第一話
見渡す限りに広がる木々はどれもが巨木であり、その樹海が古くからある事を物語っている。遠くから響く獣の咆哮や、時折吹く風によって枝葉が揺れる音が薄暗い森を一層不気味に思わせた。
太陽が真上に位置しているというのに、天高く伸びた巨樹の枝葉が広がっているせいで地表には僅かばかりの陽光しか届かない。そんな森の中に踏み均された獣道が存在していた。
その獣道を悠々と闊歩する巨体が一つあった。大地を踏みしめる両脚と物を持つ事が出来る二本の腕。四肢を持つ二足歩行の生物は、しかし、人間ではありえない容貌であった。
身に着けているものは魔獣の毛皮の腰巻だけだが、たくましく発達した筋肉が全身を包んでいる。その姿はさながら強固な鎧を装備した重装騎士を思わせた。巨躯に張り詰めた皮膚は温かみを帯びない薄蒼であり、露出している場所には一つの傷も見当たらない。
目に映る全てのものを憎むかのように吊り上った双眸に、獲物を喰いちぎるためだけに発達した鋭い牙が並ぶ大きな口。破壊衝動を凝縮したような凶悪な顔つきは、心の弱いものが見れば卒倒する事だろう。
オーガ。数多く存在している亜人種の中でも、最も恐れられている魔物の姿がそこにあった。
******
彼は満足していた。つい先ほど、巨大な猪を豪快に喰らい尽くして腹が膨れたからだ。元より薄暗い森であったが、陽が沈んだ今となっては完全な暗闇が支配していた。
夜目がきくオーガにとってはさして困るようなことにはならない。また長年棲みついてる庭のような森だ。迷うことなく棲み処である洞窟へと帰ってきた。
洞窟といっても入り組んだ横穴ではなく、やや窮屈な出入り口さえ通れば広大な空間があるだけだ。その中心部に無造作に置かれている数枚の魔獣の毛皮が彼の寝床であった。
食欲を満たした後はのんびりと眠る。このまま朝まで眠り、起きれば食欲を満たすため適当な獲物を探して森を歩き回る。腹が満ちればここに帰って寝る。それだけだ。
気ままな生活をしているオーガにとって今日も何も変わらない一日だった。もう何年も繰り返してきた生活。
これからもずっと続くだろう日々が、この夜をもって一変することとなる。
「――ッ!」
それが訪れたのは、突然の事だった。ぐっすりと眠っていたオーガは突如として全身を襲った激痛に跳ね起きた。
「ガッ……ア、ア、アァアアァァッ!」
唸り声とも叫び声ともつかない咆哮が洞窟に響くが、気が狂わんばかりの激痛は一向に引くことはない。更には耐え切れないほどの頭痛が始まり、オーガは地面に頭を叩き付けた。
普通ならば額が割れ、血が吹き出るところだが、彼の場合は裂けるどころか逆に地面が大きく窪んだ。オーガが持つ強靭な皮膚の証左だが、今の状況では何の慰みにもならない。
外部からの攻撃には驚異的な耐性を持つオーガも内部からの、それも原因が一切分からない激痛には為す術がない。無様にのた打ち回っていたが、遂にはその体力までも失い始めたのか、動きが鈍くなっていく。そして、不意に洞窟内が静かになった。
******
その時、緩やかに意識が覚醒していくのを感じた。どのくらい眠っていたのか分からないが、気分は悪くなかった。
長い夢を見ていたような気がした。それが良い夢だったのか、それとも悪い夢だったのか。どうしてか思い出せそうもなかったが、それで良いのだと誰かの声が頭に響いた。
ゆっくりと開かれた視界に飛び込んできたのは、薄暗い岩肌だった。どこかで地下水でも流れているのか、小さなせせらぎの音が聞こえる。
大暴れしていたのが嘘のように、彼は静かに起き上がった。頭に残る鈍痛に顔を顰めながら周囲に視線を走らせていく。
「ここは……私は一体……?」
見たところ、広い洞窟のようだ。発光性の苔による僅かばかりの光源しか無いが、それで充分なほど洞窟内が良く見えた。自分以外の生物の気配は一切感じられない。不思議と怖いとは思わず、それが当たり前の事だと頭の片隅で理解できていた。
それにしても、どうしてこんな所で寝ているのだろうか。酒に酔っていたとしても、こんな場所に迷い込んで寝入るとは思えない。それに自分は気軽に出歩けるような状況ではなかったような――
「ああ、そうだった」
ようやく頭が動き出してきた。そうだ、自分は以前から患っていた病によって先週から入院していたのだ。それも絶対安静を言い聞かされていた上で。
昨晩、強烈な発作を起こした事を覚えている。というより、それ以降の記憶が無い。最後に見たのは必死の形相で何かを叫ぶナースの姿だ。
「……そうか。私は死んだのか」
長くは無いだろうと主治医は言っていたが、まさか一週間も持たないとは思わなかった。と半ば他人事のように思い返し、彼は小さく笑う。
生物にとって最大の恐怖であるはずの『死』を迎えたというのに、自分でも驚くほどその事実を平静に受け入れていた。案外、死を目前にした人というのは落ち着くものなのかもしれない。
「しかし、これは一体どういう事なんだ」
自分は間違いなく死んだはずだ。それなのに、今こうして洞窟のような場所で目覚めた。それも以前とは明らかに違う体で。
視線を落とせば丸太の如き両腕がある。鎧のように発達した筋肉が全身を包み、暖かさをまるで感じない薄蒼の肌が張り付いている。近くに転がっていた拳大の石を握ってみたが、大して力を込めていないのに粉砕できた。
この体は間違いなく人間のものでは無いだろう。昔見た小説や漫画の中で登場した怪物や化物の姿に近い気がする。もっとも、この世界ではこれが『人間』だと呼ばれている可能性も否定は出来ないが。
ともかく、自分はこの異形の肉体に魂だけ憑依してしまったのだろうか。荒唐無稽な話もいいところだが、実際にこうして存在しているのだから笑う事は出来ない。
「……それにしても、ここはどんな世界なのだろう」
一通り自分の体を確かめてみた後、彼は小さく呟いた。人間としての生を終え、怪物としての生が始まったかもしれないというのに、全身を支配したのは強烈な好奇心であった。
この世界にはどのような光景が広がっているのだろう。雄大な自然が広がり、多くの緑が茂る豊かな土地なのか、それとも生きていくにはあまりに過酷な地獄のような大地なのか。
それに、人間はどうだろう。存在しているのならば、文明や文化、科学技術といったものはどれだけ発達しているのか。
自分のような異形が存在するのならば、それこそファンタジー小説のような世界かもしれない。一方で、この肉体は高度に発達した技術により意図的に生み出された、一種の生物兵器である可能性も捨てきれない。
どちらにせよ、この薄暗い洞窟の中では何も分からない。そう思った瞬間、自然と体が動いていた。
ゆっくりと立ち上がり、改めて体を見下ろした。この体が二足歩行でよかった。動き自体は人間であった頃と変わらない。力の入れ具合などはまだ掴みきれないが、やがて慣れていくだろう。
湧き上がる好奇心に突き動かされるように、彼は足を踏み出した。逸る気持ちを抑えながら窮屈な出入り口を潜り抜けた。
天高く伸びる無数の巨樹と、それに見合った枝葉によって遮られた僅かばかりの陽光。穏やかな風が吹くと濃厚な自然の香りが突き抜けていく。遠くから何かの獣の咆哮が聞こえた。
それが、彼にとって『未知なる世界』との最初の出会いであった。