第十四話
アーリス砦を目指して行動を開始したトールとクロであったが、五日を過ぎた今でも目的地に辿り着いていなかった。とはいえ、進行方向を見失ってしまったというわけでもない。
進捗状況はむしろ逆で、明らかに人の手が入っているであろう道を二日ほど前に見つけている。長い間使われていなかったらしく、かなり荒れてしまっているが進むべき道で間違いはなさそうだった。
食料確保のために獲物を追い回したり、地図には無い小さな泉で休憩したりと、ついつい寄り道をしてしまい予想以上に時間を掛けてしまった。けれど、旅路は順調なのでトールもクロも焦ることなく足を動かしている。
そして、六日目の昼前。そろそろ食事にしようかと話していた時、木々の間から積み上げられた岩壁らしきものが見えた。トールはクロと顔を見合わせてから、ようやくアーリス砦に辿り着いたのだと理解した。
道を外れ、木々をすり抜けた先に現れたのは目を見張るほど重厚な石造りの建物であった。実のところ、トールはもっと小さな、それこそ山小屋のようなものを想像していた。地図に描かれているアーリス砦はお世辞にも立派なものとはいえず、実物も大したものでは無いだろうと思っていた。
それがどうだ。眼前の壁はトールが全力で殴りつけても揺るがないほど堅固に見え、圧倒されんばかりの迫力がある。
「ん、こっちは正面ではないのか」
自分達が進んでいた道は砦の裏手から伸びていたらしく、トールはぐるりと迂回してアーリス砦の正面に足を進めた。
「これは凄いな……」
『大きいねぇ』
真正面から改めて見直してみると、新たな感動が胸を抜けていった。
外見からの想像ではあるが、どうやらアーリス砦は一階建てのようだ。とはいえ建物自体の全高は低いわけではなく、巨体のトールが余裕を持って入れるほどの余裕がある。それに敷地面積も広く、建物の中央に位置する大きな扉も立派なものだ。
こうして見たアーリス砦は難攻不落の要塞というよりも、石造りの頑強な居館のようにも思えた。建築されてから少なくない年月を経ているだろうに、見える限り破損している所は確認できない。
「それにしても、静かなものだな。クロ、この辺りに生き物はいそうか?」
『……ううん。獣の匂いもしないし、息遣いも聞こえてこないよ。近くには何もいないみたい』
「やはり、誰もいないか」
鼻をすんすんと鳴らしてから、クロは首を横に振った。その答えは予想していた通りでもあり、トールは落胆することはなかった。
それというのも、この場所に辿り着いてから今まで生物の気配らしきものが一切感じ取れなかったのだ。自分より鼻も耳も良いクロでも察知できないのならば疑いようもない。
また、アーリス砦の周囲は雑草や草花が好き放題に伸び、かつては整備されていたと思われる道も荒れ果てている。無数の土塊の山があちらこちらに点在しているのも奇妙な光景であり、同時に不気味だった。推測ではあるが、人が立ち入らなくなってから数年以上は経過しているように思えた。
『トール、どうするの?』
「せっかく来たんだ。ちょっとお邪魔していこう」
長年放置されているというのも、ある意味では好都合だ。多少の経年劣化はあるが、建物自体はまだまだ持つはずだ。もしも忘れ去られているのなら新しい住居として使わせてもらおう。
砦にある唯一の扉の前にトールは立った。自身の背丈とほぼ同じ大きさの両開き扉は、叩いた感触から金属製だと推測した。ただ、鉄や銅といった見知った材質ではなく、何で出来ているのか見当もつかない。
扉には天を睨みつけるドラゴンの姿が浮き彫りで描かれ、その咆哮が今にも聞こえてきそうだ。
「――動かないか」
片手で軽く押してみたが、扉は全くといっていいほど動かなかった。
『開かないの?』
「鍵穴は無いから施錠はされていないと思うんだ。もう一度、押してみよう」
トールは背負っていた篭を置き、腰に紐で結び付けていたナップザックを外した。両腕をくるりと回してから、扉に手をついた。
「ぐっ……」
肩の筋肉が盛り上がり、力強く踏みしめた両足が地面にめり込んでいく。思っていたよりも扉は重く、トールは歯を食いしばって力を込めた。すると、僅かではあるが鈍い音と共に開き始めた。
