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Session #2 Face To Face (4)

「ところで、亜実ちゃんだっけ?」

「は、はい?」

 カウンターの裏で、それまで黙って洗い物をしていたマスターが急に亜実に声をかけた。

「『リカード・ボサノヴァ』なんて、ジャズになじんでない割にはずいぶん渋いとこ押さえてるんだね? 何かあるのかい?」

「あ、いや、その……」

 一瞬、亜実は口ごもった。

 マスターからすれば、新しく来た女の子に早く慣れてもらいたいという、単純な好意だったが、この時の亜実は微かに狼狽の表情を見せた。

「母がよくかけてたんですけど……わたしが聞いていたのは詞がつけられた歌物で、確かイーディ・ゴーメだと」

「イーディ・ゴーメ? ずいぶんまた古いやつなんだなぁ」

「母は昔、音楽の先生で、ジャズは余り興味はなかったみたいなんですけど、この曲だけは別だって、いつだったかいってました」

「へぇ……」

 一九五九年に作られた『リカード・ボサノヴァ』は一九六〇年代になって『ザ・ギフト』というタイトルで英詞がつけられた。イーディ・ゴーメのヒットも六〇年代初頭の話だ。

「そういえばイーディ・ゴーメの『ザ・ギフト』って、最近CMで流れてたよね?」

「そ、煙草だよ、確か煙草」

 小夜子がいうと良和が笑った。優人にも覚えがあった。

 この頃、イーディ・ゴーメの気だるい歌声が煙草のCMソングとして頻繁に流れていた。

「亜実ちゃんはCMは聴いた?」

「いや、正直、テレビはあんまり見ないし」

「それじゃ、昔のレコードで聴いただけなんだ」

 優人は新しい煙草をくわえた。

「あれ、亜実ちゃんのお母さんって、今いくつなの、年は?」

 亜実の顔を覗き込みながら、マスターが訊ねた。

「確か、今年で四三歳……」

「げーっ! じゃあ、俺と同い年ってことかよー!」

 マスターは心底ショックな顔をした。もし平凡に結婚していたら、眼前の少女くらいの娘がいてもおかしくないという現実があった。

「でもレコード買ったのはずっと後ですよ」

 そのレコードも亜実が中学に進学する頃には完全に擦り切れて聴けなくなってしまい、捨ててしまったという。

「ねぇ、何もそこまで露骨にしょげることないじゃない、マスターさぁ」

「うるさい、姪っ子に慰められても嬉しかねぇよ」

 小夜子が面白がって話に割り込んできた。まだ立ち直れず、頭を抱えるマスターにしっかり畳みかけていた。

「ふーん、じゃ、お父さんは?」

「あ、建設会社やってます……」

「そうか、それじゃ、社長令嬢ってところだ」

「そ、そんな云い方……」

 やや作り物めいた笑みを浮かべるマスターの質問に、亜実が一瞬口を尖らせた。

 マスターは、余り他人の素性に立ち入ろうとするタイプの人間ではない。だから優人はこの時、微かな違和感を覚えた。

 直後、この日の集まりは終わった。他の客の邪魔にならないように自分達の片づけを始めた。

 汚れた小皿を重ね、カウンターに持ち込んだ優人の腰の辺りに、置かれていた灰皿が当たった。

「あっちゃー……ん?」

 落ちた灰皿を慌てて拾おうとした優人は、中に入っていたのが名刺の束だったことに気づいた。

「あー、やばいやばい」

 名刺は、地元の信用金庫の営業担当者や商工会議所の関係者など、店を回すに当たっての仕事の関係者が訪問の証しとして残したものだった。マスターは几帳面で、こういった類のものはきちんと整理して早めに片づけてしまうのが常だったが、春先で忙しかったのか、空いた灰皿に仮置きされていた。マスターの筆跡で書き込まれた日付も三月末から四月にかけてのものばかりだった。

