリス砦に残されていた文献によれば、エルトリィンの花は開花してから二日か三日は咲き続けると思われる、とあった。どうにも不確定なのは、開花から枯れるまで一連の流れを見た者がいないのが理由らしい。
これまで栽培に成功した例は殆ど無く、自然界に自生しているのも希少な幻の花だ。花そのものの情報はあれど、生態について詳細が残されていないのも頷ける。
とはいえ、生きている花である以上は何時か枯れてしまうだろう。どのようにして種を残すのか、それを観察するのも一興だ。
「この花は観賞用にしようか。しばらく様子を見てみよう」
当初、トールはエルトリィンの花を咲かせることが出来たらハーブティーにしようと考えていた。かつて、一部の王侯貴族のみが口にしたという逸品だ。彼らがどのように楽しんでいたのか、それを追体験したいと思っていた。
しかし実際に花が咲いた今、これからどうなるのかを知りたくなった。花が咲き続けるのは何日間なのか、この香りはいつまで持続するのか、どのようにして種を残すのか。最後まで見届けようと思う。
『うん! ずっと咲いていればいいのにね』
クロらしい素直な感想にトールは思わず笑ってしまった。実のところ、トールも同じような事を考えていた。もちろん、それは不可能だと分かっている。クロだって本気で言っているわけではないだろう。だが、そういった考えが浮かんでしまうほどエルトリィンの花は二人を楽しませてくれた。
トールが笑ったクロの言葉。それは別の形で実現することになる。その結果として慌ただしく走り回ることになるのは、それから数日後のことだった。




