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第十話


 辺りが夕日によって茜色に染まりつつある中、怪物と狼はやや早い夕食を始めていた。手早く組んだ即席の竈に石板を置き、肉を焼き始める。今まで一連の作業をじっと見つめていた狼の尻尾が、それに合わせるようにぶんぶんと動き出した。


 手持ちの肉はあまり多くはないが、大きなリンゴもある。しかも、狼がもう一個取ってきてくれた。腹を満たすには充分だろうし、もしも足りなければ鹿や兎を狩りに行けばいい。


「こんなものかな。熱いから気をつけて食べるんだぞ」


 皿代わりに敷かれている大きな葉に焼きあがった肉を移すと、すぐさま狼が喰らい付いた。野生では加熱した食物を口する機会が無いため、動物は所謂『猫舌』であるとされている。けれど、目の前の狼は熱の冷めていない肉に躊躇せず齧り付き、美味しそうに食べ始めた。


『そのままもいいけど、こうして食べるともっと美味しい』


 肉を焼いて欲しいと言ったのは狼だった。あの時食べたこんがりと焼き上がったモモ肉は何よりも美味しかったらしい。


 前脚で器用に肉を抑え付け、牙で噛み切っている狼の姿に小さく笑いながらブロック肉を切り分けていく。やや弱まってきた火に小枝を投げ入れ、さっと肉を石板に置いた。


 次の肉が焼けるまでの時間を利用し、彼は大きなリンゴを手に取った。変形させた人差し指の爪で切れ目を入れ、両手でぱかりと二つに割った。


 黄白色の果肉が見えた途端に舞い上がる甘い香りに、肉を貪っていた狼も顔を上げた。


「では早速。いただきます」


 齧り付いた瞬間、濃厚な甘みが口内に広がっていった。果肉は意外と歯ごたえがあり、咀嚼するたび果汁が溢れていく。嚥下すると同時に爽やかな酸味が通り抜け、後味は驚くほどすっきりとしていた。


「こんなに甘いとは思わなかったな。お前も食べるか?」

『ううん、お肉の方がいいや』


 果実の美味しさに頬を緩ませながら聞いてみたが、どうやら肉の方が好みらしい。あっという間に最初の一枚を平らげた狼はちらりとリンゴを一瞥しただけで、視線は石板に戻されてしまった。


 見れば、ちょうど片面に火が通った頃合だ。焦げてしまっては台無しなので、爪を引っ掻けてひっくり返すと、また狼の尻尾が揺れ始めた。



 肉が焼けるのを尻尾を振って待ちわびる狼と、リンゴを食べながら片手間に肉を焼いていく怪物。何とも奇妙な光景がそこにあった。


******


 結局、持っていた肉は全て狼が平らげた。逆に大きなリンゴは二つとも怪物が食べきった。予想以上に水分を含んだリンゴは充分に腹を満たし、狼も満足そうに伏せている。怪物と狼は食後の穏やかな一時を満喫していた。


 そのまま焚き火を囲って様々なことを語り合った。今までのことや最近のこと、そして何よりも大事だった、お互いのことを。


 ただ、その途中でお互いに名前が無いことが判明した。考えてみれば誰かと話をする機会など皆無であり自分の名前など気にしたこともなかった。それは狼も同じらしく、今まで名前について考えたこともなかったという。


 名前をつけてほしい、と狼が言い出したのはそれから二言三言の会話を交わした頃だった。最初は戸惑ったが、いつまでも「お前」などと呼び続けたくは無かった。


 その結果、彼は狼に『クロ』と名前をつけた。由来は言うまでもなく、その黒い毛並みからである。もっと気の利いた名前が頭から出てきてくれればいいのだが、昔からこういったセンスは壊滅的だった。とはいえ流石に安直過ぎたか、と思ったが狼――クロは嬉しそうに何度も何度も確かめるようにその名前を口にした。



 気に入ってくれて何より、と内心で安堵していると不意にクロが静かになった。どうしたのだろうと視線を向けてみれば、じっとこちらを見つめているクロと目があった。


『そういえば、君の名前はどうするの?』


 そんなクロから飛び出たのは、素朴な疑問だった。


「私の……名前か」


 この肉体の本来の主に名前があったのか知ることは出来ないが、かつて人間であった頃の自分には名前があった。けれど、怪物となってしまった今もそれを名乗っていいのだろうか。


『どうしたの?』

「……いや、何でもない。私の名前は高崎透。透と呼んでほしい」


 しばしの間考え込んでから口にしたのは、人間として生きていた時の名前だった。死して怪物となってしまったが、過去の思い出が消えたわけではないのだ。


 改めて口にしてみると、途端に懐かしさがこみ上げてくる。異世界で目覚めてから意識など殆どしなかったというのに、何とも自分勝手なものだと小さく笑った。


『トォル……トール?』


 あまり馴染みのない単語だからか、クロは名前を繰り返し呟いては首を傾げている。微妙にアクセントが違っているが、不思議と悪くない耳心地だった。


「クロ。私のことはトールでいいよ」


 些細な違いであるし、何よりも今の自分は高崎透という人間ではないのだ。今の自分はただのトールであり、その方が似合うような気がした。


『うん、分かった。これからトールはどうするの?』

「そうだな、しばらくは樹海を見て歩くつもりだ」


 クロの問い掛けにトールは気楽に答えた。元より、これといった目的があるわけではない。ただ、いつかは樹海を抜けてみたいと思ってはいる。


「そうだ。クロはこの森を出た事はあるか?」


 ふと思いついた疑問を口にした。二足歩行の鈍足な怪物より身軽に駆ける狼であれば、行動範囲は広いはずだ。


『ううん。あまり遠くまで行ったことないけど』

「そうか。まぁ、いつかは森を抜ける時がくるだろうさ」


 クロの答えに落胆することはなかった。広大な樹海といえど無限に続いているわけではないはずだ。のんびりと歩き回っていれば、そのうち森の終わりに辿り着くだろう。


「そこでだ。よければ一緒に行かないか? 互いに助け合えば探索も楽になるし、狩りの効率も上がるはずだ」


 先ほどのリンゴとてクロがいなければ食べられなかった。一方で肉を切り分けて焼き上げる事はトールにしか行えない。トールに出来ない事もクロならば可能だという場面はこれからもあるだろうし、逆もまた然りだ。


 もっともらしく理由を挙げてみたが、結局のところは共に旅をする仲間が欲しいだけなのだ。この樹海で自分を恐れずにいてくれる狼がクロ以外にいるとは思えない。一緒に旅が出来れば会話を弾ませながら進めるし、多くの感動を共有できる。寂しさだって紛れるはずだ。



『一緒に行っていいの?』


 クロはきょとんとした様子で聞き返してきた。トールからそのような提案がされるとは夢にも思っていなかったようだ。


「もちろんだ」

『お肉、また焼いてくれる?』

「お安い御用だ。ああ、でも代わりにまたリンゴを取ってくれると嬉しいな」

『うん! 僕、トールと一緒に行くよ!』


 嬉しそうに立ち上がったクロの尻尾が大きく揺れている。その様子にトールも凶相をやや緩ませて小さく笑った。



 森のはぐれ者同士はその夜、遅くまで語り合った。やがて空が白み始める頃、樹海の片隅で奇妙な光景が見られた。


 手足を広げて大の字で眠る巨体の怪物と、それに寄り添うように丸くなっている黒毛の狼。明け方のやや冷たい空気の下、彼らの寝顔はとても穏やかなものであった。

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