第十六話
蝋燭の火に照らされた階段をトールは慎重に下っていった。その後ろをクロが鼻を鳴らしながら続いていく。
最初に覗き込んだ時には分からなかったが、地下への階段は予想よりも短いものであった。ゆっくりと進んでいたのに、気付けば階段は終わっていた。
地下室はさほど広くはないものの、天井はトールの頭がぎりぎり擦らない程度には高い。身を屈めなければ入れないのでは、と危惧していたトールはそっと安堵の息を吐いた。
「それにしても……」
かつての住人は地下室を物置として利用していたのだろう。様々な物品が無造作に転がっている。棚に使い古された食器や調理器具が並んでいるのはいいとしても、破損している革鎧や折れた直剣、壊れた家具などが散乱しているのは如何なものか。
お世辞にも整理整頓されているとはいえない室内を見渡していると、照明用の燭台が設置されていることに気付いた。入り口と左右の壁に一つずつあり、トールはこれ幸いと手持ちの燭台から火を移した。
三箇所からの光は、室内を予想以上に明るく照らし出した。これなら多少時間がかかっても問題は無いだろう。トールは手に持っていた燭台の火を消し、近くのテーブルに置いた。
改めて地下室を見渡してみると、興味深い品物が幾つもあることに気付いた。中でもトールが心惹かれたのは、飾り棚に立てかけられている三本の直剣と大きな斧――ではなく、その近くに置かれている木箱であった。
その中には携帯用のランタンが二つに、未使用の蝋燭が十数本入っている。また液体で満たされている小瓶が五本あり、これはランタン用の油だろうか。
ランタンはさほど大きなものではないが、これがあれば夜でも森を進めるだろう。ただ、その為にはクリアせねばならない問題があった。
「どうやって使うんだ……?」
形状からランタンだろうと推測は出来た。しかし、肝心の使用方法が分からないのだ。日本での日常生活ではランタンなど使わないし、キャンプや登山といった趣味も持ち合わせていなかった。
取扱説明書が丁寧に付属しているはずもなく、使用法を訊ける人もいない。残念ながらランタンは再び放置することにした。少しばかり情けない気もするが、蝋燭だけでも見つけられた事を良しとしよう。
トールは木箱からランタンと小瓶を取り出し、近くにあったテーブルの上に置いた。他に何か持っていく物があれば、この木箱が役立ってくれるだろう。
抱えるのにちょうど良い大きさの木箱を持ち上げた時、クロが部屋の片隅で立ち止まっている姿が目についた。
「クロ、どうかしたのか?」
『なんか変わった匂いがする……ような気がするんだ』
クロの鼻先にあるのが小さな棚だと、そこで初めて気付いた。抱えている木箱と変わらない大きさであり、その上には灰色の布が被さっている。とはいえ、布一枚だけなので隠してあったわけでなさそうだ。
木箱を一度置いてから、トールは布を取り払った。僅かに埃が舞う先にあったもの、それは四本のワインボトルであった。
「これは……!」
その内の一本を慎重に取り出してみると、古ぼけたラベルに書かれている文字が飛び込んできた。
――パンネリッデ産 王暦五百三十一年。
生産地と生産年だろうか。他の三本も確認してみたところ、生産地こそ同じものの生産年は全て異なっていた。古いのは王暦五百二十九年から新しいのは王暦五百三十七年までとある。
今が何年なのかも分からず、生産された土地の名前も聞いた事がない。なんとも興味深い記述にトールは黙して考え込んでしまった。
『トール、トール。これなんだろ?』
「ん?」
あれこれと脳内で思考していたトールはクロの声で顔を上げた。
「何か見つけ……なんだこれ」
四本のワインボトルばかりに気を取られていたが、棚の奥にひっそりと置かれていた小さな木箱に気付いた。
トールの掌ほどの大きさで派手な装飾はなく、蓋の部分にヤマユリに似た一輪の花が彫られているのが印象的だ。使用している木材は上等に見え、経年によるだろう渋い色合いも重厚な風味となっている。全体的に簡素ながらも作りはしっかりとしており、それなりに値が張る一品と思えた。
「……意外と軽いな」
手にしてみると、その軽さに驚いた。蓋に彫られている美しい花に感嘆しつつ、改めて木箱を間近で眺めてみた。特に封印はされておらず、物は試しと蓋を触ってみたら簡単に開いてしまった。
木箱に入っていたのは布製の袋と一枚の紙切れだった。布袋の中身は植物の種らしいが、こんな真っ白な種は見たことが無い。人間の親指ほどの大きさがあり、細長い楕円形をしている。
折り畳まれた紙を開いてみると、たった一言だけ『エルトリィンの花』と乱雑な文字で書き殴られていた。この白い種を撒けばエルトリィンの花とやらが芽を出すのだろうか。
「クロ、エルトリィンの花って知っているか?」
『ううん、聞いたことないよ。でも、どんな花なのか分かれば見たことあるかも』
「確かに、名前だけではな……」
トールもクロも最果ての森を歩き回ってきた。動植物については地球で見聞きしたものもあれば、この土地で初めて目にしたものもある。その中にエルトリィンの花があった可能性は低くないはずだ。
「そうだ、昨日読んだ本なら何か分かるかもしれない」
