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第十八話


 時が経つというのは早いもので、花壇が完成してから既に二月が経過していた。エルトリィンの種を植えてからというもの、トールは悪戦苦闘の日々を繰り返してきた。


 エルトリィンの種は三日で発芽し、七日で葉を伸ばし、十日で枯れていった。当初、トールはその成長速度に驚きつつ喜んだが、枯れてしまっては意味が無い。


 これまでに種を植えたのは四回。花壇の条件など関係ないとばかりに、全てが同じように成長してから枯れてしまう。蕾すら未だ確認できていない。書物にあった通り、エルトリィンの花を咲かせるというのは非常に困難だと思い知らされた。


 その間、トールは砦に残された書物をもう一度手に取った。地下室にも十冊を超える本があり、片端から目を通していった。エルトリィンに関する記述は多いとはいえなかったが、新たな情報を幾つか発見できた。


 エルトリィンの花は季節を選ばない、通年の花だとは知っていた。しかし、別の書物によれば、エルトリィンの花は過酷な火山性の土地や、水源乏しい乾燥地でもこれまで確認されてきたという。無論、自然豊かな場所でも確認されている。見つかるのは数輪だけとはいえ、咲く環境すらも問わないとは思っていなかった。


 恐らく、これまでもトールと同じようにエルトリィンの花を咲かせようとした人は多く居ただろう。何せ、季節も環境も問わずに咲くのだ。しっかりと管理すれば、栽培は容易だと考えてもおかしくはない。


 先人達が辿ったであろう結果に、トールもまた実体験を伴って辿り着いてしまった。


 そんな中、ある書物に記述された一文にトールは目を留めた。それによれば「エルトリィンの花は、魔物や魔獣が多く生息する土地で比較的良く発見される」らしい。また「彼らの魔力を豊富に含んだ鮮血こそがエルトリィンの花にとって最高の栄養素なのだ」とも書かれていた。


 他の書物には同様の記述は無く、信憑性は微妙なところである。それというのも、魔物達の血液は穢れた物であると複数の書物で散見できているからだ。実際に、致死性の高い毒薬の原料の一つでもあるらしい。


 本当にそのような物が必要なのだろうか。エルトリィンの花は、それ自体が高い薬効を持つともある。薬と毒は紙一重という言葉があるが、この場合も当てはまるのかは甚だ疑問である。


「魔物の血液……か」


 トールは本を閉じ、小さく呟いた。揺れる蝋燭の火に照らされた自分の腕に視線を落とし、しばしの間考え込んだ。魔物や魔獣の血液を用意するのは実に簡単だ。自分かクロの身を傷つければいい。無論、クロを傷つけるつもりなどないので、血を流すとなれば自分だけだ。


 栽培に失敗すること四回。種の残りも多くない。ここは思い切って、このとんでもない方法を試してみるのも悪くはないのかもしれない。


「藁にも縋る、と言うと少し違うかな」

『……トール? まだ寝ないの?』


 丸まっていたクロが眠たげな顔を上げた。ついつい漏れてしまった独り言で起こしてしまったようだ。


「いや、もう寝るよ。おやすみ、クロ」

『うん。おやすみトール』


 蝋燭の火を消し、トールも横になった。すっかり見慣れた砦の天井もほとんど見ることなく眠りについた。


******


 翌日、トールは花壇の前に立っていた。枯れてしまった前回分を引き抜いた後なので、今は土ばかりが広がっている。サツマイモの方は半分ほど駄目になってしまったが、残りは順調に育っている。それだけに、エルトリィンの花も見事に咲かせてみたいところだ。


 今まで種を植えていた場所から少し離れた所に、もう一つ小さな花壇を用意した。他の植物に影響が出ないように隔離してみたはいいが、どれほど効果があるかは未知数である。


 使用する種は二粒だ。一粒は開けた穴に入れたままにし、もう一粒は既に土を被せてある。種に直接血を滴らせるものと、土に血を染み込ませるものとに分けた結果だ。


 右手の人差し指の爪を鋭利な刃物状へと変化させた。ゆっくりと左の前腕に押し当ててから、静かに息を吐いた。


「……よし!」


 トールは意を決し、爪を滑らせた。予想よりも小さな痛みと共に、裂けた傷口から赤黒い血が溢れ出た。思った以上に深く切り裂いてしまったが、種と土に血を滴り落としている途中で塞がってしまった。そこで、自分の体に傷が出来たのが初めてのことだと気付いた。オーガが驚異的な回復力を持っているというのは間違いないようだ。


 血液で濁ったエルトリィンの種に土を被せてから、トールは全体に水を撒いた。どちらかが正しいのか、そもそもこの方法が正しいのかさえ分からない。全ては、十日後に分かるだろう。


「今日も良い天気だ。そろそろクロが帰ってくるかな」


 見上げた空は快晴で、ちょうど太陽が真上に来ていた。最近はエルトリィンの花ばかりで、あまりクロに構ってやれていない。朝も、今日は花壇で作業すると伝えたら少しばかり寂しそうにしていた。それでも気を取り直し、元気良く遊びに出て行った。昼過ぎには帰ってくると言っていたから、じきに姿を現すだろう。


「……またか?」


 昼ごはんはクロの好きな猪のモモ肉にしようか、等と考えていた時だった。唐突に視線を感じ、トールは周囲を見回した。けれど、動くものはおろかは影さえ見当たらない。耳を澄ませてみても、聞こえてくるのは風が枝葉を揺らす音だけだ。