「こ、の――ッ!」
砦の中に光が差し込む程に開けば、後は一気に押し切る事が出来た。大きく重い扉が遂に開かれたのだ。
陽光により、薄暗いながらも砦内が目に飛び込んできた。埃やカビなどの異臭が充満しているかと思っていたが、予想に反して鼻を衝く臭いは小さかった。
思ったよりも天井が高く、内部もずっと広く感じる。人間だった頃に見た観光地の古い遺跡とはまた違う、重厚な静謐さがとても心地よかった。
「おお、本物の暖炉だ。まだ使えそうだな」
扉を開けて最初に目に付いたのは、使い古された暖炉だった。電化製品が溢れる日本での生活で暖炉を見る機会など滅多にない。こうして間近で見る事すら初めてだ。
かつては憩いの場だったのだろう。一部は壊れてしまっているが、周囲には幾つかの椅子と簡素なテーブルが残されている。
暖炉があるこの場所は砦のほぼ中心に位置し、奥には台所と思われる少しばかり小さな部屋があった。食べ物や水などは見当たらず、砦を無人にする際に全て廃棄したらしい。ただ、大きな薪焜炉と鉄製のフライパンや小型の鍋などの調理器具が幾つか残されていた。
人間の使用が前提のため、トールから見れば台所は非常に狭い。けれど、調理器具も台所自体もまだ使えそうだった。これ以上を望むのは贅沢というものだろう。
リビングとダイニングを兼ねた中心区画には、左右に一つずつ扉があった。トールはまず、アーリス砦を正面から見た際に右側となる扉を押し開けてみた。光源が無いため薄暗かったが、すぐに慣れた目に飛び込んできたのは、真っ直ぐ伸びる通路であった。
人間が使うにしては随分と広く設計されていて、僅かに腕を擦りつつも通ることができた。通路左手には三つの寝室があり、室内はさほど広くはない。成人男性が寝泊りするには二人か三人、詰め込んで五人といったところか。
三つの部屋は共同で使用していたのだろう。獣の革で作られた寝袋が数枚放置されている。小さなエンドテーブルが二個置いてある以外、家具は見当たらない。
そして通路の突き当たりには木製の立派な扉が存在していた。それは巨体のトールでも問題なく通れるほどに大きい。お世辞にも綺麗とはいえず、出入り口に扉すらついていない三室に比べれば明らかな違いがある。
「鍵は……掛かってないか」
金属製の取っ手を指で引っ張ってみると、思いのほか簡単に扉は開かれた。
『暗くてよく見えないや』
「雨戸を開いてみよう。そうすれば光が入ってくるはずだ」
部屋に入ってすぐの場所に木製の大きな雨戸があり、微かに陽光が漏れていた。雨戸は腐食もなく、驚くほど良い状態だった。それを壊さないようにそっと開くと、新鮮な空気と共に眩い光が室内に差し込んだ。
室内は予想よりもずっと広かった。大きなベッドが置いてあるのに、余ったスペースでトールが大の字に寝転がれるほどだ。
ベッドの脇のエンドテーブルも他の部屋にあったものよりも上等なもので、その上に置かれている燭台も立派な一品だ。蝋燭もまだ残っているし、夜になったら使わせてもらおう。
『ここ広いね。下もふかふかするよ』
トールに続いて足を踏み入れたクロは、敷かれている絨毯の感触が気に入ったらしい。前脚で何度か叩いてからごろりと寝転んだ。
ベッド以外には、衣服を収納するためのものだろうか。木製の棚が二つ置かれている。どれも多少の埃を被っているが、壊れているわけではないので少し掃除をすればすぐに使えるだろう。いくら大きなベッドといっても人間用なので、この巨体では腰掛けることも出来ないのが残念でならない。
「クロ、まだ掃除していないんだから汚れるぞ」
『もうちょっとだけー』
言葉とは裏腹に、ぱたぱたと揺れていた尻尾が動かなくなってしまった。まったく困ったものだ、とトールは苦笑いを浮かべてクロの頭を優しく撫でた。こんなに気持ちよさそうに眠っているのに叩き起こすというのも気が引ける。
なるべく音を立てないようトールは棚を開けてみた。推測は間違っておらず、衣服棚には簡素なチュニックが二着に厚手のズボンが三着入っていた。最初は子供用なのかと思ったが、つい自分の大きさを失念していた。