寝室で見つけた本は、最果ての森の動植物などについて書かれていた。昨日読んだ限りではエルトリィンの花という文言は無かったが、まだ半分も読み進めていないのだ。何かしらの情報があってもおかしくない。
「クロ、一度戻ろうか。この花をちょっと調べてみたいんだ」
トールは膨れ上がる好奇心を抑えようとは思わなかった。こうして不思議な種を発見したのも何かの縁というものだ。
『ん、分かったよ。僕もどんな花なのか見てみたいしね』
その言葉を聞いたトールは、地下室を改めて見渡した。食器や調理器具など使えそうな道具が幾つかあったが、今は蝋燭とエルトリィンの種だけを持ち出す事とした。恐らく、この場所にはこれからも何度となく足を運ぶことになるだろう。
備え付けの燭台の火を吹き消し、トールとクロは地下室を後にした。
******
かつて最果ての森にはフォレストウルフと呼ばれる獣が生息していた。少数で群れを形成し、卓越した連携で獲物を追い詰める恐るべき猛獣だったという。鋭い牙や爪は大猪の分厚い皮膚を容易く切り裂き、森林で生き抜いてきた彼らは木登りすら軽々とこなしていたらしい。
しかし、二百年前の大戦時。最果ての森に発生した瘴気の渦により、生物としての性質が変化してしまった。灰色の毛並みは漆黒に染まり、巨大化した体躯と比例するように身体能力が大きく向上した。それに合わせて知能も向上したが、同時に凶暴性も増したという。それらは魔物化した獣の特徴であり、現在では黒狼やダークウルフなどと呼称されている。
「……クロは魔物だったのか」
トールは読んでいた本から目の前に座る魔獣へ視線を移した。先ほど炒ったウイカの実をカリカリと齧っていたクロが顔を上げ、小さく首を傾げた。
地下室から出た後、トールが起こした行動はエルトリィンの花の調査ではなく、食料調達であった。手持ちの食料が尽きている、という理由もあったが、腰を据えて調べたいと考えた。
アーリス砦の周辺にも猪や鹿は多く生息しており、木の実や山菜なども豊富だった。大食漢なトールとクロでも三日は持つだけの食料が確保できた。
狩った猪の血抜きと解体が終わった頃に昼時となり、幾つかの食材を使ってそのまま昼食とした。クロが食べているウイカの実は、おやつとして何個か炒っておいたものだ。
食後、しばし休憩してからトールはエルトリィンの花について調べ始めた。寝室の本棚に置いてある本を再び開き、読み進めていった。のだが、その途中で黒狼についての情報が目に留まり、気付けばそちらの項目に没頭してしまった。
その結果、クロが魔物に該当することを知った。もちろん普通の狼とは思っていなかったが、魔獣と呼ばれているとは思っていなかった。
『魔物? よくわかんないや』
「ま、クロはクロだものな。ウイカの実、もういっこ食べるかい?」
『うん! ありがと、トール!』
クロが魔獣だったところで何が変わるわけでもない。トールにとってクロは大切な友達だ。
「それにしても……エルフか」
再び本に目を落としたトールが小さく呟いた。最果ての森にはウッドエルフと呼ばれる者達もいたらしい。
魔物に変わってしまったフォレストウルフと異なり、ウッドエルフは二百年前の大戦時に別の土地へ移住したとある。彼らについての仔細は記されておらず、既に生活していた痕跡すら残されていないという。
エルフというファンタジーを代表するような存在とは語り合ってみたかったが、残念ながらその機会には恵まれなかった。いつかの日か、お目にかかりたいものである。
トールは更に本を読み進めていく。大猪や鹿などの動物について纏められており、一部にはスケッチも描かれている。これまで見たことがあるものもあれば、まったく初見のものもあった。
その中に、エルトリィンの花に関する文言を遂に発見した。それによれば、白く美しい大輪の花を咲かせるという。甘い香りも特徴で、ハーブティーとしても絶品らしい。また、薬草としての一面もあるようで、葉も花びらも様々な薬効があるとのことだ。妖精に手渡せば、不老長寿の霊薬『妖精の蜜』を作ってもらえる、というどこまで本当なのか判断に迷う記述まである。
しかしながら、栽培は非常に難しく、野生でも生育しているのは多くないとも書かれている。エルトリィンのハーブティーを口に出来たのは一部の王侯貴族のみであったという。
「……何とも興味深いな」
トールは種を数粒取り出し、掌で転がした。エルトリィンの花は想像よりもかなり希少な存在のようだ。花の姿形に関するスケッチなどは無く、どのような花が咲くのかは実際に目で見ないと分からない。
種をじっと見つめていたトールが顔を上げた。むくむくと膨れ上がる好奇心に比例するかのように、トールの顔に深い笑みが浮かぶ。自分が次に何をしたいのか、既に結論は出ていた。
「よし、決めた。私はエルトリィンの花を咲かせてみせるぞ!」
『よく分からないけど、僕も手伝うよ!』
気合を入れて力強く宣言してみせたトールに、クロも立ち上がって続いてくれた。
翌日より、怪物と黒狼の無謀ともいえる挑戦が始まった。文献に残されている通り、エルトリィンの花は栽培が非常に難しい植物であり、すぐにそれが事実だと思い知らされる。
けれど、彼らは地道に気楽に挑んでいく。それが、新たな出会いのきっかけになると知るのは、もう少し先の事であった。