 エルトリィンの花を育て始めてからというもの、こうした事象が度々起こっていた。最初は気のせいだろうと思っていたが、それが二度三度と続けば話は変わってくる。サツマイモを狙って猪が様子を伺っているというのであれば、どれほど気が楽だったか。


『ただいまー!』


 人知れず眉を顰めていると、クロの声が聞こえてきた。軽やかな足音が響くや、ひょっこりとクロが顔を覗かせた。


『どうしたの、トール』

「何でもないよ。そうだ、昼ご飯はモモ肉でいいかい?」

『やった、僕あれ大好き!』

「それじゃ、火の準備をしようか。私もすっかり腹ペコだ」


 視線を感じるだけで、何かが起こるわけでもない。気にならないといえば嘘になるが、トールは半ば無視するようにクロの頭を撫でた。嬉しそうに目を細めるクロに笑いかけ、一緒に歩き出した。


 最後に振り返って花壇を見回してみたが、当たり前ながら誰の姿も無かった。


******


 ――五日後。


 普通に種を植えた花壇も、血を注いだ花壇も、エルトリィンは芽を出していた。ただ、直接血を掛けた種だけは発芽しなかった。やはり魔物の血をそのまま掛けたのは良くなかったのかもしれない。


 今のところ、両者の成長具合に差は無いように見える。とはいえ、心なしか後者の方が逞しく育っているように思ってしまうのは、己の血を含ませたからか。


 このまま九日目までは順調に育つだろうと予想していた。今までは十日目の朝、遅くて昼過ぎには枯れてしまっている。残りは五日。今度こそ、と祈らずにはいられなかった。



 ――七日後。


 それぞれの花壇では、エルトリィンの花が順調に育ちつつあった。懸命に葉を伸ばす姿に、トールは心の底からエールを送っていた。巨大な怪物が小さな花を必死に応援する姿は、ある意味で滑稽かもしれない。だが、今のトールにとっては大事なことなのだ。


 三日後の朝には全ての結果が出るだろう。それまでは世話をしながら見守っていくつもりであった。



 ――九日後。


 いよいよ、前日となった。両方の花は今も茎や葉を大きく成長させている。ただ一点、血を与えた方に今まで見た事が無い変化が訪れていた。力強く伸びた茎の先に、白い蕾が出来ているのだ。八日目に蕾を確認できた時は本当に嬉しかった。


 エルトリィンの花は強く濃厚な香りがするとあったので鼻を近づけてみたが、僅かばかりの匂いもしなかった。開花すると同時に嗅げるのか、それとも未だに未成熟な蕾であるのか。


 もしかたら十日経っても咲かないかもしれない、とも思った。しかし、枯れなければ良いのだ。それに自身の血液が役立つと分かっただけでも次に活かせるというものだ。


 期待と不安を胸に抱いたまま、トールは静かに翌日を待った。



 ――そして、十日が経った。


 トールは前日の夜、朝まで起きていようかと思っていた。だが、ここまで来れば後はなるようになるさ、と考えを変えた。とは言うものの、やはり高まる期待感を抑えられていなかったらしく、クロから何度も落ち着くように言われてしまった。


 いよいよ迎えた十日目の朝。トールは興奮からか夜更かしをしてしまい、普段よりも遅くに目が覚めた。のっそりと起き上がり、体を大きく伸ばした。ついでに欠伸を一つしてから、横で眠っているとばかり思っていたクロの姿が見当たらない事に気がついた。


「クロ?」


 近くに気配はなく、がらんどうな室内にトールの声が小さく響いた。お腹が空いて、一足先に食事へ行ったのかもしれない。今までも何度かあったことであり、さほど気に留めなかった。ただ、朝食の事を考えたからか、トールの腹がぐうと鳴った。


「……そういえば、エルトリィンの花はどうなったかな」


 腹の虫が鳴く音を聞く者はいないが、感じた気恥ずかしさを誤魔化すように一人ごちながら扉に手を掛けた。


 眩い光に目を細め、トールは空を仰いだ。雲ひとつ無い晴天が広がり、少しばかり甘い匂いを含んだそよ風が全身を包み込む。なんとも言えない心地よさに、大きく息を吸い込んだ。


「今日も良い天気……だ、な」


 ゆっくりと深呼吸をしてから、トールは固まった。これまで嗅いだ事の無い匂いに今更ながら気がつき、慌てて砦の裏手へと足を向けた。


 逸る気持ちを抑えながら、花壇がある砦の裏手へと足を踏み入れた。甘い香りが一層強くなったと思う間もなく、トールの視界に一輪の花が飛び込んできた。


 太陽の光を受け止めるように大きく広がった花びらは、雪のような純白であった。陽光を浴びて咲き誇る様は、可憐であると同時に触れてはいけない神聖なもののように思えた。


 目が眩むほどに輝いて見えるのは、白い花びらのせいだけではないだろう。決して小さな花ではないが、躍動するような生命力に満ち溢れているのが分かった。人間であった頃も、そしてオーガになってからも様々な花を目にしてきたが、これほど美しい大輪の花に出会ったことはない。


 エルトリィンの花を前にして、トールは心奪われたようにただ立ち尽くしていた。

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