「あれ?」

 拾い上げた最後の一枚を、優人はまじまじと見詰めた。

 樋川建設株式会社営業部主任――名刺の肩書きにはそうあった。

〝樋川建設って……亜実ちゃん?〟

 優人は慌て、拾い上げた名刺の束の中ほどにそれを押し込んだ。

〝だとしても何で建設会社の人間がこの店に? 大体マスター、彼女の素性を知ってたってこと?〟

 周りに悟られないように元あった灰皿に束を収め、カウンターの元の場所に置き直した優人は、さっきの微かな違和感が漠然とした不安感に膨れていくのを感じた。

「優人ー、行くよー」

「あ、分かった」

 小夜子の威勢のいい声が、優人の不安感を、この場は吹き飛ばした。優人は手早く鞄とフライトケースを担いだ。

 夜の八時を回った頃、優人達は〝サヴォイ〟を後にした。

 スティックケースを抱えた裕孝と、ソフトケースを背負った良和が、それぞれ〝じゃ〟〝お先に〟といい残し、自転車で帰っていった。更に近くのアパートで一人暮らしをしていた拓哉が〝亜実ちゃん、後はよろしくね〟と軽口一ついい残し、徒歩で帰路に着いた。

 三人残ったところで小夜子が優人のそばに寄り、鼻先まで顔を近づけた。

「優人、アタシが知らないうちにずいぶん上手いことやるようになったじゃないの。あんな()、どうやって掴まえたのさ?」

「小夜子、お前何がいいたい?」

「別に……ただねえ、今日あの()紹介する時のあんたがまるで腫物を触るみたいだったのが可笑しくてね。ソロの時だってなんかいつも以上に張り切ってたみたいだし」

「バンドやったことないってんだぜ。気使って当たり前じゃねえか」

「ふーん……ま、いいけどさ。あーあ、誰かアタシにも気を使ってよー」

「気使って欲しけりゃ少しは恥じらえ」

 いった途端、小夜子の肘が優人の脇腹にヒットした。優人は一瞬息を詰まらせた。

「あ、あの……今日はどうも……」

 優人達のやり取りを黙って見ていた亜実が、突然声をかけた。二人は驚いて振り向いた。

「次の練習はいつですか?」

「一応おれ達、毎週土曜か日曜を練習日にしてるけど、なかなか毎週というわけにはいかないからね……取り敢えず明後日くらいにおれの家に電話して。一人暮らしだから少々遅くても構わないから。電話番号は……」

「ちょ、ちょっと待ってもらえます?」

 慌てて亜実は鞄から住所録とシャープペンを取り出した。彼女がメモが取れる用意ができたのを確かめてから、優人はゆっくりと家の電話番号をいった。

「じゃ、そろそろアタシ、バスが来る頃だから。バイバイ……亜実ちゃん、頑張ろーね」

 小夜子は軽く手を振って、ギターの入ったソフトケースとエフェクターラックを抱えてバス停の方に歩き出した。

 優人の右隣にいる亜実は、小夜子の後ろ姿をじっと見詰めていた。

「ねえ、何見てんの?」

「小夜子さんの足」

「え?」

「綺麗だな……」

「あ……」

 優人は呆気に取られた。

 インディゴブルーのスリムジーンズに包まれた小夜子の足の曲線は、遠くからの後ろ姿でも中々に映えていた。

「ねえ、各務さん」

「な、何?」

「各務さんと小夜子さん、今交際(つきあ)ってるんですか?」

「な……」

 直球過ぎる質問に優人は慌てた。

「た、単なる幼なじみだよ。ほとんど腐れ縁。あいつ昔からうるさいんだ……ま、おれとあいつを見てそんな風に思ったの、君が最初じゃないから……」

 しどろもどろ気味に、優人は説明した。

「ふーん。そうなんですか……」

 分かったような分からないような、気の抜けた返事を亜実は優人に返した。

「とにかく小夜子とは何でもないよ……じゃ、駅まで送ってくよ」

 二人は歩みを早めた。

 亜実は勝田市の隣の逆井市から電車で東高で通学していた。最寄駅は、〝サヴォイ〟から歩いて二〇分くらいのところにあった。

 無人駅のホームに立つ亜実に手を振ってから、優人は家に向かって自転車を走らせた。


執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。

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