もう一つの棚も同じだろうと軽い気持ちで開けたトールは、驚愕に目を見開く事になる。彼の視線の先にあったもの、それは無数の本であった。どの本も背表紙には何も書かれておらず、大きさも様々だ。けれど本そのものの状態は悪くない。
「土の特性と適性……?」
手に取った本の表紙には、そう書かれていた。日本語でも英語でもない文字なのに、自然と理解できるというのは不可思議ではあったが、今は有難くもあった。
トールの大きな手でも難なく扱えるということは、この本は人間にしてみればやや大きいサイズだろう。とはいえ握力は比べ物にならない程なので慎重に扱わねばならない。破かないようにそっと本を開いた。
「…………さすが、異世界だな」
題名から土壌を豊かにする方法や、野菜などの栽培に適した環境を記した本だと思っていた。しかし、それは現代日本で生きていた人間の感覚だったようだ。
ゴーレム、魔法、練成、魔導核。頭が痛くなりそうな単語が並び、あちらこちらに魔法陣らしき図が散見される。飛ばし飛ばしに読み進めていくと、この本はゴーレムと呼ばれる魔法造形物について解説した、参考書か教科書のようなものらしい。
トールは静かに本を閉じ、そっと元の位置に戻した。自分のような存在がいて、人間の装備が革鎧と直剣だった時点でファンタジー世界を連想してはいたが、まさか本当に魔法があるとは。
小説や映画のような魔法には非常に興味があるし、何より面白そうだ。けれど、いきなり文献を漁ったところで理解できるとは思えない。今は殆ど分かっていないこの世界についてもっと知るべきだろう。
次に手にした本は、これまで彷徨い歩いてきた最果ての森について書かれた物であった。森に存在している様々な動植物を調査、研究した結果の資料は人間側の視点で記されたものであり、新たな発見があるに違いない。
トールはその場に座り込み、黙々と本を読み進めていった。
*******
時も忘れて読書に没頭していたトールだったが、いきなり室内に響いた腹の音に顔を上げた。
『トール、お腹空いちゃった』
先ほどまで寝ていたクロが空腹から起き出していた。
「そういえば、昼も食べていなかったな……」
昼前にアーリス砦に到着してから何も口にしていない事を思い出した。窓の外では太陽の光が茜色に変わりつつある。トールも集中が途切れると同時に空腹を覚えていた。
「よし、それじゃ遅い昼食……というより早い夕食か。食事にしよう」
読みかけの本を閉じ、トールはゆっくりと立ち上がった。凝り固まった肩を軽く回しながら部屋を出て行くトールを、尻尾を揺らすクロが続いていく。
再び中央の大きな部屋に戻ってきた。篭の中には猪の肉とリンゴが三個入っている。それに拳大もある大きな木の実も幾つか残っていたはずだ。大喰らいのトールとクロの胃袋を満たすには充分な量だ。
砦の台所を使ってみようかとも思ったが、薪などが無かった事を思い出した。それに巨大な水瓶も空っぽだった。今日は外で食事をした方が賢明だろう。
「あ、そうだ。そういえば台所にフライパンがあったな」
置いてあった篭を肩に引っ掛けた時、先ほど見つけた懐かしい調理器具が頭を過ぎった。
『フライパン?』
「あると便利な道具さ。ほら、これだ」
無造作に置かれていたフライパンを手に取り、破損が無いかを確認してみる。長く放置されている割には錆びも浮いておらず、歪曲なども見られない。多少の埃も洗えばすぐに落ちるだろう。
「……どうして良い状態を保てるんだ?」
ふと疑問が浮かび上がった。この砦は人の手が離れてから数年は経過していると考えていたが、それにしては保存状態が良過ぎる気がした。砦内にある木製の家具も腐食しているわけではないし、寝室の窓にあった雨戸も充分に機能している。
『トール? どうしたの?』
「ああ、なんでもないよ。近くで見つけた泉で食事にしよう」
ここで考え込んでいても答えなど出ないだろう。使えるものは使わせてもらう事にした。
急かすクロを宥めつつ、トールは砦の扉を閉めた。先ほど開いた時の重さが嘘のよう軽い。何とも不思議な建物だが、未知の異世界なのだから思いもよらない力が働いている可能性もある。
それを探ってみるのも一興だ、とトールは笑いながら先を行くクロの後を追った。




